名探偵は死んでいる
部屋に死体が一つ。
名探偵、天郷 国虎は死んでいる。
――それでも、私は事件を解かなければならない。
雨が降っていた。
細い雨脚が書斎の窓を叩き、硝子の向こうで庭木の影を滲ませている。夜は深く、門灯の明かりだけが、濡れた石畳の上でぼんやり揺れていた。
暖炉の火は落ちかけている。赤く残った薪の芯が、ときおり小さく爆ぜた。部屋の空気には、湿った外套の匂いと、古い紙の匂いと、冷めた紅茶の香りが混じっていた。
机の上には、白磁のカップが一つ。
紅茶は半分ほど残っている。表面には薄い膜が張り、燭台の火を鈍く映していた。受け皿には銀の匙。そばには角砂糖の入った小壺。蓋の開いた茶葉の缶から、甘く、どこか薬草めいた香りが漂っている。
床には懐中時計が落ちていた。
硝子は割れ、針は十時二十分を指している。
灰皿のそばには、黒い吸い口のパイプが一本。火はついていない。灰も落ちていない。ただ、いつもの場所に置かれている。
そして、天郷国虎は机に突っ伏していた。
右手は胸元に。左手は床へ垂れ、指先は懐中時計へ届きそうで届いていない。唇はわずかに紫がかり、閉じた瞼の下には、もう何の思考もない。
名探偵は死んでいる。
だが、その死はまだ事件の中心にあった。
死体。
紅茶。
時計。
鍵のかかった書斎。
あまりにも整っている。
整いすぎた現場では、目立つものから疑わなければならない。目立つものは、誰かが目立たせたものかもしれないからだ。
この夜、書斎に関わった者は三人いた。
依頼人、綾木 明夜。
弁護士、矢丸 大吾。
助手、土居 菜乃香。
◆
綾木明夜は、九時過ぎに訪れた。
黒いドレスに、黒い手袋。雨に濡れた裾を気にすることもなく、彼女は古びた封筒を三通、机の上に並べた。父の死後、綾木家に届くようになった脅迫状だという。
声は震えていた。
だが、封筒を置く指先は落ち着いていた。
本当に怯えている者は、声より先に手が乱れる。紙を揃える余裕などない。まして、その封筒は妙だった。古びてはいる。黄ばみもある。だが、折り目が浅すぎた。
何度も読み返した脅迫状なら、紙の端はもっと柔らかくなる。封を切った跡も、触れた指の脂で薄く曇る。これは古い紙ではあるが、古い手紙ではない。
脅迫状は、古く見えるように作られていた。
つまり、綾木明夜は嘘をついている。
さらに、茶葉の缶を持参したのも彼女だった。
「父が好んでいた茶です。眠れぬ夜に、よく飲んでおりました」
そう言って、彼女は缶を机に置いた。
黒い茶葉に、乾いた花弁が混じっている。香りは強い。苦味も、薬臭さも、これなら隠せるかもしれない。もし茶葉そのものに毒が混じっていたなら、紅茶を飲んだ者は死ぬ。
動機もある。
綾木家の相続。父の死の真相。偽の脅迫状。名探偵に知られたくない何か。
紅茶を見れば、まず彼女が浮かぶ。
浮かびやすい名前ほど、疑わなければならない。
◆
矢丸大吾は、九時半を少し過ぎてから書斎に通された。
綾木家の顧問弁護士。丸眼鏡の奥で、絶えず目を動かす男だった。話すときには右手で眉間を押さえる。その指が、帳簿の不備を問われた瞬間だけ止まった。
綾木家の財産管理には、穴がある。
消えた証券。
名義の変わった土地。
古い遺言書の写しと、登記記録の食い違い。
依頼に基づいて調べを進めれば、矢丸大吾の不正はいずれ明るみに出る。彼には、十分な殺意がある。
しかも、矢丸は砂糖壺に触れている。
紅茶が出されたあと、綾木明夜は砂糖を入れなかった。天郷国虎も入れなかった。だが矢丸大吾は、話の途中で角砂糖を一つつまみ、銀の匙で自分のカップをかき混ぜた。
そのあと、彼は一度だけ席を立っている。
書棚に並んだ古い登記簿を取るためだった。戻る途中、机の角に手をついた。その手はカップのそばを通り、灰皿の縁に触れた。銀の匙がかすかに鳴り、矢丸大吾は慌てて謝った。
その慌て方は、少し大きすぎた。
砂糖に毒。
匙に毒。
あるいは、机に手をついた一瞬。
疑う理由はいくらでもある。疑わせる材料も、あまりに揃っている。
◆
助手の土居菜乃香は、書斎と廊下の間を何度か行き来していた。
来客を通し、資料を運び、呼び鈴に応じる。助手であれば、それ自体は不自然ではない。近くにいる者は、常に疑われる。だが、近いというだけで犯人にはならない。
むしろ、近い者が紅茶に毒を入れれば、真っ先に疑われる。
そんな分かりやすい手を、あえて選ぶだろうか。
少なくとも、この事件はそこまで粗くない。
まず、鍵を消す。
書斎の扉には鍵がかかっていた。窓にも鍵がかかっていた。外から侵入した者はいないように見える。だが、密室という言葉は強すぎる。強すぎる言葉は、たいてい目を曇らせる。
天郷国虎は、調べ物をするとき書斎に鍵をかける癖がある。誰にも資料を触れさせず、誰にも推理の途中を見せないためだ。客が去ったあと、扉を閉じ、鍵をかける。それはこの屋敷では珍しいことではない。
だから、この部屋が閉じていたこと自体は謎ではない。
密室は、犯人の技巧でなく、被害者の習慣でも作れる。
次に、紅茶を消す。
紅茶は一つのポットから、天郷国虎、綾木明夜、矢丸大吾のカップへ順に注がれていた。茶葉に毒が混じっていたなら、全員のカップが危うい。天郷国虎だけを殺すには不安定すぎる。
砂糖に毒があったなら、砂糖を使った矢丸自身が最初に倒れる。
匙に毒があったなら、毒がどのカップへ移るか確実ではない。
犯人は賭けていない。
狙いは、ただ一人に向けられている。
次に、時計を消す。
十時二十分。
床に落ちた懐中時計は、その時刻で止まっている。誰もがそこを見る。十時二十分に誰がどこにいたか。誰の証言が食い違うか。誰のアリバイがないか。
だが、時計は嘘をつく。
いや、時計そのものは嘘をつかない。見る者が、時計に意味を読ませすぎる。
古い懐中時計だった。数日前から遅れが出ていたという話もある。蓋の蝶番は緩み、落とせば硝子は割れる。針が止まった理由が、死の瞬間である必要はない。
まして、左手の指先は時計に届いていない。
掴んだのではない。示したのでもない。机から落ちただけだ。倒れた身体に押され、懐中時計が床に落ち、硝子が割れた。
時計は答えではない。
目を逸らすための光である。
鍵ではない。
紅茶でもない。
砂糖でもない。
時計でもない。
ならば、何が死を運んだのか。
◆
残るのは、目立たないものだ。
灰皿のそばに置かれた、黒い吸い口のパイプ。
火はついていない。煙草葉も詰められていない。だから、使われた道具には見えない。だが、毒は火を必要としない。
口に触れればいい。
天郷国虎には、考え込むときにパイプを手に取る癖があった。
火をつける前に、吸い口を唇へ当てる。唇で挟むのではない。歯で軽く押さえる。右奥歯の当たる場所に、小さな窪みができている。
毒は、そこにあった。
吸い口全体ではない。
誰がくわえても死ぬように塗られていたのではない。
いつもの癖で触れる一点。黒い吸い口の右側、歯形の奥。そこに薄く、無色の毒が塗られていた。
これなら、狙いは外れない。
紅茶を飲んだあとでパイプを口にすれば、死因は紅茶に見える。茶葉を持ち込んだ綾木明夜が疑われる。砂糖に触れた矢丸大吾も疑われる。書斎に出入りした者も、当然疑われる。
疑いは散る。
しかし、毒を置けた場所は散らない。
綾木明夜の茶葉では、そこへ届かない。
矢丸大吾の砂糖でも、そこへ届かない。
来客がパイプに触れることはできたかもしれない。だが、毒を塗るべき場所は見ただけでは分からない。吸い口の右側。歯形の奥。そこは、持ち主の癖が残る場所だった。
ただの来客には選べない一点がある。
もっとも、それは犯人だけが知っている答えでもあった。
警察が来れば、紅茶を見るだろう。茶葉の缶を押収し、綾木明夜の手袋を調べるだろう。偽の脅迫状で名探偵を呼び出した女。毒の匂いを隠せそうな茶葉を持ち込んだ女。疑うには十分すぎる。
次に、砂糖壺と銀の匙を調べるだろう。机に手をつき、灰皿のそばへ指を伸ばした矢丸大吾を疑うだろう。財産管理の不正を暴かれかけていた男。殺す理由も、手を伸ばす機会もあるように見える。
そこまでは行く。
おそらく、そこまでで止まる。
パイプに毒があったとしても、それだけでは足りない。毒を塗った場所を選べた者が誰か。そこまでたどり着かなければ、事件は解けない。
つまり、犯人は――
土居菜乃香は、ようやく息を吐いた。
机に突っ伏した天郷国虎は、もう動かない。閉じた瞼も、紫がかった唇も、床へ落ちた左手も、先ほどと何ひとつ変わっていない。
先生なら、こう推理したでしょうか。
解けるものなら、解いてみてください。
胸の奥だけでそう呟き、唇の端をわずかに上げた。
ほんの一瞬だった。
名探偵の最後の事件にふさわしい。
ご心配なく、先生。あなたの名は、私が継ぎます。
土居菜乃香は笑みを消した。
震える息を作る。頬から血の気を引かせる。指先をわずかに震わせる。廊下へ出る前に、もう一度だけ部屋を見る。
紅茶。
時計。
パイプ。
死体。
すべては、あるべき場所にある。
雨の音が強くなった。
扉を開ける。
「だ、誰か、来てください!」
声は、見事に震えていた。
遠くで足音が跳ねる。綾木明夜の短い悲鳴。矢丸大吾の慌てた声。屋敷の使用人たちが、次々と廊下へ顔を出す。
土居菜乃香は扉の縁に手をつき、青ざめた顔で書斎の中を指さした。
「先生が――天郷先生が、死んでいます!」
お読みいただきありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。
今回は、叙述トリックのある短編推理を書いてみました。
タイトルそのまま、名探偵が死んだところから始まる物語です。
密室、紅茶、懐中時計、パイプ。
いかにも推理小説らしい道具を並べつつ、「誰が犯人なのか」だけでなく、「誰が事件を解いているのか」も謎になるよう意識しました。
死んだ名探偵が最後の推理をしているのか。
それとも、事件そのものが名探偵の不在を暴いていくのか。
短い話ですが、最後まで読んだあとに、冒頭の一文が少し違って見えるような作品になっていれば嬉しいです。
お気に召した方は、他の短編『続きそうな短編集』もぜひ、ご一読ください。




