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「もう頭を上げて大丈夫ですよ」

 ホームから100メートルほど離れたところで、ようやく僕は丸めた背中を伸ばした。女の子もそれに倣い、

「うぅ~、しんどかったぁ」

と情けない声を漏らした。多分罪悪感と緊張で体が硬くなっていたのだろう。

「あの」

 女の子がおずおずと訊ねてきた。

「うん?」

「いつもこんなことを……?」

「まさか」

 思わず笑いそうになる。彼女の目には、僕がこういった悪いことをする平気でする大人に見えてしまったということか。

「こんなことをやったのは久しぶりかな」

「久しぶりってことは、今までに何回かやってるってことですよね?」

「まあそうなりますね」

「これって、もし駅員さんや鉄道警備の人に見つかったら……」

「もちろん捕まっちゃうかな」

「ええっ」

 分かり易い狼狽え方だ。頭を抱えてしゃがんでしまった。続いて左右、後ろと誰かいないかを確認している。

「ここまでくればもう平気ですよ。流石にここまで追っかけて捕まえに来るなんてことはありませんから」

 ほっと胸を撫で下ろし、女の子は立ち上がった。僕はそれを確認すると、止めていた足を進めた。後ろからは、さっきよりしっかりとした足音。今度こそ腹を括ったようだ。

「わわっ」

 首だけ曲げて後ろを見ると、女の子がバランスを崩して柵の方へふら付いていた。

「大丈夫?」

「あ、なんとか……。というか、平気なんですか?」

 その言葉に2つの意味を感じたので、正直に答えることにした。

「久しぶりとはいえ、昔はよくやってましたしね。だからか高いとこにも慣れました」

「昔は、ですか」

「ええ。学生時代に、よく」

 女の子は不安そうに柵の向こう側を覗き、慌ててレールの間に戻る。

「慣れないとこの高さは怖いでしょうね。僕も最初は怖かったですよ。半ば自棄になっていたような覚えもあります。

 でも、どうかな……。繰り返すうちに、罪悪感も高さへの恐怖も薄くなっていきました。それこそ当時は眼隠していても歩けるぞってくらいにね」

 馬鹿なことも平然とやれた学生時代を思い出す。当時はこの線路も、僕にとっては歩きなれた道のひとつだった。

「今まで、誰かに見つかったりはしなかったんですか?」

「ありますよ。見つかったらダッシュで逃げて。ああでも、捕まったことはないかな」

「よくそんなこと出来ますね……」

 関心半分、呆れ半分といった反応。でも引いている感じはしない。

「若さゆえ、というやつですよ」

「なんか、おじさんくさいですね」

 女の子が小さく噴き出す。

「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃないんですけど」

 笑顔から一転、また慌て顔だ。僕は気にしていないことをアピールする為、オーバーに肩を竦めて言った。

「まあ、貴女から見ればおじさんなんでしょうけどね」

 ふと、今まで気にも留めなかった疑問が湧き上がった。

「女性にこんなことを訊くのは失礼ですが、おいくつなんですか? 最初は学生さんかなと思ったんですが」

「あ、えっと、この春、短大を卒業したんです。20歳です」

「てことは、今は春休み中なのかな。就職はもう決まってるんですか?」

「はい。来月から働くことになってます」

「それは良かった。じゃあこの春から新生活ですね。出身はこちらで? それとも、もしかしてこの街にも来たばかりですか?」

「ええ。まだ先週越してきたばかりなんです。だからまだ電車の乗継とか分からなくて。それで今日も終電逃しちゃって……」

 なるほど、と僕は独りごちた。地方から出てきた人だと、この蜘蛛の巣のように入り乱れた都市部の路線を使いこなすには、多少時間がかかるだろう。僕も最初はそうだった。

「でも、すぐ慣れますよ」

「そうですかね……?」

「仕事が始まって、最初は覚えることが沢山で、緊張感を持ったまま一月ほど過ごすでしょう。でも5月の連休が明ける頃には仕事にも慣れてきて、何時まで寝ていられるか、何時に家を出れば間に合うのか、駅までの近道はないか……。仕事と一緒に電車の乗継も身に付いている筈です。ついでに今度は仕事に行くのが嫌になってますよ」

「はは、なんだかありそうな話ですね」

 紛れもない事実だ。というよりは実体験だ。

 およそ世間で働いている8割は同じ経験をしているのではないだろうか。5月を境に辞める新人が多いという話も聞いたことがある。

「でも、私はきっと大丈夫です」

 妙にはっきりとした声だ。

「小さい頃から憧れていた夢が叶うんですから」

 彼女の顔を見た。笑顔の中に、強い意志を感じた気がする。

 羨ましいな、と小さく漏らしてしまった。

 小さい頃からの憧れ。今の世の中、そんなものを持ち続け、その夢を実現させた人はどれくらいいるのだろう。少なくとも、僕の周りにそんな人は皆無だった。

 僕自身、もう小さい頃の憧れや夢なんて覚えてすらいない。

「それは……きっと凄い事なんでしょうね」

「そ、そうですかね……っ」

「ええ。僕はそう思います」

 それっきり会話が途絶えてしまった。

 僕は鉄で固められた轍の続く道を、闇で見えなくなる手前を見据えながら歩を進めた。

 彼女はどこを見ながら歩いているのだろう。

 足音のリズムは、僕よりもわずかに早い。

 僕は意識半ばで音に耳を傾けながら、自分の昔を思い出そうとしていた。


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