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3月も終わろうとしているこの季節、昼間は陽気に包まれるが、深夜ともなるとまだまだ外は肌寒い。
今、線路は南西へと向かい、地上へと降りる緩やかな下り坂になっていた。
見上げた先には、濃紺の夜を下敷きにして、名前の分からない星座が空に貼り付けられていた。北に目をやれば、なんとか北斗七星を見つけることは出来た。西の空に見えるあの星座はなんという名前だったか。
思えば、昔はもっと色んなことを知識として持っていた気がする。星座の名前は元より、どの季節に見えるか、どれがα星であるか、その名前……。
星空だけではなく、夏に山や公園で捕まえた虫、その虫の捕まえ方。図鑑で調べた動物、草花。地図で見た町の名前、連れて行ってもらった土地……。興味のあるものを知りたい分だけ、無限とも思える吸収力と、今では真似出来そうにない驚異的な探究心と集中力。
それはいつしか、紙と液晶の上での数字を高めることにだけ使われ、知る喜びは単調な作業へと変わり、調べる楽しさは手間と手段に変わる。興味の対象は過去の憧憬となり、新しい思い出と一時的な知識に埋もれ、やがて記憶から薄れていった。
あの星座はなんという名前だったか。
「おおぐま座は北だから……」
「あれはおとめ座ですね」
女の子が僕の見つめていた星座を指さして答えた。
「西の空で沈みかかっているのがしし座。その反対、南の空の高いところにあるのがヘルクレス座です」
「詳しいですね」
僕は驚き、女の子は照れ臭そうに、少しだけ、と笑った。
「私、昔から本を読むことが好きだったんです。絵本や児童文学だけじゃなくて、図鑑とかもよく読んでました。
住んでたのが田舎ってこともあるのかな……。外で遊ばずに家や図書館に籠ることが多くて、自分でも言うのも変ですけど、同年代の子に比べて、結構物知りだったんじゃないかと思います」
昔を懐かしむような彼女の淑やかな語り口に、僕は耳を傾けた。
「星座とか天体にも、長い間興味を持っていましたね。夜に明かりの少ない場所に行くと、星がたくさん見えました。えっとなんて言うんでしたっけ、星座を調べるための」
「星座早見盤?」
「そう。それです。早見盤を持って、両親にもよく星の見えるところまで連れて行ってもらいました。
だからなのかな……。今でもちゃんと覚えてるんですよ。星や星座のこと」
僕は感嘆した。この子は僕のように、昔得た知識を埋没させず、きちんと自分の中に残しているらしい。経験と知識と思い出を、忘れず、失くさずにいられること。僕にとってそれは至難だ。
「僕にはそういう経験はないので羨ましいですね」
素直に呟いた。
「いや、本当にただ田舎だっただけですよ。本を読んだり、景色を見たり、星を眺めたりすることしかやれることがなかったんです」
女の子は恐縮そうに照れた。決して田舎への羨望という意味で言ったつもりはないが、僕は敢えて訂正はしなかった。
視線を線路の先へ戻す。家屋の屋根が間近に迫るほど、下へと降りてきていた。
目的の駅はもうそれほど遠くない。それは彼女との別れも近いことを意味していた。
それともう一つ、この夜の、この一日の終わりも近いという事だった。
隣では、女の子が他愛もないことを語りかけている。自分の育った町のことや学校でのこと、街に出てきてからのこと、これからの仕事のこと。つい2時間程前とは比べられないくらい饒舌だ。僕は軽く相槌を打ちながら、ぼんやりと思考を漂わせていた。
女の子の話題が途切れ、今日何度目かの沈黙が訪れる。
視線の先には目的の駅舎が見え、気が付けば高架も降りきっていた。横にはフェンス越しに並走するアスファルトが延びている。
女の子も、周りの風景の違いに気付いているだろう。無意識に歩くペースが落ちる。
そして僕は、昔この鉄の轍をよく踏んでいたあの頃を思い出していた。
もう少しですね、と彼女の呟きが漏れた。その声が、どこか寂しそうに聞こえたのは、或いは僕の期待だったのだろうか。
「子供の頃」
僕の唐突な発言に、彼女が顔を向けた。
「たまたまテレビでやっていた、とても古い映画に憧れたことがあったんですよ」
映画のタイトルを言っても、彼女は、知らない、と首を横に振った。
「もう百年以上前の映画です。子供達が主役のちょっとした冒険もので、田舎町を舞台とした物語でした。その内容というのが、仲の良い少年4人で、あるものを探しに行くという内容で、その移動手段が実に面白いんです。何だか分かりますか?」
「子供達が、ですよね? だったら歩いていくか……自転車のどっちかかな」
「そのあるものの場所まで歩いていくんです。しかも、線路の上を」
女の子が何かを察したようだった。
「森の中を線路が通っていて、子供達はそこを1日かけて歩くんです。
途中、沼で蛭に噛まれたり、鉄橋を渡る時に列車が後ろから迫ってきたり、道中喧嘩をしたり。夜には焚火の前でそれぞれの秘密を打ち明けたりして。
映画自体はその1回しか観てないんですが、映像や物語は、僕の中に物凄く強い印象を残しました。だからなんでしょうね。いつかどこかで、その映画の真似事をしたいな、と思いながら過ごしていましたね」
「それが今日叶った……? あ、違いましたね。学生の頃やってたって」
「そうなんですよ。その頃仲の良かった友人が、その、結構やんちゃな子でね。
確かあれは、何かの打ち上げの後だったかな? 今日みたいに終電を逃した時に、『こっそり線路通ってみようぜ』なんて言い出したんです。僕も最初は止めようとしたんですけどね。でも結局誘惑に負けてしまって」
「ついやってしまったと」
また女の子が失笑した。可愛らしい笑顔だ。
「その後も何回か同じことをやったんですか? 今日みたいなこと」
「学校を卒業するまでに何度か」
最初に感じた後ろめたさや緊張感、不安と好奇心、それは回を重ねるごとに薄れてしまった。そして駅員に見つかってしまった日を最後に、もうそんなことは辞めた。
それからまたやろうと思う事すらなかった。
それなのに今日、彼女を見た時に何故かその頃のことを思い出した。
―――それは多分懐旧だ。
こんな夜を終わらせるための。
こんな一日を終わらせるための。
この長い時間を清算するための。
僕は彼女を見て微笑んだ。
「貴女のお陰で、随分と楽しい夜を過ごすことが出来ました。お礼を言います」
「そ、そんな。お礼を言うのは私の方ですっ。こんなことに付き合わせちゃって……。
良いこと……ではないかも知れないけど、こんな経験させてもらいましたし。
本当に、ありがとうございました」
女の子が深々と頭を下げる。僕はそれに、こちらこそ、と応えた。
「家はどちらですか? 僕は東側ですが」
この場所から百メートルほど先に踏切があり、そこから街道へ出られるのだ。この道の終着点はそこだった。
「私は駅の西側です。南町ですので」
「ああ、そうでしたね。それじゃあ、あの踏切でお別れですね」
最後の百メートルを無言で歩く。
横目で彼女を見やると、どこか物憂げに俯いていた。足取りも少し重そうに見える。
やがて上からゆっくりと明かりが降りてきた。頭上から白い街灯が、僕等の足元に影を落としていた。
「着きましたね……」
「そう、ですね……」
僕は彼女を見て、改めて礼を言った。
「大丈夫だとは思いますけど、家まではお気を付けて。お疲れでしょうから、帰ったらゆっくり休んでくださいね」
「はい……」
「それから、お仕事、頑張ってください」
「………」
また俯く彼女。視線を逸らし、何か言いたげにしている。僕は少しだけ間を置いたが、中々彼女の口は開かれなかった。
それじゃあ、と言いかけ、踏切の反対側に行こうと踵を返すと、腕の裾を掴まれた。
「あの……!」
目が合った。だが、それは何故か沈痛な面持ちだった。僕はもう一度、身体ごと彼女へと向き直り、次の言葉を待った。
「いつか……、いつか今日のお礼がしたいです。ですからその……。また会うことは出来ませんか?」
つい言葉に詰まってしまった。僕は肯定とも否定ともとれる、曖昧な返事をすることしか出来なかった。言い聞かせるように言葉を繋げる。
「約束は出来ません。なので、機会があれば……お会い出来るかも知れませんね」
―――本当は分かっているのに。
「そう……ですか」
はっきりと落胆したのが分かった。それでも、と彼女は告げる。
「もしもあの駅で、終電を逃した私を見つけたら、その時はまた声をかけてください」
それは宣言だ。自分の意志はこうだ、と。
「逆に私が見かけたら、絶対に声をかけますから」
『小さい頃から憧れていた夢が叶うんですから』と言った時と全く同じ、強い意志の籠った明朗な声。そこに、もうさっきまでの不安は見てとれなかった。
今にも崩れてしまいそうな笑顔は、彼女なりの強がりなのだろうか。
「本当にありがとうございました。最期に出会えたのが貴女で良かった……」
僕も笑顔で応え、今度こそ別れを告げた。




