その一
右手で草履を持ち、左手でまんじゅうを持つ。
俺の足の裏は、素足でも硬い。
着流しの裾をめくりながら走る。
後ろから勢いよく罵声が飛んでくる。おい待て。このやろう。
待てと言われて待つわけがない。
食ったばかりでもまだまだ余裕がある。
元陸上部をなめるな。
食い逃げの基本は腹八分目だ。
たらふく食ってしまったら、横っ腹が痛くなってとてもじゃないが走れない。
罵声がだんだんと遠くなっていく。
そこの呉服屋を曲って裏路地に入れば、もう大丈夫だろう。
一気に身体を傾けて勢いよく右に折れる。
猫が二匹、驚き飛び跳ねる。
スピードを落として左に曲がり、足を止めた。
耳を済ましてみる。人の気配はしない。
家の壁に背中を当ててゆっくりと路地を覗き込んでみる。誰もいない。
草履をぽとりと落とす。
足の裏をはたいてから草履に指を引っ掛けた。
大きく開いた着流しの袖に左手を突っ込んでまんじゅうをしまう。右手も袖に突っ込み両腕を組みながら歩き出す。
とりあえずいつもの寺にでも行くか。
俺は逃げてきた路地に出ないように寺へと足を向けた。
その寺は小さな山の中腹にある。
すきま風がよく通り、賽銭箱に金は入らず、住職の代わりに猫と鳥しかいない小さな寺だ。
俺はそこで目覚めた。
確かに死んだはずだったのに。
今は江戸時代だろうか、ここに来てから一週間は経つ。
最初は訳がわからなかった。
いや、今でも訳がわからない。
レインボーブリッジが見える、港湾関係の会社が立ち並ぶ場所。
そこから身を投げたはずだった。
都会でも夜の海は暗く、夏でも海水は冷たかった。
俺は膝を抱えて丸まりながら底へ底へと落ちていったはずだった。
あんまりオカルトとかは好きではないし、信仰が厚いわけでもない。
だが身を投げたのがきっかけだからか、状況を受け入れるのに時間はかからなかった。
小さな寺の中で目が覚めたとき、おれは海から這い出したのかと思うくらいに汗を掻いていた。
最初は天国か地獄かなのかと考えていたが、今ではそのどちらでもないのだろうと思っている。
魂なんてあるとは思ってはいないが、俺の魂が時代を超えて誰かの身体に乗り移ったのかとも考えたが、寺に転がっていた汚い柄鏡に曇り気味に写る顔は、確かに俺の顔だった。
シャツにデニムではなくて服装は藍色の着流しに草履。髪の毛も伸びていて、いわゆるざんばらカットってやつになっていた。
なにはともあれ、腹は減る。
寺から降りて街へ行き、一日に一度か二度の食い逃げをして飢えをしのいでいるのだが、これだけ食い逃げをしているのだからそろそろ街にも行きづらくなってきた。