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選択権は帝にあり

そよそよと秋らしい風が吹き抜けていく部屋で、久礼人は届けられた(ふみ)に目を通していく。

急いでいたのだろうか、少し薄い墨の文字はわずかに崩れていて、いつも完璧な実明らしくない。実明の筆跡()は素晴らしいと久礼人も思っているから、こういった文は希少だ。

内容が内容でなければ、普段と違うちょっと慌てた字を笑って蔵人たちにでも広めるのだが、ちょっとどころか、この文には問題が大有りだった。


久礼人(くれひと)は深く息を吸い込んで、胸いっぱい吸ったものが空になるまで吐き出す。

この文の内容を放置しておく訳にもいかないが、近衛中将でもある実明を使いにやったままではいられないので引き戻すしかない。

不浄に触れて物忌(ものいみ)をしていると文には書かれているが、今頃はもう物忌も明けていることだろう。神祇官の代わりに同行させた実胤もいるから祈祷(きとう)ぐらいはしているかもしれない。

とりあえず実明は呼び戻し、代わりの者を派遣する旨を文にしたためさせるべく、久礼人は櫛形の窓へと声をかけようと腰をあげる。

こほんと誰かが咳払いをした。

そちらを見ると、ずっと控えていた尚侍(ないしのかみ)だった。


「……なんだ」

「主上、御用がございましたらお申し付けくださいまし」


年相応に落ち着いた声音で尚侍は久礼人に進言した。

尚侍の仕事は帝と公卿以下の者達の取り次ぎだ。書簡の取り次ぎだけではなく勅旨の伝達にも一躍かってでる、帝の側付きの女官。

尚侍はむすっとした表情で、久礼人の側に控える。

久礼人はどうして彼女がそんなに不機嫌そうなのか分からない。


「用という程の用では……」

「主上はそう仰せられますが、これも(わたくし)の仕事ですので」


見張られているかのように尚侍に見張られて、久礼人はため息をついた。


「……頭中将を呼び戻し、代わりに検非違使を同行させる文をしたためさせる。検非違使の人選は任せる」

「かしこまりました」


尚侍は頷いて窓の方へと移動しようとしたが、ふとあることを思い出して久礼人に確認をした。


「頭中将様を呼び戻してもよろしいのですか?」

「どうしてそんな事を聞く」

「いえ……不香花の君の話はまだ頭中将様のお耳には入っていないと思いまして。主上がお気になさらないのでしたら構いませぬが」

「そうだった……」


文の内容が深刻だったためにぽんっとその事が頭から抜け落ちていた。どうするべきか。

下手に言い分けをすれば実明は自分を見限るだろう。三雪の父である兼資(かねすけ)は右大臣の源伊道(みなもとのこれみち)に何を吹き込まれたのか、いそいそと三雪を入内させる方向で動いている。まさに板挟み。

話題に上がった時はあまり乗り気ではないような様子を見せていたのに、兼資が裏で動いているのが気にかかる。

久礼人は頭を悩ませる。


「尚侍はどうするのが最善だと思う?」

「お好きにすれば良いかと。元は主上の不始末です」

「耳の痛いことを……」


だが間違いではないのだ。

自分の不始末ではあるが、久礼人の身分を考えれば三雪が嫌がっても入内させることは可能だし、その逆も可能なのだ。それこそ実明のことを思いはかって一言「やめよ」と言うだけで終わるのだ。

それなのに、こんなにも悩ましく思うのはきっと久礼人が三雪に未練があるから。


幼き頃のあの光景、久礼人に何の枷もなかったあの瞬間。

また会おうと交わした約束が果たされた。

二度と交わらないと思っていた人生だったのに、再会を果たせたのはまさに神のおぼしめしなのではないだろうか。

そんな風に自分に都合よく考えてしまうのは、自分自身が期待をしているから?


そこまで考えて久礼人は苦笑する。期待しても、これは正しい筋が通っていない。

久礼人は尚侍に言いつけて文箱を持ってこさせると、自ら文をしたため始める。

丁寧な文章と綺麗な文字、震えを感じさせずに堂々と。

端的に綴った文を乾かしてから尚侍に手渡した。


「人をやるときにこれを持たせよ。頭中将にだ」

「拝見しても?」

「……面白いことは書いていないぞ」

「……そのようですね」


尚侍は無礼を承知で中を見る。

そこには「軽率なことをした、すまない」とだけ。

尚侍は呆れたように文を元のように折り畳んだ。


「これで誠意とは情けない……」

「ええい、うるさいっ! さっさと行けっ」


吠えるように追いたてれば、尚侍はやれやれと久礼人の命を叶えるべく、袿の裾を翻した。

櫛形の窓へと尚侍が声をかけるのを見て、久礼人はやれやれとため息をつく。


実明が戻って来れば事態は動く。

良い方にも、悪い方にも。

誰にとって良い道なのか、誰にとって悪い道なのか、勢力が二分された今、どちらにも転ぶ。

太政大臣・藤原和房を筆頭とした藤原一族は三雪の入内を阻止すべく動き、右大臣・源伊道を筆頭とした皇統氏族は三雪を入内させるべく動いている。この構図は(まつりごと)としてあまりにも危険だ。

自らの一族を繁栄させようと企む藤原氏の考えも、皇族の血を引くことに誇りを持つ源氏の考えも分かる。橘氏は源氏ほど過激ではない。兼資が長者となってからはさらに慎重、穏便な性格の氏族になっていたが同じ皇統氏族のよしみで源氏に同調したと見るのが妥当だろう。

この目に見える対立で重要な鍵となるのはやはり実明という存在だった。


「……すまない、実明」


ぽつりと久礼人は何もない空間に向かって謝る。

まるでそこに謝る相手がいるかのように。


公卿たちは知っているのか、知らないのかは分からないが、実明のその特異性には口を未だに出していない。

実明の生まれについて和房も伊道も言及しないので、そのまま放っておくに越したことはないが……

あの参議の場で不用意な発言をしてしまったことを久礼人は後悔する。

もしあの発言のせいで実明が苦しむことになるのならば、自分はどうすればいいのだろう。


実明が三雪から手を引けば藤原に叛くことになる。

逆に三雪と結ばれたなら源に叛き、その火の粉は橘にも移る。

どっちに寄っても実明にとっては最悪の選択になる。


久礼人は脇息にもたれると、疲れたように目を閉じた。

この選択は、久礼人でしなければならない。

それは上に立つ者としての義務。

では久礼人が選ぶ選択は。


「三雪……」


ぼんやりと遠くを見ながら、彼女の名前を呟く。

久礼人としても三雪の入内問題は実明と同じように八方塞がりだ。

家の問題は水面下で起きるため、久礼人の耳に入らない。久礼人の選択が実明の立場を左右するのは確実だが、久礼人が選択するのとしないのとでは実明への風当たりが変わってくる。


自分は三雪のことをどう思っているのだろう。

あのあどけない面持ちで、花のように笑って欲しい。

あの夜のように、流した涙をぬぐってやるのは自分だけでいい。

誰にも癒せなかった彼女の心の傷を自分が塞いでやりたい。

そうして少しずつ、彼女の中に自分という存在を刻み込んでいく。

無垢な彼女の全てを、この手の中に。

大切に育てられた姫君を、自分好みに。

何も知らない姫君を実明から拐い、男女の色恋を知らない彼女が誰かと体を重ねるその瞬間を想像してみる。

艶めいた黒髪、白い肌、紅潮した頬、潤んだ瞳、汗ばんだ肢体。

月明かりのもと、無垢な少女が見せるのは───


「……いやいやいや」


久礼人は首を振って自分で自分を否定する。最低だな私は。

でも、そこまで考えてでた答えはある。

───朱子と違って、三雪は色事の対象になるのだ。

幼女趣味というならそう言えば良い。自分よりも実明の方が重症だが。


帝という立場上、世継ぎは必要だ。

久礼人の即位は変則的だったため、自分の血筋を皇統としていくには世継ぎが必要になる。それも皇女ではなく皇子が必要だ。

未だに子供を作れていないこの状況。朱子が悪いのではなく、敬遠している久礼人自身が悪いのだが……

三雪相手にならば、その問題も解決できる気がする。


でも三雪はどうだろうか。

結婚相手が実明だと言い聞かせられて育てられてきた彼女は、突然の入内の話をどう思っているのだろうか。

大臣たちが動き出した今、きっともう彼女の耳に届いているに違いない。


もし選ぶ権利を自分以外に持つ者がいるとしたら、それは実明ではなく───彼女だけだ。

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