正しいVRの使い方
今回の話には実在の病気である『進行性骨化性線維異形成症』という難病にかかったキャラクターを登場させております。
素人が趣味で書いている作品で、難病を軽々しく扱うことに不快を覚える方がいらっしゃるかもしれませんので先にお詫びします。
現実でのVR技術が発展して作中のような使い方が出来る時代がくれば良いと思って書いております。
ご理解いただければ幸いです。
髪と髭……よし。
スーツのしわや汚れ……よし。
エレベーターホールの壁にはめ込まれた鏡に映る姿を見ながら各所をチェック。
昨年末の修羅場で味わった疲労をまだ引きずっている顔色以外は特に問題なし。
小さく息を吐いてから少し緩くなっていたネクタイを締め直す。
網膜ディスプレイに映る時刻は午前九時を指し示し、午前の面会開始時間となった事を告げる。
同時に明かりが点った来客用エレベーターのスイッチを押してエレベーターを呼ぶ。
「マスターさん。そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
どうにも落ち着かない俺をみて、隣に立つユッコさんがにこやかに笑った。
ユッコさんの手の中には、新春を告げる清涼な香り立つ日本水仙の白い花束がちょこんと収まっている。
「気を張ってないと口を滑らしたりしそうで……初めてなんですホスピス」
敷地内に足を踏み入れたときから感じている院内の計算された穏やかで安らいだ空気。
不用心な発言や振る舞いでこの空間を壊さないか、自分自身が心配でしょうがない。
治療の施しようも無い難病患者達が最後の時を穏やかに過ごせるよう、身体的苦痛を抑え精神的ケアを行う施設。
それがホスピスだ。
そしてここ西が丘ホスピスにユッコさんの小学校時代のご友人である神崎恵子さんが入院されている。
かつては死因のトップであった癌を含め、大半の病気は医療技術の発展で治療可能となっている昨今。
それでも手術も治療も不可能な難病はいくらでもある。
神崎さんの場合はその一例。
進行性骨化性線維異形成症。
繊維組織。筋肉や筋が骨組織へと代わり硬化してしまい、関節部が固まり体を動かすことが出来なくなり、やがては食事や呼吸も困難になり緩やかに死へと至る難病。
病気の進行を遅らせる遅延治療以外には、未だ有効な完治療法が確立されていない遺伝子疾患だという。
十代で発症した神崎さんは遅延治療を施しながら何とか生きながらえてきたが、症状は徐々に進行し、動くことも出来なくなってすで三十年以上経っているという。
それがどれほどの苦痛なのか……若輩な若造である俺の想像力では追いつかない。
何気ない発言でもこれからお目にかかる神崎さんを傷つけてしまわないか?
どうしても不安がよぎる。
「ふふ。恵子さんは明るいのが好きな人だから、マスターさんはいつも通りでかまいませんよ」
「……ですか」
俺の不安を見抜いたかのようなユッコさんの微笑みに俺はどうにも歯切れが悪く答える。
親友を思い考えたであろうユッコさん達の計画を、会社存続のためとはいえ金儲けへのプランとして考えているのだ
他に速効で効果の出る勝ち目が思いつかず、開発中は忙しさにかまけて気が回っていなかったのだが、なんというか……必要なことだと割り切っていても、僅かなりとも罪悪感を覚える。
こうやって厳かな空気を醸し出すホスピスへと来て、これからお目にかかると思うと、刺さった小骨のようなそれがいっそう際立つ。
「マスターさん達が頑張ってくれたおかげで、こんなに早くVR同窓会を無事に開催できるんですから。通ってた頃のままの学校をまた見ることが出来るなんて夢のようだって彼女も喜んでいるんですよ」
ユッコさんからの依頼であったVR同窓会を行うための小学校VR再建は、直前の仕様変更のせいで当初の完成予定よりやはり遅れた。
しかしそれでも社員全員の尽力と執念により、納期ぎりぎりの昨年大晦日に完成。
年明け早々で申し訳なかったがすぐにユッコさん達には確認チェックしてもらい了承が出た事で、VR同窓会が無事に開催される運びと相成った。
今日は1週間後に迫る同窓会の神崎さんへの説明と、病院側に話を通して許可をもらっていた病室と専用回線を繋ぐ設定準備の為にユッコさんと共に訪れていた。
「……そう言っていただけるなら苦労した甲斐がありました。来たみたいですね。行きましょうか」
静かなチャイム音と共に開いたエレベーターの扉を押さえてユッコさんを迎え入れながら、俺は軽く息を吐いて心を落ち着かせた。
アリスからは『まだ手が空かないの?』と三日に一回くらいで涙声の催促が来るが、もう少し待っていろとしか答えれず、その度に気落ちさせているのでちょっと申し訳ない。
ともかく今はこの仕事を絶対に成功させなければならない。
そうしなければアリスの問題に親身になって考えてやることも出来ないし、何より仕事をくれたユッコさんに申し訳ない。
西が丘ホスピスは全ての部屋が個室となった終末治療専用病院。その最上階である六階のエレベーターからすぐの部屋が神崎さんの部屋となっている。
十畳ほどの広さの部屋には普通の病院で見られるような電動ベットなどはなく、いくつものコードが繋がれた長期没入で使われるような大型カプセル医療器具が鎮座している。
カプセルの脇には多機能ロボットアームとカメラ付きの車いすが一つ。
車椅子の正面に引き出しがついたテーブルが一脚。
テーブルを挟んだ対面には二人がけのソファーが置かれていた。
カプセルの蓋は固く閉じられているので中は見えないが、この中に神崎恵子さんがいらっしゃる。
顎も動かず流動食しか受け付けなくなり排泄どころか自立呼吸すらままならない状態になった神崎さんはこのカプセルの中で、短くなった最後の時を静かに過ごしているという。
進行性骨化性線維異形成症についてはユッコさんから簡易ではあるがレクチャーを受けているので、この一見大仰にも見える設備の意味も判る。
この病気は兎に角厄介な難病。
筋肉注射を打ったり、患部を切除するためにメスをいれる等の医療行為を下手に行うと逆に骨化が進む。
さらには体を激しく動かしたり、怪我やインフルエンザウィルス等、筋肉に負荷がかかっただけでも骨化が進み、より日常生活が困難になる。
まして遅延治療も空しく末期状態まで症状が進んでしまわれた神崎さんの場合は、ユッコさんが最後に直接会ったときは動かすことが出来るのは唇の一部だけだったという。
「マスターさん。これ良いかしら……はいはい。すぐ紹介するから。もう相変わらずせっかちね」
ソファーに腰掛けたユッコさんは、慣れた手つきでテーブル脇からコードを二本引っ張り出して一本を自分の首筋に付けると前方の車椅子に取り付けられたカメラを見て苦笑を浮かべながら、もう一本を俺に差し出した。
「失礼します」
無人の車椅子に向かって一礼してからユッコさんから受け取ったコードを自分の首筋のコネクタに差し込む。
『外部より接続許可申請……承諾しました。映像投影開始します』
脳内ナノシステムからの問いかけに、すぐに了承の返事を返す。
すると俺の網膜ディスプレイは無人だった車いすに腰掛けた一人の老婦人のVR姿を浮かび上がらせる。
ユッコさんと同年代の六十過ぎくらいに見えるだろうか。
肩当たりまで伸びた白髪が印象的な上品な顔立ち。落ち着いた色彩のワンピースを身につけたやせ型の老婦人。
この方が神崎恵子さんか…………
『ごめんなさいね。このような形で失礼いたします。神崎恵子です』
難病を患っているというのに神崎さんは明るい笑顔を浮かべていた。
常に暗く沈んでいるような表情を浮かべているような方かと、失礼にも思い込んでいた俺は意外すぎてつい返事が遅れてしまう。
「……あ、ユッコさ……三島様からのご依頼で同窓会の準備をさせていただいておりますホワイトソフトウェアの三崎伸太です。よろしくお願いします」
ついユッコさんと呼びそうになって慌てて訂正しつつ俺は深々と頭を下げる。
今日の俺は社の人間として来ているのだから、言葉遣いくらいは最低限の礼儀だろう。
『ご丁寧にありがとうございます。でも畏まらなくても良いですよ。由希子さんがいた『KUGC』でしたかしら? そこの前のマスターさんですよね。由希子さんから昔からよくお話を聞いていたんですよ。凄くやんちゃな男の子と知り合って自分も若返ったような気がするって。だから初めてお会いした気がしませんの』
「もう。そういう事は言わないでって言ったでしょ。単なる茶飲み話ですよ。気にしないでくださいねマスターさん」
ごまかすように軽く咳払いをしたユッコさんは照れているのか耳がすこし赤い。
えと…………ユッコさん。神崎さんに何を話しました?
大学に通う年の男としちゃかなり不名誉な、やんちゃな男の子と評価されるほど子供でしたか当時の俺。
というか下手したら今もその評価だったりしますか。
『はいはい。判りました。お茶でも入れますからゆっくりしていってくださいねマスターさん。若い方が私みたいなお婆ちゃんの所に来てくれるなんて、滅多に無いからいろいろお話もしたいんですよ。さぁいつまでも立ってないで、座ってくださいな』
マスターさん呼びは正直リアルだと恥ずかしいので止めてほしいが、話し好きの様子が見て取れる神崎さんに押され、言い出せる雰囲気では無いと諦める。
「あー……と、失礼します」
車椅子のロボットアームが動いて引き出しから湯飲みや急須を取り出してテキパキとテーブルの上に並べていく。
おそらく脳内ナノシステムによるコントロールだと思うのだが、難しいはずのロボットアーム操作をよどみなく操ってみせる辺り、なんというかユッコさんの友達だ。
「それでこちらが今回の会場となる、お二人が卒業なされた小学校の復元映像です。回線の接続設定をやっていますから、ゆっくりとご覧ください」
ユッコさん、神崎さんとの視覚情報をリンクさせて、上空から見た復元校舎縮図をテーブルの上にVR表示する。
三階建ての二棟の校舎はL字型に配置され、表側には地方都市らしい広い校庭と池のついた前庭と飼育小屋。裏側には体育館とプールを再現。
周囲の細々した遊具や砂場まで網羅したホワイトソフトウェアの総力を費やした渾身の作品だ。
欲を言えば校庭や校舎から見える学校外の映像まで精巧に仕立てられれば良かったのだが、さすがにそこまでの時間も予算も無かった。
周囲は特徴的な建物や遠くの山並みなどに気をつけた最低限の再現レベルとなっている。
『すごいわね。ねぇ由希子さん。覚えている? ほら校庭で創立百三十周年記念で人文字で130って作ったことがあったでしょ。あの時の航空写真で見たのとほとんど同じよ』
精巧なミニチュアのようにも見える校舎をみて神崎さんは弾んだ声をあげる。
はい、その写真を参考にしてます。
凝り性の佐伯主任が花壇の石組み一つ一つまで、拡大補正した映像で調べ上げて配置した完全再現バージョンです。
「ふふ。覚えてますよ。あの時は恵子さんが1の字の端っこ。それであたしが隣。虫眼鏡で見つけて本当に映っているって確認したわよね」
『そうそう。あの時は………………』
昔話に花が咲いているユッコさん達の楽しげな声を聞きながら、右手で仮想コンソールを叩いて回線設定作業をしつつ左手で湯飲みを手に取りいれてもらった茶を一口すする。
うん。ほどよい温さの茶が醸し出す香りと口当たりの良い渋みが実に良い。
付け合わせの茶菓子は、和三盆を固めた色鮮やかな干菓子。
上等な木箱に敷き詰められた干菓子の詰め合わせは、まるで一枚の絵画のように調和の取れた美しさを放つ。
これを崩すのは少し気も引けたが、どのような味がするか気にもなったので、一つつまんで囓る。
和三盆のくどくない甘みが口に広がりこれまた美味い。
ほどよい甘みの余韻が残っている内に、茶で追っかけ。
あぁ……うん。いい。これはいい。この組み合わせは最高だ。
年末の鬼進行で疲れ切ったまま回復しきってない脳に染みこむような癒やし。
何だろう日本人に生まれて良かったと思う味だ。
「大声で話しちゃってお仕事の邪魔になったかしら。年寄りってダメね。耳が遠くなってつい大声になってしまうから」
作業の手を止めてノンビリと茶を啜っていた俺の様子をみたユッコさんが、邪魔をしていたとおもったのか昔話を打ち切る。
「あー大丈夫ですよ。茶と茶菓子が美味いんでノンビリしてただけなんで。俺は気にせずどうぞ続けてください」
本体が完成すれば後は1週間後の同窓会当日に稼働させながら行う微調整のみで、特に急を要す事も無く会社的にも年明け早々で新規の仕事が無いというお寒い状態。
言ってて悲しくなるがそれが今のホワイトソフトウェアの現状だ。
年始の挨拶でユッコさんからの仕事が無ければ昨年末で潰れていたと、笑いながら社長が言っていたのは冗談だったと思いたい。
……社長の挨拶で中村さんが胃の辺りを抑えていたのは、たぶん飲み過ぎだったんだなと思い込もう。
『あら、干菓子なんて若い人にはあんまり喜んでもらえないかと思ったけど、気に入ってもらえたなら嬉しいわ。私も好きだったのよ。ほら綺麗でしょ。見てるだけでも心が弾むから香川のお店から毎月取り寄せてるのよ。無駄にするのも勿体ないから、看護師さんや他の患者さんにもお裾分けしてるんだけど、さすがにみんな食べ飽きちゃってるから、どんどん食べてね』
神崎さんと話して気づいたことが一つある。
医療用脳内ナノシステムにより痛みをカットしているので苦痛は無く、さらにVRを用いることでこうやって他人と話すことも出来る。
だが本当の体はカプセルの中。食事も排泄も己の意思では出来ず、繋がれたチューブによる栄養補給でかろうじて生きているが、いつ呼吸器にも影響が及び、命を奪われるか判らない末期状態。
それでも神崎さんは自分が不幸だとは思っていないようなのだ。
「じゃあ遠慮無く。本当においしいですよ。ぼちぼち進めていますから、ご不明な点があったら気にせず聞いてください」
好きだった。見てるだけ。
俺の言葉に嬉しそうな笑顔を浮かべた神崎さんが先ほど漏らした言葉が気になるが、それをなるべく表面に出さず俺は笑顔で答える。
この人に対して可哀想と思ったり憐憫を感じる事が、逆に失礼に当たるような気がしたからだ。
『じゃあ一つ聞かせてもらえる。この中でこの車椅子を使えるように出来るかしら?』
「車椅子をですか?」
神崎さんの質問の意味がわからず俺は思わず聞き返していた。
脳内ナノシステムによるVRとは、ナノシステムが脳へと電気信号で情報を送り、さらに脳からの電気信号を受け取ることで成り立つシステム。
神崎さんのように脳に異常が無いのならば、普通に体を使うことが出来るはずなのに。
『あぁごめんなさいね。いきなりで判らないでしょ。実はね歩き方を忘れちゃったの。ナノシステムとかVRシステムなんかが出る前から寝たきりだったから、もう脳が歩き方を覚えてないみたいなのよね。だからVR内でもこの子を使わせてもらえたら嬉しいんだけど何とかなりそう? 一応病院の方でも院内VRで使えるように設定を組んでくれているそうなんだけど、病院外のシステムで動かすのは初めてだから出来るかなって』
歩き方を忘れてしまうほどの時間を、動くことも出来ず寝て過ごしてきた。
神崎さんの過ごした世界を入り口だけだが垣間見たような気がする。
「判りました。じゃあ病院の方に確認して使えるように調整します」
内心に浮かんだ驚愕を隠しながら、どうにか返事を返せたと思いたい。
『お願いしますね。フフ。それにしても今から楽しみでしょうがないわ。由希子さんはもう見てきたんでしょ。どうだった?』
「何もかもあの頃のままですごく懐かしくなるわよ。ほら前庭のコケモモの木とか覚えて……………」
ユッコさんと神崎さんの弾んだ楽しげな声が行き交う昔話がまた始まる。
俺はそれを横で聞きながら少し考えに耽る。
完成はしている。だが同窓会当日まではまだ1週間も有る……ウチの会社ならいけるはず。
設定作業を再開するまえに目の前の箱に書かれていた屋号と電話番号へと目を走らせていた。
病室の方で設定を終えてからユッコさん達に断って一足先に病室を後にした俺は、ホスピスのメイン回線の方にもいくつか設定させてもらう箇所があったので管理室へとお邪魔しこちらでの作業を当初の予定より手早く済ませた。
時間を作った俺はつい先ほど思いついた考えを早速実行に移す。
交渉相手は先ほど神崎さんにご馳走になった和三盆の干菓子を作っている香川県高松の老舗和菓子屋。
「はい……無理なのは判りますが………………そこを何とか…………今からそちらにお伺いしますので……話だけでも…………ありがとうございます! ……もちろん本気です。まずは話だけでも聞いていただければ…………はい。本日中にはお伺いしますので……はい。失礼いたします……うし。第一関門突破!」
ホスピスのロビーの一角に設けられたブース状の電話スペースで、20分にも及ぶ交渉の末に何とか引き出した面会の約束にひとまず息を吐く。
来れるもんなら来てみろ的なニュアンスだったが、言質は取ったから結果オーライだろう。
電話をたたき切られなかっただけでも御の字なのに、こうやって面会の約束までいけたのは上出来。
だけど本番はここから。
直接交渉は難航する予感はひしひしとするが何とかしてみよう。
問題はどう攻めるか。
神崎さんの現状を伝えただ情に訴えるだけでは、おそらく勝ち目は薄い。
相手側にも利へと繋がる何かを用意しなくてはならない。
……それについては一応考えはある。
だがあまりに他力本願なそれは、些か突拍子が無いような気もするし、上手くいくか判断が難しい。
このカードを採用すべきかと物思いに耽っていると、背後からガラス張りの扉をノックする音が響いた。
あ……やべぇ電話を切った後もずっと篭もっていたから他の人の迷惑になっていたか?
慌てて振り返ったが、どうやら俺の予想は外れたようだ。
ノックしていたのはユッコさんだった。
扉を開けて外へ出た俺に、ユッコさんがにこりと笑う。
「マスターさん。こちらでしたか。ごめんなさいね。すっかり話し込んで遅くなってしまって。作業ももう終えられたんでしょ。じゃあ帰りましょうか」
「もう良いんですか? まだ昼すぎたばかりですよ」
ホスピスでの面会時間は午後の五時までと案内板に書いてあったはず。
二人とも話し好きなんだし、まだ時間は有るのだからゆっくりすればと思ったのだが、
「恵子さん眠ったから。ほらVR越しだと元気そうに見えるけど、体の方は弱って体力が無いのよ。普段も四,五時間しか起きられないんだけど、今日は、はしゃいじゃって早く疲れちゃったみたいなのよ」
VRに潜っていても脳は平常通りに動き、体も最低限度の基礎代謝としてエネルギーを消費する。
常人であればたいしたことの無い消費でも、神崎さんの体には負担が大きいのだろう。
「……そうでしたか」
後で挨拶に行くつもりだったんだが失敗だったな。
「だからマスターさん時間有るでしょ。こんなお婆ちゃん相手でつまらないかもしれないけど、今からご飯をご一緒にいかがかしら」
「あ、っと。すんません。ちょっとこの後に用事ができまして」
関東圏の外れにあるここから香川まで行くとなると、東京駅まで1時間。
リニアに乗り換え大阪まで1時間。そこからさらに2時間って所だ。
何とか夕方までにはたどり着けるぎりぎりの時間。
せっかく取り付けたチャンスを逃すことは出来ない。
素気なく断る事になり申し訳ない俺に対してユッコさんはなぜか可笑しそうに笑みを浮かべた。
「あら残念。本場の讃岐うどんをご馳走しようかと思っていたんですけど」
言うまでも無く讃岐うどんと言えば香川の名産品。しかも本場ということは、
「…………ユッコさん。ひょっとして俺の行動を見抜いてますか?」
「バレバレですよ。先ほど箱に書かれた電話番号とかチェックなさってましたよね。世話好きなマスターさんの性格から考えれば、恵子さんの為に何をしようとしているか想像するなんて簡単ですよ……それで上手くいきそうなんですか? データ化」
本当に簡単に読まれているようだ。
俺の考えていたのは和三盆干菓子の完全データ化許可を取り付け、神崎さんに召し上がっていただくこと。
だがユッコさんが見抜いているなら話は早い。
「あーとこれから現地で交渉なんですけど、正直、難しいです。情だけだと相手も動かないかなと」
「そうでしょうね。相手は老舗の和菓子屋さんしかも看板商品。こちらにも事情があるとはいえ、それをVRデータ化させてほしいなんて厚かましいお願いですものね」
ユッコさんの顔に少しだけ影が差す。
世界的にも名の知れたデザイナーであるユッコさんは、ブランドのイメージや商品価値の重みを俺より遙かに多く知り尽くしている。
これがどれだけ厚顔無恥な提案で実現困難な物かよく判るのだろう。
ユッコさんの反応から見るに、やっぱり一筋縄では無理か…………しかたない。考えていた案を実行するか。
「そうっすね。だから開き直ってとことん厚かましくいきます。ユッコさん。いえデザイナー三島由希子のお力に期待します」
「私の? 服飾関係なら少しは融通が利くけど、和菓子屋さん相手じゃ無理じゃ無いかしら」
「そっちの人脈とか圧力じゃ無くて、世界を相手に活躍できる色彩感覚とデザインセンスの方です……そういうわけでお菓子作りは好きですか?」
おそらく余裕で年収億を超えているトップクラス服飾デザイナーに門外漢の仕事を、しかも無料で頼もうというのだから、我ながら厚かましいお願いだと思う。
「…………………………ふふ。本当にマスターさんはいろいろ面白いことを考えますね」
しばらくぽかんとしていたユッコさんだったが、言葉の意味を悟ったのか笑い声をこぼす。
「苦肉の策って言うか、悪知恵が廻るだけとか穴をつくのが好きだとかって悪評価ですよ」
「ほめ言葉だと思いますよ。でもマスターさんと話していると本当に若返る気がしますね。この歳で全く別分野の新しいことに挑戦しようっていう気になるんですから」
挑戦的な色を浮かべた目で俺を見ながらユッコさんはそれはそれは楽しそうに笑った。