酒と桜と犬の顔
執筆日:2015年12月16日
お題 :気持ちいい朝
甘ったるい花の匂いが、ズキズキと痛む頭には毒だった。
二人で見ると約束していた夜桜は、突然切り出された別れ話で反故になった。五年も連れ添った、今はもう他人になった女の顔を忘れる為に、明彦は飲めもしない酒を買い込み、一人で桜と酒に酔いしれた。
そして、猛烈に後悔している。
「うぐぇ……」
花見客で賑わう公園の隅。花も人もいない茂みの奥で、明彦は胃をひっくり返すように戻していた。腹から上がってくる熱い感覚が気持ち悪く、涙目になりながら吐瀉物を落とす。ただ、その余裕のなさは、痛む頭からひとりの人間の顔を忘れさせていた。
「うぇ……っくそ……」
ようやく治まり、ふらつく足取りで茂みを出る。真っ青な顔で、ゾンビのように自販機の明かりを目指し、震える手で財布を開けたが、小銭をばら撒いてしまった。
「ああ、もう……」
涙声で世の中やら運命やら、自分自身やらを呪いつつ、小銭を集める。
夜桜の見物人たちの喧騒が遠くの方から聞こえて、こちらの闇とは別世界のように感じられた。突然、猛烈な疎外感に襲われて、ついに嗚咽がもれてしまう。ひっひっと喉が震えると、またも吐き気が戻ってくるような感覚があって、とりあえず五百円玉を拾って五百ミリリットルの水を買った。
自販機の隣に腰を下ろして、明彦は喉に水を流し込む。冷たいだとか、気持ちがいいだとか、そういうのは分からない。ただただ、溢れそうになる何かを腹に押し戻すために水を煽り飲んだ。
深呼吸ができる程度には落ち着いてくると、自販機にもたれながら、明彦は目を閉じた。このまま寝てしまいたかったが、さすがに憚られた。
「……少しなら、いいか……」
けれど精神疲労の限界を迎えて、明彦はそのまますぅっと沈んでいった。
夢は見なかった。
それだけ疲れて、眠りが深かったのだろう。それとも、普段は飲まない酒が、彼に一時だけ、つらい現実から離れる時間を与えてくれたのかもしれない。
「ちょっと、こら、ペスってば」
しかし、子供の声と、なにやら変な生臭さに、安眠の時間も終りを迎えた。
明彦が目を開けると、鼻先に犬の顔があった。
「うわっ」
あまりのことに飛び起きると、すぐさま「ごめんなさいっ」と犬に謝られた。
いや謝ったのは犬ではない。犬の背後には、明彦に詰め寄る犬のリードを必死に引き寄せる女の子がいた。犬の飼い主だろう少女は、困りきった顔で「ごめんなさいっごめんなさいっ」と謝っていた。
明彦はゆっくりと立ち上がると、犬の頭を撫でながら、
「あっいや、大丈夫だから……かわいい子だね」
明彦は犬派である。なので、最初は驚いたが、人懐こそうな柴犬を見てとろんと顔が緩んだ。
「すみませんっ本当にすみませんでした~!」
女の子はがっちりと柴犬に組み付くと、そのまま犬を担いで走り去っていった。
寝起きドッキリに匹敵する騒がしさが去ると、明彦は、もう朝になっていたことに気がついた。結局、公園で一夜を明かしてしまったらしい。
「いつつ……」
痛む頭を抑えながら、ゆっくりと帰路につく。
ゆうべはよく見られなかった桜が、朝霧の中に薄紅色を溶け込ませていた。




