文野幸子と誘惑
執筆日:2015年12月22日(火)
お題 :美しい抜け毛
夜、文芸部の先輩から借りた本を開いた石塚は、最初のページに一本の髪の毛が挟まっているのに気づいた。
汚いだとか、気味悪いだとか、そういう気持ちにはならない。ただなんとなく目にとまって、そのまま数分の間、目が離せずにいた。
外から見るといつもと同じ顔に見える石塚少年だが、彼の胸中は穏やかではなかった。
(先輩の髪の毛先輩の髪の毛先輩の髪の毛先輩の髪の毛先輩の髪の毛先輩の髪の毛先輩の髪)
彼には若干、変わった性癖がある。
石塚よりも一学年上の先輩、文野幸子は、小柄で地味な見た目だが妙な愛嬌があって、石塚はいつも、気がつけば彼女を観察していた。彼にとって幸子は気になる先輩であるのだった。そう、ちょうど目の前にある髪の毛のように。
とにもかくにも髪の毛である。石塚はその処理に迷った。吹いて飛ばせばただのゴミ。そのまま本に挟んだままにすれば気づかなかったことにできる。手にとってみるのはそこはかとない耽美さがある。セロテープではさんで保管するのは軽い性犯罪のような気もする。
というか、
「迷ってどうする!」
正しい世界に戻れた彼は、口惜しくもその髪を拭いて飛ばしたのだった。
数日後、石塚の正常性と変態性が天秤にかけられた出来事があったことなど忘れたころ、彼は借りた本を幸子に返した。朝、教室に行く前に廊下で行きあったので、その場で本を返したのである。
「どうだった?」
「なんか読みづらかったです」
「昔の本だからね。石塚くんもラノベばかり読まないで、もっとこういう文学に慣れ親しみなさい」
「はいはい――あ」
「ん?」
石塚は不意に、幸子の頭に手をかざした。
「先輩、ちょっと動かないで」
「なに?」
「ゴミついてます。……あれ、とれない」
幸子の髪にこびりついていたのは綿埃のようなもので、毛に絡まっているのかとりにくい。幸子の髪は癖があってふわふわしているので、こうしたゴミが絡みやすそうだった。
石塚が指でつまんで一気に引くと、ぷつん、と軽い感触があった。
「いっった!」
「あ、すません」
「ちょっと、髪抜けたでしょこれ。いたぁ……」
「すみませんてば。ほら、ゴミとれたから」
とった埃を見せると、幸子は不思議そうに目を細めた。
「どこでついたんだろう……まあいいか。それより痛かったわ」
「だからごめんなさいって……」
「先輩の髪を抜いた罰として、石塚くんにはさらに読みにくい本を貸し与えます」
「えー」
石塚が抗議の声をもらすと、ちょうど始業のチャイムが鳴った。
「あっと。じゃあまた部活でね」
小さな体でトテトテと小走りに、幸子は階段を上っていった。
石塚も短く返事をして、自分の教室に向かう。
その際、幸子の頭からとったゴミを、指を弾いて捨てようするが、何故だか指に力が入らない。
体がそれを捨てるのを拒んでいるようだった。
「……」
ゴミだけを器用に捨てる。
後に残ったのは、一本の髪の毛だけだった。
再び葛藤が起こっていた。
始まるホームルーム。
廊下を走る石塚。
手に残る髪の毛。
捨てろ! 捨てろ! と彼は心の中で叫んだ。
しかし体がそれを許さない。
やがて彼の手は、そっと。
制服のポケットに収まるのだった。
「嗚呼」
何かを得て、何かを失った気持ちになったが、しかし石塚は、新しい世界を見つけたような、ある種の清清しさも自覚してしまっていた。
して、しまっていた。




