迷い人
先週、塾の帰り、ここで迷っている人がいてね……。
ゆかちゃんは北公園そばの自販機前に来ると、今にも泣きそうな顔でそういった。ゆかちゃんの家と塾は自転車で十分くらいの距離だ。メインの大通りから一本裏通りへ曲がるとすぐ北公園で、通り過ぎればもうウチたちの住宅街。
「なんかされたの?」
「ううん、ただまよっていただけみたい」
「なんか聞かれた?」
「ううん、まよってただけ。小さい子が」
続けてゆかちゃんが、「でもね、自販機の前を自転車で走り抜け……が……気持ち悪かった」と呟いた言葉は小さすぎて聞き取れなかった。
ウチは塾もおけいこ事もしていないし、暗くなってから一人で外に出ることがあまりない。けれど、この自販機を前に迷うのは良くわかる。種類が多く三段も列が並んでいるからだ。大人向けでウチが飲めないものを差し引いても、残りの種類から何を選ぼうかと悩んでしまうのだ。
日曜日の午前中二時間だけが、ゆかちゃんと一緒に遊べる時間。北公園に併設されているボルダリングミニチュアは結構人気がある。一応、カラーメットとひざ当て着用がママに言われた条件だけど、下は厚いマットだから落ちて転んでも柔らかく怪我はしない。昼近くになると人が増え窮屈に感じるので、早めに行って一緒に遊ぶ。色とりどりの突起を伝い、時に反動をつけ上の突起を目指す。一通り遊ぶと咽喉だって乾く。だから最初に自販機で飲み物を買っておく。
ゆかちゃんは決まって柚子のジュース。ウチはまちまちで、いつも今日は何にしようかと迷う。押しかけたボタンの隣りのボトルが気になったり、甘すぎはかえって喉が渇くかな? こっちは冷めたら美味しさ半減だな、とかとか、迷う。
「明日からちいにぃが大通りまで迎えに来てくれることになったの」
ゆかちゃんには二人お兄さんがいる。大きいお兄さんは会社へ行っていて、ちいにぃさんは高校生。ゆかちゃんはお兄さんたちに溺愛されている……と思う。それを羨むつもりはない。だって、ゆかちゃんにはお父さんがいないから。お兄さんたちがお父さん代りなんだと思う。だから言えない。そんなに怖かったなら塾なんてやめちゃばいいのにとか、そんな言葉はいえない。ゆかちゃんは勉強することが遊びより大事らしいのだから。
「じゃ、安心だね!」
そう返事をした公園からの帰り道。ゆかちゃんはうつむきがちで、まだ不安そうだった。夜の八時頃はそんなに怖いんだろうか? 公園のそばはそんなに怖いんだろうか? ゆかちゃんを見ているうちにそんな気持ちがわいてきた。夜といってもウチはまだアニメを見ているくらいの時間だ(だからウチは夜出かけない)。今日は好きなアニメが入る月曜日。いつもならウチは宿題を済ませ、ママに文句を言わせないようにお手伝いもして、テレビにかじりついている。
行ってみようかな……。
むくむくと湧いてきた入道雲のような好奇心にウチは捕らわれてしまっていた。落ち着いて考えればよかったのだ。夜、小さな子が一人で外にいるという不自然さに。
夕飯やお風呂を済ませたウチは玄関でママに聞こえるように、すぐ帰るから! それだけ叫んでドアを閉めた。やり取りしていたら一緒に行こうとか、なんで? とか、お茶もジュースもあるからとか――引き止められるのは確実だ。アニメの録画予約も済ませたし、叫んで一目散に走り出した。
北公園は町内のようなもの。徒歩でも往復十分とかからない。自転車を取り出している時間が惜しかった。走って家から二軒ほど離れて振り返り、ママの姿がないのを確かめてから歩き足。
北公園の自販機はすぐに見えてきた。道沿いの街路灯より明るくはっきりわかる自販機。辺りに人の姿はないけれど、大通りからガガーゴゴーと聞こえる車の音が、ぽつんと一人ぼっち感を薄めてくれる。
自販機に大きな羽虫が止まっているのが見えた。明かりに誘われてきた蛾だろうか? 子どもの姿は見あたらない。少~しがっかりと安心が入り混じった気分だった。せっかく来たのだからなんか買って帰るつもりはあったので、そのまま自販機に近づきながら、羽虫は気持ち悪そう、近くまで行ったら逃げるかな……帰っちゃおうか……どうしようか……迷いながらゆっくり歩きが止まらない。
羽虫がどんどんはっきり見えてきて、ウチは迷ったことを後悔した。羽虫と思ったそれは白い小さな手だった。
大通りの信号を渡る途中、ちいにぃの姿がはっきり見えた。
「ゆ~かっ! こっちこっち!」
もう……そんな大声を出さないでよ。と思うもののちょっとだけ嬉しい。
三年前お父さんが亡くなってしばらくの間、ちいにぃはわたしに構ってくれなかったからだ。どうしてなのか知ったのは去年。もとにぃとちいにぃとの約束をちいにぃが教えてくれた。今わたしはそれに便乗している。
お父さんが亡くなった時、もとにぃは決まっていた大学進学を諦め、働くことにしたのだそうだ。その変わりちいにぃには必ず進学させてやるからと言ったらしい。ちいにぃはもとにぃの負担を少なくするためお金がかからない大学を目指した。そのかいあって志望大学も決まりA判定なのだとか。この頃はわたしの勉強も見てくれる余裕も、こうして迎えに来てくれる時間も出来たのだ。
特別貧しいわけではないけれど、少しでも負担を減らしたいから、わたしなりに考えて節約に協力している。お小遣いも友達……りさちゃんよりずっと少なくと自分で決めた。りさちゃんと北公園で遊ぶ時に、いつも買うのは柚子ジュース。柚子ジュースはあの自販機で一番安いからだ。りさちゃんはその日でいろいろなものを選ぶ。少し羨ましい気もするけれどジュースを買えるだけましだと思うから気にしないことにしている。
塾はお金がかかるけど私立の高校や大学に行くよりもずっと安上がりで、今ならちいにぃの大学と重ならない。今のうちにしっかり基礎を覚えれば、中学生になってからちいにぃのように独学で頑張れる。そう教えてくれたのもちいにぃだ。
塾帰り北公園そばの自販機で、小さい男の子を見かけたのは先週の月曜日。暗い中、押したいボタンに手が届かないのか必死でつま先立ちをして、一本伸ばされた人差し指がふるふるしていた。手伝ってあげようかと声をかけたけど、返事はおろか振り返ろうともしない。何度か声をかけたけど、まったくの無反応で、ただ、指先というより体全体を伸ばしボタンを押そうと必死になっている。自転車を降り、隣に行ってあげれば良かったのだろうが、すでに五分以上経っていた。遅くなると兄さんたちに余計な心配をかけてしまう。わたしはそっちの方を優先する気持ちが強かったので、結局そのまま通り過ぎてしまった。
……のだけど、それは言いわけで、本音は面倒くさい気持ちが強かったことに、気づいたのはベッドに入ってから。あの子に優しくなかった自分に自己嫌悪を覚え、だから、誰にも言えなかった。兄さんたちにもりさちゃんにも。言葉にしたら本当に自分がひどく意地悪な子になってしまいそうだったからだ。けれどそのことはずっと棘のようにひっかかり消えなかった。
塾は月水金。ちいにぃは塾のない日私の家庭教師になる。水曜の塾帰りは何もなかった。それに安心したのかもしれない。木曜日の夜、わたしはちいにぃにその子のことを話した。ずっと黙っているのが気持ち悪く、けど本当の気持ちは言えなくて……ただ何度声をかけても返事もしなかったのよ、とだけ話しておいた。
「夜にそんな小さい子が一人っておかしくね? 幽霊だったりしてな」
ちいにぃはそう言った。そしてすぐ冗談だよ、と笑い飛ばしたのだけど、わたしはそれが正解なのかもと思った。お父さんが死んだ時、心残りがあると成仏できない――と、そんなやり取りを大人の人がしていたのを思い出したからだ。
だから……金曜の夜は自販機の前をみないように走り抜けた。しかし、一か所だけ明るく目立つ自販機が見えないはずもなく。通り過ぎる一瞬、自販機にべたりと張りついた小さな白い手が見えぎょっとした。見間違いかも知れない。けど、ちが、うかもしれない……家までの短い時間がとても長く感じた。
あれは子どもの幽霊なんだろうか。最初にボタンを押すことが出来なくて、あんな手の霊になってしまったのだろうか。月曜日、自転車を降り手伝っていたら……ボタンを押してあげていたら……こんなことにはならなかったのではないか。あの時、自分が優しくなれなかったせいで、小さな子供が彷徨っているのだとしたら。そのことが悲しく、自分がとてもひどい人間になった気がして、家に入るなり、泣きながらもとにぃにしがみつき、さっき見た手の話をした。けれど、恥ずかしさで月曜の事は話せなかった。もとにぃはただ無言で支離滅裂な話を聞いていた。そしていったのだ。
「ゆか、塾、やめようか」と。
もとにぃはわたしが勉強することが嫌になったと思ったらしい。だから、こんなありもしない話を作ったのだろうと。もとにぃと言い争いのようになりながら、やはり優しくなかった月曜の事はどうしても話せなかった。そして、
「そうじゃない、違うのぉ!」
そう叫んだ時、「何事だ?」と、ちいにぃが帰ってきた。ちいにぃは月曜のことを知っていたから、信じてくれたのだろう。もとにぃに、
「俺が迎えに行くからさ」
そう言ってくれた。
もとにぃはちいにぃに向かって、無理やりは良くないなどといい、しばらく二人で小声でやり取りしていたが。ちいにぃが上手く説得してくれたのだろう。わたしの塾は続けられることになった。
いつもは何でも話すりさちゃんにさえ、全てを話したら軽蔑されそうで、ちょっと曖昧な言い方をした。りさちゃんは、初め心配そうな顔をしたけれど、たいして気に止めなかったようで、ホッとした。
歩いて迎えに来たちいにぃ。わたしは自転車を降り帰路についた。もうすぐ……あの角を曲がると北公園がみえるはず。怖いのと、元は自分の不親切から起きてしまったことへの罪悪感。それを隠している卑怯な自分に押しつぶされそうで、ちいにぃに自転車を引いてもらい、しがみつき後ろに隠れるように歩き続けた。とうとう自販機の見えるところまでやってきた。ちいにぃの足がぴたりと止まる。思わず横から顔を覗かせると地面にしりもちをついている、りさちゃんが見えた。
それまで元気に外遊びをしていたゆかが、俺の話を聞いて以来机にかじりつくようになった。ゆかは真面目な基樹兄さんに性格がよく似ている。勉強なんてしたい奴がすればいい。俺はそういう結構いい加減な中学生だった。突然父さんが事故で亡くなったあと、思いつめたような顔で兄さんに云われた決意に、逆らうことも出来ず、うん、と頷いていた。兄さんの諦めた進学を引き継ぐ義務があると、そんな気持ちになったのだと思う。
基にぃの期待を背負ってしまったあの時から、俺は子どもであることを止めた。基にぃには内緒で部活を辞め、出来のいい友人宅へ押しかけて、むちゃくちゃがむしゃらに勉強しつづけて、どうにか国立大が狙えるくらいになった。
あの時は少し自慢したかったのかもしれない。ゆかに見栄を張って見せたかったのかもしれない。今では余計な事をいってしまったな、とも思う。ゆかは基樹兄さんに似て実直な面がある子だったのに。
好きに遊んで子どもらしく過ごすゆかを羨ましく、妬ましく思っていたのに、以来、さも当然のように塾へ通い出し、ここ教えて! と一生懸命だ。俺と違って勉強することを嬉々と受け入れているのをみて、この間の自分が情けなく思えて仕方なかった。
ゆかから塾帰りにみかけた子のことを聞いた時。本人は言わなかったが、手を貸さなかったことを後悔しているのは、気性からすぐ察しがついた。だから……ほんの思いつきであんないたずらを仕掛けたのだ。
ゆかが必ず通るはずの公園そばの自販機に、綿を詰め膨らましたミニ手袋をぶら下げ、隠れてゆかを待った。ゆかはきっとすごく驚くだろう。もしかしたら泣き出すかもしれない。そしたらすぐに出ていって笑い飛ばしてやるつもりだった。この頃お前頑張り過ぎだから、ちょっとからかいたくなったのだと、そういってやろうと思っていたのだ。しかし、まさか、ゆかが猛スピードで自販機の前を通りすぎてしまうとは――。
予想外の事態にちょっと驚いたけれど、いたずらなんてこんなもんだろう。ひっかからないことの方が多いもんだ。上手くいかなくて当たり前。上手く行ったら万々歳。隠れてゆかを見送った後手袋を片づけ、しばらく座って呆けて苦笑を呑みこんで家に帰った。
まさか、基樹兄さん相手にゆかが泣きわめいているだなんて思いもしなかった。ゆかは無理して勉強しているのではないのだと、塾を辞めたいわけじゃないんだと、必死でそう繰り返していた。あの場であれは俺のいたずらだったとはとても言い出せる雰囲気じゃなかった。
なので今日、再びあの仕掛けを仕込んでおいた。今夜正直にゆかに話すつもりだったからだ。まさか……俺たちの前にりさちゃんがひっかかって腰を抜かすほど驚いているとは――。困った俺は自販機の前で手袋を手に取り二人によく見せた。しかしそれをやったのが俺だとはとても言えない。それを知ったらゆかの親友りさちゃんが怒ってゆかにまで害が及ぶかもしれない。結局、誰かの悪ふざけだろうと、そう話しその場を収めた。りさちゃんを助け起こし家まで送り届けた別れ際。ゆかはりさちゃんに、
「じゃ、おやすみなさい。いたずらってわかって良かったよね」
そう言った。
家の前についた時……。
「ねえ、ちいにぃ。あの子はなんだったのかな?」
白い手がいたずらとわかっても、ゆかの気がかりは消えていない。せめてその子を探すことが出来たなら、ゆかは安心出来るだろうか。
罪滅ぼしになるなら……。
「たまたまだろう? もしかしたらまた居るかもしれないし、俺が探してみる。だから気にすんな」
ゆかを迎えに行った翌日から芳樹の様子がおかしい。口数が減り毎夜出歩くようになった。まるで僕を避けていた三年前に戻ったように。父親の死後、医大進学を諦めた僕は芳樹に心配するなといった。
医大に進む方法はいくらでもあったが、金銭面以上に母一人にのしかかる家族への責任、その荷の重さを慮り、一日でも早く家族を守る立場に立たねばと思ったのだ。葬儀の合間、時折目にした母の呆けた表情がそうさせた。
四十九日の法要が終わった夜、決心を告げると母は反対し泣いた。父の死後初めて見せた涙だった。その涙を僕らに見せないようにしていたのは、朝、腫れぼったい瞼を幾度となく見ていた僕にはわかっていた。だからこそ、弟妹には父親代わりの存在になろうと、新たな目標を持ったのだ。
そういう思いで話した就職する決断と、「芳樹は大学にも行け、心配するな」だったのだが。自分が口下手だったのと、芳樹が幼すぎたのかもしれない。今になって芳樹には迷惑な押し付けだったのでは、と思えてくる。
あの時は自分がしっかりしなければと意気込みながら、自分の決断や未来に漠然とした不安も付きまとっていた。進学できない未練を芳樹に半分押し付けようとしていた気がしないでもない。
気づいた時、芳樹はすでに部活を辞めていた。かといって別段問題を起こすこともなく。今は年相応以上に現実的に物事を考え、ゆかにもいい兄として接している。今はなくなったと安心していたのだが、当時感じていた危うさのような気配……それがここに来て一気に表面化してしまったのか。再び、夜ごと出歩くようになった弟が気がかりで仕方ない。年頃なのだからガールフレンドでも出来たかと思ったが、そんな様子とも違う。
今度こそ、芳樹と正面から向き合う時がきたんじゃないのか? 帰宅して着替えるために戻った部屋で、階下に降りる芳樹の足音を聞きながら、僕は部屋を後にした。
「芳樹、どこへ行くんだ?」
一人で夕食を摂っている弟に聞いてみる。
「ゆかを迎えに行くに決まっているじゃないか」
母は午後からの仕事についており、帰りは九時過ぎる。毎晩きちんと支度された夕食はゆかが帰ってから兄妹三人で食べるのが常だ。
「いくらなんでも早すぎるだろう。まだ七時にもなっていない」
ゆかの迎えがある日、芳樹はこうして家を出て、ゆかを送り届けるとまた出ていく。ゆかの迎えがない日は僕が帰るとゆかが一人で家にいる。芳樹が外にいる時間は決まって七時から九時。
「探し物をしてるだけ」
「可能な限り家族で一緒にご飯を食べるのは、僕たちの約束だったよな?」
「だから今はそれが不可能な状況。事情はゆかも了解している。基にぃには関係ない探し物だから」
これ以上は何も話すつもりはない。ガタガタと食器を下げる背がそう語っていた。ゆかも了解していると言われ、少し安堵した。少なくとも二人の間に亀裂が出来たわけではないようだ。ふとこんな時、父親ならどう対応するのだろう、と考える。恐らく問い詰め事情とやらを聞き出すのだろう。だが……僕は父代わりのつもりであっても、実際は兄。もし父が生きていてこの場で芳樹を問い詰めたら、僕は芳樹に味方するんじゃないか? 兄として弟を信用するんじゃないか? この前のゆかを芳樹が庇ったように。
結局のところ、僕は弟妹を守っているつもりで、二人に支えられている弱い人間なのかもしれない。
目の前の芳樹は三年前の芳樹じゃない。三年前の自分と同じ高校生だ。しかも僕より様々な苦労も葛藤も経験しているはずの高校生。なら兄として待ってみようか。いずれ二人が話してくれることを。先ほどの決意が消失していく自分が少し情けなかった。
ゆかが子どもをみかけたという時間帯、この辺りはさして物騒な場所ではない。公園は小さいもので、周囲には普通の家やアパートが建っている。今は大通りが出来たが以前はここが生活道路で、今でも当たり前のように多くの人が行き交っている。だから小学六年のゆかが一人で塾へ行くことを、基にぃも俺も心配しなかった。
自販機は通りに面しているが、道路より少し奥まっているし、裏手にベンチや縦長灰皿があり朝夕にお年寄りが一休みしているのもよく見かける光景だ。ゆかの言う小さいが何歳くらいなのかはわからないが、親子連れが自販機に立ち寄っても不思議ではない。
有加が遭遇した場合でありうる可能性は『知らない人に声をかけられてもついていかない』だろう。俺たちがゆかによく言っていたことだ。相手の子が返事をしなかったのは、そう教えられていたからだと俺は考える。
ゆかにそう言ってやれば済むことなのかも知れないが、ゆかの親切心が不審者扱いにされたというのは、あまりにも不憫な気がした。だいたいにして小学生の女の子を不審者と同じにするなんてあまりにも酷すぎる。その子をみつけたら、その親に一言ってやろう、俺はそう思っていた。
夜の散歩は公園を一回りし、自販機裏のベンチに座り時間つぶしに参考書に目を通すだけ。字が読めるくらいここの照明は明るくて、悪さなんて出来やしないし、変な不良グループが集まっていることもない。散歩をはじめて半月くらい経った頃。俺はそれらしき男の子を見つけることが出来た。
父親らしき男性と手をつなぎ、公園に併設された施設から出てきた男の子が、一人で自販機に駆け寄ったのだ。チャリンと音がして……次にあるはずのゴトンが聞こえない。しばらく経って男性が子どもに近づき何やら話していたが、ゴトンという音と二人の笑い声がした。そっと覗き見ると男性に肩車された男の子が両手で持ったボトルを男性の頭に角のように立てて……二人の影は俺の家と逆方向へ消えていった。
何度かその親子連れを見かけた頃、俺は思い切って父親に事情を話し、返ってきた返事は……。
「この子はちょっと耳が遠くてね、聞こえなかったんだよ」
怪我による難聴で治療中なのだそうだ。そのため友だちがなく父親が管理する施設の一つ、北公園に併設されたボルダリング場の施錠前に二人で遊んでいるらしい。
「まだ、小さいんだから、ちょっとの間でも一人にしておくんじゃないよ!」
八つ当たりともいえる俺の言葉に、父親は「今後は気をつけます」としおらしく頷く。逆にばつの悪さに包まれた。
――数年後――
ゆかの卒業祝いを兄弟三人でした。母さんはなぜか「遠慮しとくわ」と仕事を入れた。少しアルコールが入ったゆかが昔の思い出話を始める。追随するように泣き笑いした過去を芳樹も僕も白状しあう形になった。芳樹の夜遊びが続いた時期が一番気がかりだったと話すと、それに付属したエピソードがゆかと芳樹から出てくる、出てくる……。
りさちゃんまで巻き込んでとんでもないことをしたらしい芳樹。ひたすら幼心を痛めていたらしいゆか。今なら笑い話で済むけれど、当時の僕は蚊帳の外だったのか、と多少の疎外感に襲われる。
「基にぃは仕事で必死だったしな、俺はゆかにどうしたら顔向け出来るかって、一応必死だったし」
「ところでちいにぃ、あの子とは今も遊んでるの?」
「いいや、半年くらいの付き合いだった。子どもの相手は子どもが一番だろう?」
「そっか、元気にしてたらいいね」
知らない間に大人びた弟妹の姿に、つまるところ、子どもは勝手に育つのだ、と今更な自分がいた。
「良い子のみんな~、こぉん・にぃ・ちわぁー!」
マイクから響く少女の声が鼓膜を突き破りそうな勢いで響いてきた。
外野ステージでパッションピンクのミニスカ……の下からお尻をくるむ厚手のパンツが左右に揺れている。少女の右手には太くまあるいバトン。てっぺんには陽光を反射してクルクルまわる星。それを生きてる蛇のように操作する姿はチアガール顔負けの技量。
「はぁ~い、ウチがマジックアイドル【かぐらちゃん】でっすっ。みんな知ってるよねえっ~?」
ステージショーは始まったばかりらしい。俺は【かぐらちゃん】を知らないが、五十席ほどのパイプ椅子を埋めるちびっこたちには人気なのだろう。そこここから、熱狂的な歓声と、無数の高く翳された腕が手が振りきれそうに飛び交っている。場違いな違和感をいや増しするような冷風を受けて俺は身を縮めた。
「やっぱ、むりっしょ……かえろ」
ステージにくるりと背を向けたとき。
「あっ、そこっ、帰らないでネッ、おにいさ~ん!」
マジックアイドル【かぐらちゃん】に扮した、りさちゃんが、はっきりと俺に向かって叫んだのだ。振り返ると【かぐらちゃん】の大声でいっせいに俺を見ている子供たち。その先には……背広姿の若い男が、驚いたような変顔でステージに向き直るの図。子どもたちのつぶらな視線が、てぐす糸ならば、数十本のてぐす糸の先端が一つの槍になって心臓か頭を貫くような衝撃を受け、俺は一歩も動けなくなってしまった。
それを見越したように【かぐらちゃん】が再びマイクで叫んだ。
「お待ちしていました! 良い子のみんな、あそこにおられるのが何を隠そう、かぐらが待ち続けていたヒーローなのです。きっと、探し出してくださると信じておりました! だから一緒にお呼びいたしましょう。お消えにならないように、再びお別れするようなことがないように、一緒に呼んでいただけますか? みなさん!」
それに飛んだり跳ねたり体いっぱいに同意の表現を示す子どもたち。【かぐらちゃん】の音頭で俺を見据えて叫んだ。
「ヒーローのおにいぃさぁ~ん!」
穴があったら入りたい……というか全速力でその場から走り去りたい。そんな状況で固まった両足を叱りつけることが出来なかったのは、百に近いキラキラした瞳と赤いほっぺの集団……その中に見知った面影を持つ少年を見つけてしまったから。なぜかドキドキが少し和らいで、駆け寄ってきた少年に手を取られた俺は最後尾席に座った。
ウチと有加、二人で卒業旅行に行くことになった。今回の行先は京都。そこは長い付き合いですぐに一致した。旅行会社に勤めている基樹さんの采配で、結構グレードの高い、趣がある和風旅館に泊まることが出来た。お料理も懐石なのに洋風を取り入れた創作料理が並んでいる。女性二人でも安心な女性ガイドさんつきの貸切タクシーでお目当ての名所巡り。贅沢なのだけど格安料金で、もしかしたら基樹さんが身銭を切ったのかな? と思ったり。露天風呂を堪能し枕を並べてよもやま話が尽きない。
「ねえ、李砂、子どもの頃の北公園手首事件。あれ覚えている?」
有加の言葉に自分でも知らず知らず頬が熱くなっていくのがわかる。
「忘れるわけないじゃん」
だってウチはあれがきっかけで、芳樹さんのことが好きになったのだ。
あの時、ウチと眼があった有加は顔が歪み唇が震え、泣きだす寸前だった。きっとウチも同じような表情をしていたのだと思う。そんな状況で芳樹さんは自転車を素早く止め、むんずっとあの手首を自販機から引っ剥がし、『作りもんだ!』そういって白い手袋の中から綿を引っこ抜き、そばにあったゴミ箱に放り込んだ。以来、芳樹さんはウチのヒーローになった。
「あれね……実はちいにぃのいたずらだったんだよ。この前聞いたの――」
有加の話は子どもの幽霊がどうのこうのと続いていたのだが、ウチには有加の声が別のどこからか流れる"音″に変わった。数日前に聞いたガラガラガラガラ……大きな岩が砕け散る音。そして『現実を正視せよ!』という言葉が甦る。
今も昔もウチの頭にはヒーローが住んでいる。リアルは堅実ながらアニメ中毒でヲタクと呼ばれる顔がある。
北公園手首事件……あの夜から芳樹さんはウチのヒーローになった。
大人に近い芳樹さんをずっと追い続け、早く社会人になりたくて専門学校を選択し、今なら恋愛対象と認めてもらえるだろうと、バイト先に招待し告白する決心をした。
有加から聞くまでもなく、いたずらのことは告白した時に芳樹さんから聞かされていた。
「俺は昔からそんな奴だったんだ。李砂ちゃん幻滅させちゃって申し訳ないんだけど」
ウチの必死の告白に芳樹さんはそう打ち明け気まずそうに横を向いた。
『現実を正視せよ!』
前夜に見たアニメのヒーローは最後にそう叫んで宇宙の彼方へ消え去った。まるで今の状況にピッタリなセリフじゃないか、そう思った。ヒーローは最後一番かっこよく決めるか、輝いて去っていくのがお約束。ガラガラガラガラ……ウチのヒーロー像が壊れ去る音。だけど……マジックアイドルショーに芳樹さんを呼んで、告白したのはそれなりの意味だってあったわけで。理想像と現物は違って当然。ウチは本来のウチを見てもらおうと思ったのだ。
「アニメ好きが興じ、この歳になってもまだこんなバイトをしているの」
そう打ち明けて、
「傍から見たら恥ずかしいこと、嫌な自分、すべてひっくるめてウチなんです」
そうやって押し押しで好きを伝えたら、玉砕しても諦めがつく……そう思ったのだ。
「出来がいいと思っていた基樹兄さんにも、弱さも強さもあってさ。それでいいんだと思えるようになった。李砂ちゃんだってそれでいいんじゃない?」
結局、玉砕したけれど、芳樹さんはそう言って笑ってくれた。
有加の話は続く。
「その子が幽霊じゃないってわかったのは、ふた月くらい経ってから。耳が遠い子で友達が作れなかったらしいの。それを見つけたのもちいにぃだったの。ちいにぃがその子を日曜の午後、公園に誘って遊ぶようになって、だんだん周りの子とも馴染めるようになったんだって」
それは初耳エピソード。芳樹さんはやっぱりヒーローだ! 帰ったら芳樹さんに再度アタックしてみるか、諦めるか……迷いながらウチは頭から布団を被った。
(おしまい)
最後までお読みいただきありがとうございました。
個人的な趣味に走った楽しさ詰め合わせという、自己満足作品です。読み難かったら申し訳ありません。
主催のありま氷炎さん、そして企画参加の皆さま。お疲れさまでした。&ありがとうございました!