文野幸子の文芸樂
執筆日:2015年12月2日
お題 :私が愛した音楽
今期初めて雪が降った日の朝、石塚が寝ぼけ眼でポストを覗き込むと、文野幸子からの手紙が入っていた。
「なんだ、珍しい」
と思って、目覚めのコーヒーの準備をしながら封筒を開けた。
拝啓、石塚先生へ。新刊読みました――
そんな一文から始まる、先月発売された本の感想が綴られた手紙だった。
文野から本の感想をもらったのは学生以来のことで、石塚はすこし嬉しくなった。
まだ俺の書いたものを読んでくれているのだな、という気持ちになった。
しかし、それだけのことなのにわざわざ手紙を書くのが彼女らしかった。
「携帯も持ってないからしかたないか」
上京した石塚と違い、文野は地元就職を果たした。会わなくなってかれこれ十年は経つだろうか。その間、彼女からはごくたまに手紙が来ることがある。近年はあまり寄せられなかったが、だいたいは今回のような本の感想だった。
ファンレターとは違う。文芸部時代の先輩にして師匠だった文野からの手紙は、石塚にとって通知表のようなものでもある。青かった時代に抱いていた甘酸っぱい想いも呼び起こされて、なんともノスタルジーでセンチメンタルな、起き抜けにはあまりにも強い目覚ましとなる。
石塚はさっそく机に向かい、引き出しを順番にひっくり返して便箋を掘り出した。が、奥深くに押し込まれていたためか、よれてぐちゃぐちゃになっている。さすがにこれで返事は出したくない。
「あとで買いに行くか……」
長い一人暮らしで多くなった独り言をもらし、石塚はもう一度、文野からの手紙に目を通した。
何度読んでも美しい文章だった。学生時代、彼女に抱いていた恋心は、この美文にも一因があるに違いない。彼女からはたくさんのことを学んだ。今こうして曲がりなりにも物書きとして食べていけているのも、文野幸子との出会いがあればこそだ。
「俺も先輩の新作、読んでみたいわ……」
ぽつりと、心からの願望がこぼれた。
既に筆を置き、二人の子持ちにもなっている文野にそれを望むのは、いささか難しい。
けれど、石塚がこの世で最も大好きな文芸作品は、他でもない文野幸子が書いた物語なのだった。
学生時代に発行した部誌は、未だに全て持っている。文野著作のページには付箋までつけ、仕事で行き詰ったときなどは、光明に縋るように開いて読んでいる。
彼女の文章は、石塚の神経にやさしく韻を刻み、体の内側で、まるで詩のように響く。
小説であり、音楽のようでもあり、光でもある。
石塚は今もなお、文野幸子の作品を愛している。




