C面 生まれる腹を間違えた男
「睡蓮の間の佐藤様の本日と明日の御予定に変更はありません。明日のレンタル和装セットの着付けは加代さんお願いします」
みさき屋若女将の三崎葵は、夕食配膳前に行う通例の夕礼で、別館側に本日ご宿泊しているお客様、それぞれのご希望やアレルギー物質、明日のご予定などを手早く再確認していく。
建物自体は日本伝統の木造建築にこだわったこれぞ温泉旅館という風情を醸しながら、現女将三崎菊代の趣向により、VRを用いた各種設備もしっかりと導入されている。
蓄積してきた顧客情報を用い、お客様のアレルギー情報はもとより、好む食材、寝具の堅さをVRで体験しながら選べる予約サイトや、興味を持っているアクティビティに合わせたイベントや体験教室のVR紹介。
一見ただの絵柄にみえる多種多様な皿の模様は、それ自体がアクセスコードとなっている。
料理に用いた原産地や生産者を確認できるトレーサーサービリティであったり、従業員やお客様自体もアレルギー確認を確実に出来る予防策であったり、はたまた美味しかったからとそのまま注文できるお土産サービス。
最近特に人気なのは、メイン以外の料理を先に提供してお品書きコードを読むことで、今まさにメイン料理を作っている職人芸を、個室で楽しめるVRライブクッキングとなっている。
もちろん脳内ナノシステムを構築していないお客様や、法律で禁止されているお子様用には、皆で楽しめるモニターや、眼鏡タイプのVRグラスなども完備。
地味だが便利とお客様に評判な、専用ライトを当てることで物体ごとの複屈折を観測し、落としてしまったコンタクトレンズや小物のイヤリングなどを砂利道や芝生の中からでも即座に見つけ出すお探しアプリは、是非使わせてほしいと地元観光協会に頼まれ、今ではこの地域のホテルや旅館の標準装備となっているほどだ。
伝統を大切にしながらも、新しい物に忌避感も無く次々と取り入れるみさき屋旅館名物女将三崎菊代。
そんな義母のあとを継ぐ若女将としては、葵はまだまだ自分に足りない物が多いことを自覚している。
みさき屋は、湯治などで数週間滞在する長期滞在や、他の客とあまり関わらずゆったりとしたい客向けの隠れ家めいた古民家風の離れ別館。
短期滞在の家族向け、団体客向けの露天大浴場や遊技場、バーなど各種娯楽設備を設置した完全バリアフリーの本館に分かれる。
「……確認は以上になります。すみません皆さん。私はこれでお先に上がらせていただきます。本当にご迷惑をおかけして申し訳ございません」
確認事項の見落としが無いか、仮想ウィンドウに浮かぶチェックリストをもう一度上から見直した後に、仲居頭の加代や他の仲居にも、一人一人頭を下げて謝る。
義母の菊代と比べてお客様への接客や、突発自体での対応力がまだまだ未熟だと自覚する葵は、女将修行の一環として、初めてご宿泊するお客様も、指示を出す従業員も多い本館側の管理を希望して主にやらせてもらっている。
だから夕食配膳も、女将の菊代が常連客の多い離れの接客を担当し、若女将の葵とその補佐として仲居頭の加代が本館側を対応というのが基本体制だが、今日だけは受け持ち担当を交代していた。
しかも夕礼だけで接客はせずに加代に任せて、今日は休むようにと女将から指示をされている。
葵が午後からの仕事に精彩を欠き、いつもならしないような見落としや、数え間違いなどの凡ミスを少しだけだが起こしてしまったからだ。
葵が気もそぞろになっている理由は、もちろん弟、三崎伸太が最後に投げつけてきた爆弾が原因だ。
あり得ない、単なる見間違いだと思っても、どうしても気になってしまう。
あの巫山戯た言動は葵の知る弟だと思う。思う。
だが弟は何か嘘を、それも過去最大の嘘をついていると、葵だけでなく、あのあと少しだけ話した葵の両親も見解は一致してる。
その嘘はいったい何なのか……自分の娘だというエリスティアのことだろうか?
それとも……
記憶や人格も全く同じだが、身体は違う……それは本人と呼んで良いのか?
弟は弟ではない別の身体、完全人工クローンになっているのかもしれない……
ここ数年は仕事が忙しいと盆暮れ正月まったく帰ってこないのは、あれが原因だったのか?
最後に直接会った時に弟の腕には、まだ傷があったか……覚えていない。
「葵ちゃん、いえ若女将、大丈夫なんですか? 顔色がだいぶ悪かったですけど夏風邪か何かですか?」
最後にもう一度皆に謝った後にふらふらと本館の方へと戻っていた葵の背を目で追ったベテラン仲居の一人が、仲居頭の加代に病気なのかと容態を尋ねる。
「それが病気じゃなくてシン君がらみ」
「そちらですか」
「しかも今回は女将も結託してるみたい。シン君に隠し子がどうとかって話し合って、それで陽葵お嬢さんがシン君の所に行ったでしょ。昼に急にシン君から連絡があって、そのあと若女将には内緒でって、女将が楽しそうに笑いながら白菊の間の予約を埋めてたから。いつもの若女将なら、お客様無記載で埋まってるなら気づくけど、さっきも見落としてたから……何をやられてるんだか」
今日は夜番で、先ほど出勤して来たため詳しい事情を知らない仲居仲間に対して加代は答えながら、葵に対して気の毒にと息を吐いた。
「楽しそうに笑っている女将が浮かんで、昔を思い出しますね……しかも白菊の間って」
加代も含めてベテラン仲居達は、葵が嫁いでくるまえ所か、親戚の子供として遊びに来ている頃から知る古株ばかりなので、完全に状況を理解して深く頷いて同意する。
白菊の間は離れ別館の客室の中でも一番本館から離れた部屋だが、そこの個室温泉の謳い文句は『子宝の湯』
その評判の出所は何のことはない。現女将菊代本人だ。
高校入学初日に一目惚れした相手が、8才も年齢が離れているから普通の状況では絶対に手を出さない性格と見抜き、人の良い性格や高い事務スキルから高物件と評価し、指をくわえていたら他人に持っていかれると判断。
出会いの翌日から一年掛かりのブラフをかました上で、親、親戚一同、はては自分の通っている高校の教師陣や、理事会も含めて、人脈やら裏条件を繰り出して無理矢理了承させ周辺環境を完全に整えたのち、一発で授かり婚を決めた相手こそ、現在みさき屋の経理を仕切る夫で婿養子三崎実法だ。
去年まで中学生の16才女子高生を孕ませたとなれば、状況はどうあれ男が責められるのが常識。
だがこの件に対しては完全に菊代が加害者だと周囲の見解は一致している。
結果的に手を出してしまったとはいえ、実法には、”あの三崎”の娘の被害者兼生け贄だと、同情と憐憫の目さえ向けられていたほどだ。
そのとき生まれたのが葵の夫である若旦那の陽一になり、菊代のやった周囲がドンびく人心掌握、状況変化手口の詳細を残すのは、さすがに子供の教育に悪いからと詳細は諸々が封印されたわけだが、それらが漏れたり拗くれまくった結果が今の『子宝の湯』伝説となる。
「私たちぐらいの世代だと”あの三崎”の子っていったら女将だったけど、今じゃシン君に世代交代。若女将もシン君も小っちゃい頃から知ってるから、親戚目線で見守りたいけど……」
「三崎のお家のご年配の方々は、この間の宴会でシン君は生まれた腹を間違えたとかって笑って楽しんでましたけど、若旦那や若女将の場合は三崎の血が真面目な方に出てるかんじですしね」
くせ者が結構な頻度で生まれる地元の旧家といえど、そんなのばかりで続くはずもない。
菊代みたいに破天荒な者ほど生真面目な人間に心を引かれて婿や嫁に迎え、外部から来た者や、その血を強く受け継いだ者がいろいろと苦労するのが、あの一族の伝統だというのは地元民の常識。
「さて雑談はここまでにして、そろそろお仕事を始めましょうか。公私共々問題ありでは若女将が可哀想です」
ぱんぱんと手を打った加代は同僚達に促しながら、最後にもう一度だけ葵の向かった本館をちらりと同情の目線を向けた。
妊活夫婦御用達と普段から人気のある部屋だが、たまたま今日が空室となっていたのは、ひょっとして昼前所か、数日前から仕込んでいたのではないか?
何が起きるか、どこまで仕込みで、どこからアドリブかも悟らせない。
宿泊業とゲーム業と業界は違うとはいえ、お客様を心の底から楽しませ、思わず笑顔を浮かべる驚かせる演出を得意とする二人。
それこそ実の親子と思うほどに、精神の指向性がそっくりだ。
だから過程はともかくとして結果的には酷いことにはならないだろうと、加代は信頼はしている。
自分があの二人がもてなすメイン対象になるのは、丁寧にかつ全力拒否で遠慮を申し上げたいが……。