文野幸子は平坦である
執筆日:2015年12月17日
お題 :彼が愛した壁
部室には、文芸部員たちがペンを走らせる音がいくつも響いていた。
軽やかに文章を綴る音、書きあぐねて重々しく進む音、様々である。
石塚はというと、遅々として文章が浮かばず、目の前の原稿もほぼ真っ白。彼の万年筆は紙に触れることなく、空中に彷徨うばかりであった。
(なーんも浮かばない……)
窓の外を見ると、色づいた銀杏の木に午後の日差しがやさしく降り注いでいる。なんとも暖かそうな小春日和であった。
気持ちのよさそうな天気とは裏腹に、石塚の胸中は穏やかではない。ここのところすっかりスランプに陥ってしまって、思うように筆が進まないのである。前回の〆切りにも間に合わず、先月発行された部誌に彼の作は載っていない。それもまた、気分がふさがる理由のひとつだった。
(先輩はいいな……)
自分でも知らずうちに、石塚はちらちらと副部長を覗っていた。
小柄な女子生徒、文野幸子は、なにやら表情をくるくる変えながら軽快に万年筆を操っている。原稿用紙はあっという間に文字で埋まっていき、一枚、二枚、三枚と嵩も増えていた。
(すごいな……)
羨望と劣等感が鎌首をもたげた。どうじに、彼女の書いている新しい物語を読んでみたいという衝動にも駆られる。
この副部長、性格と口は悪いが、作品は繊細で、文章のリズムが大変に心地よい。幸子の文章は、どんな文でも読んでいるだけで楽しい。石塚はいつも、幸子の小説に嫉妬しながら、心は酔いしれて読む。その所為でスランプに落ち込むこともあれば、逆に火がつくこともあった。
火がついて勢い書き上げた作品を、辛口に批評した相手もまた幸子である。
「結局なんのお話だったの」
幸子に言われたその一言に、石塚はすっかり打ちのめされて、以来筆が止まった。楽しそうに、しかし何かに取り憑かれたように書く彼女の姿に、石塚は憤りすら感じた。しかし同時に憧れた。憧れて、そして焦がれていた。
(何を言われてもいつでも書けていられるようになりたい……そしてあわよくばこのチビが唸るようなものを書きたい……)
メラメラとにわかに闘志が湧いてくる。認められたい。読ませたい。あわよくば感動させたい。超えたい。負けたくない。
文野幸子は、石塚にとってひとつのハードル、越えるべき壁であった。
(待ってろ絶壁!)
久方ぶりに生まれた闘志を、胸の奥で炎と変えて、石塚は文野幸子をにらみつける。彼女の顔を。軽やかに踊る筆先を。それを操る白くてちいさな手を。その奥に見える控えめな胸を。
(負けんぞ絶壁!)
石塚の万年筆が吼えた。
原稿用紙に文節が生まれる。
『そこは、見渡すかぎり平坦な平原であった――』
文野幸子は何かを察知し、一瞬だけ石塚の顔を見たのだった。




