序
まだ十にも満たない童が、水干の袖と裾を地面に擦って何やら小さな体をもぞもぞさせている。
彼はそれが気になって後ろからそっと覗き込んだ。
突然影った空に驚いた童が、後ろを振り向いた。深い深い、藍色の瞳。黒と見間違えそうになるが光を弾いた瞳はきらりと青く輝く。
彼と童はぱっちりと目が合ってしまった。
童はあどけない顔で小首をかしげる。
「だぁれ?」
「え……と、わ、私よりそなたこそ誰だ。この寺のものではないだろう」
「わたし? わたしはね、みゆきだよ」
童はふっくらとした頬をにっと持ち上げて彼に笑いかけた。
自分よりも幼い童の笑顔にほだされて、自然と頬が緩む。
童はきちんと名乗った。そうであれば自分も名乗らねばと思いいたり、童の横にしゃがみこんだ。
「私は久礼人だ。そなた、何をしていたのだ?」
「これー! きれいなおはなを、おかあさまにあんでさしあげるの」
ミユキと名乗った童は、この寺の尼が丁寧に育てている花を摘んでは、つたない手で小さな花冠を編んでいく。
この花、勝手に摘んでも良かっただろうかと久礼人が首を傾げながらその手元を見ていると、二人の頭上が影った。
二人で顔をむくりと起こして上を見る。
「ミユキ様? 久礼人様? 何をしておるんで? 」
「きゃー! よーかいはなくいばばあー!」
「えっ!? は!?」
「こら、なーにを仰るか! 待ちんなさいー!」
童はとてとてとてー! と小さな足で逃げていく。
久礼人もつられて一緒に逃げてしまった。
何だ何だと簀子を歩く僧侶やお参りに来た貴族や下人が二人を視線で追いかける。
「またミユキ様がやんちゃを?」
「子供だから仕方無いのでしょうねぇ」
「おうおう、今度は何やったんかね」
微笑んで眺めている辺り、このミユキという童は中々にやんちゃな子供のようで、このような事を何度も繰り返しているようだ。
勢いで童の後ろを着いてきた久礼人はどこまで逃げればいいのだろうと息を切らせて思う。普段こんなに運動しないから。
子供の足だから、あんまり遠くまでは走れない。少し走ったところでミユキは沓を脱いで階をよいしょと昇った。
久礼人は迷って後ろから追いかけてくる妖怪尼の声を聞いて自分も沓を脱ぎ捨てる。
階を上りきると、ミユキがこっちこっちと御簾の隙間から手招きする。
久礼人は迷わず御簾のうちに入ろうとして一瞬ためらった。中に誰かいる。
でも後ろから妖怪尼の声も聞こえてくる。躊躇っていると、自分の半尻の袖を引っ張られて御簾に引きづりこまれた。
「……くっ、はぁ、どこに行ったかね……沓……」
きしきしと息を切らせた尼が階をのぼってくる。
声を圧し殺してミユキと久礼人は誰かの背に隠れた。
「ふむ……もし、橘の細君、こちらに童が二人参りませんでしたかな?」
「あら……子供達なら騒ぎながらそちらの方へ。またミユキが何か?」
「いえいえ、橘の細君のお耳にいれることでは……ただ老婆心ながら言わせてもらいますと、そろそろあのやんちゃをお止めになられた方がよろしいかと」
「そうね。都に戻ったら言い含めます。だからお山にいる間は多目に見て上げてくださいね。子供のうちが幸せなのですから」
「……」
尼が何か言いたげにしながらも、そろそろと簀子を移動していく。
御簾の内からそれを眺めていた久礼人は改めて自分を隠してくれた人を見た。
彼女はとても綺麗な女性だった。
黒々とした髪、春の色に相応しい襲の色。
匂い立つような美しい顏。
久礼人はどきりとした。
女性の曹司に入ってしまったのか。
久礼人があわあわと目のやり場に困ってちらちらと左右にやっていると、ミユキがその女性に抱き着いた。
「おかあさま! みてみて! おはなのかんむり。おかあさまにかぶせてあげるね」
「ありがとう、ミユキ。でもね、尼御前をあんまり怒らせては駄目よ」
「はーい」
ミユキが女性の頭の上に小さな冠を乗せてやりながら返事をする。
久礼人がその様子を見ていると、彼女がふわりと微笑んだ。
「久礼人様、私の姫が貴方を巻き込んでしまったようで申し訳ありません。人をお呼びしますのでしばしお待ち下さいませ」
「え、あの、いや……どうして私の名を……それにミユキは……」
「おや? 先客かな」
油断していたら外から声がかかる。妖怪尼かと身構えたら、女性にしては低く、歳ももっと若い者の声がかけられてそちらを見た。
ミユキがとてとてと御簾から出ていってしまう。
「さねあきさまー!」
「おやミユキ、外で遊んでたんじゃなかったのかい?」
「うん、くれひとさまとあそんでたのよー」
実明がミユキを抱き上げるとミユキはきゃっきゃとはしゃいで、やって来た狩衣の公達に話す。
「久礼人様も一緒なんですか?」
「……実明か」
久礼人は自分も御簾から体を出して簀子に出た。
ミユキを抱き上げている知り合いに、少しむすっとしている。
「知り合いか?」
「橘大納言の細君と、その娘君ですよ」
「……娘?」
「ふふ、姫がすぐにやんちゃをするので、動きやすいように童の格好をさせているのです」
御簾のうちから橘の細君の声がかかる。
確かにやんちゃだ。姫かと言われても、ただのやんちゃな童にしか見えないほどに、ミユキはやんちゃだった。
「……で、実明、お前は何をしに来たんだ?」
「古い知人への挨拶と久礼人様のお迎えですよ」
「知人?」
「ええ。顔見せ程度でしたので用は済みました。それよりも探しに行く手間が省けて何よりです。久礼人様に使いが参られてるので戻りますよ」
久礼人は不思議そうに首を傾げる。自分に来客?
「分かった、戻る」
「くれひとさまかえるの?」
「自分の曹司にな」
「またあそべる?」
「……遊ぶというほど遊んではいないが……まぁ、機会があったら遊んでやる。同じ寺にいる間ならな」
「やくそくねー!」
小さい指を差し出して、ミユキはにこにこと笑う。
久礼人は躊躇ったのち、微笑んで自分の小指できゅっとミユキの小指に絡んで契りを交わした。
その光景が微笑ましくて、実明も、橘の細君も柔らかな面差しで幼い二人の約束を見届けた。
◇◇◇
幼い二人の約束が果たされることなく、月日は過ぎ去った。
そして二人の再会は約束が色褪せ擦りきれた頃にやってくる。
宿命とも言われる細い糸が、くるくると、くるくるとまとわりつく。
年月を経る毎に縁を結ぶ糸は紡がれていく。
絡んで絡んで絡まって。
ほどけない程に絡まって。
どの糸が互いを結んでいた者か忘れてしまった。
道標が定まったのに、鬼の悪戯が神の遊戯か。
それとも人ゆえの性か。
これは哀しき宿命。
愛憎渦巻く後宮のその内に。
「───という占が出ました」
「なんだその無駄に詳細な占は」
「今私の中で大絶賛流行中の占術です。予めそれっぽい内容の符を並べておいて、式紙に適当に選ばせました」
狩衣を纏う中性的な面立ちの術師が、目の前にいる先達の術師にしれっと言う。
さらりと烏帽子の下からこぼれる髪に金糸が混じる術師がやれやれといった体で顔を覆った。
術師とは言うが、術師としての腕は中性的で華奢な方の術師が上だ。だからこの国そのものといえる、さるお方の直近の未来を占わせてみたのだが……
「なんてふざけた占なんだ……」
「だって先輩の教えてくれた奴、難しいんですもん」
表情を変えずに華奢な術師が言い返す。
先輩と呼ばれた術師はため息をつくと、改めて華奢な術師に言い渡した。
「だがまぁ、お前の力は本物だからなぁ……ま、占は占だ。当たるも当たらんも、その時が来てみれば分からん。とりあえずその意味の解読を進めておけ」
「解読も何もそのまんまだと思いますけど」
「そういうことじゃなくてなぁ……はぁ、まぁいい。俺がやっとく」
よこせと手を出されたので華奢な術者は占の結果を、目の前の術者に手渡した。
金糸の髪の術者はそれを懐にしまいこむ。
「とりあえずお前は次の任務があるまで自由にしておけ」
「まだ私こき使われるんですか?」
「使えるのがお前しかおらん。ここも古くさいことに縛られなければもっとよい人材が集まるだろうに……」
無い物ねだりになるのは仕方無い。
自分が占ったら別の結果が出ていたかもしれない。
そう思ってしまうが、出てしまったものは覆らないのだ。
占の結果を心に留め、金糸の術師は憂う。
この国の行く末、まさか色恋沙汰でどうにかなるわけないよなと……