光が消えるまで───生と罪───
【第一章/崩れ落ちる】
ユン・ソクは裏切り者だ。もはやそう言って後ろ指を指す人もいなくなってしまった。彼に残ったのは空虚と孤独と………捨てきれなかった、あの研究資料だけ。
【第二章/埃の舞い散る】
───廃れていた。
灰色と静寂に侵されたこの街には、もう誰も住んでいないように思えた。看板には色の抜けたフォントがやっているのかすらわからない店の宣伝を大々的に打ち出し、住宅の閉ざされた窓の向こうには暗黒がひしめいて、より一層の死の気配を生み出していた。遥か過去に見放され、今や残るのはごく一部の人に言えぬ事情を持つ者たちだけ。沈黙がこの街を満たしていた。
空き缶が風によって転がり、乾いた金属の音が周囲の乾いた空気に響いた。その音が、ここを動ある場所として唯一表していた。
彼は足を止めることも、早めることもしなかった。ただ、急ぐ理由も立ち止まる理由もどこかに置いてきてしまっただけだ。地面に敷かれた砂のカーペットを踏む度、ジャリジャリと粒が擦れ合う音を出した。
彼は擦り切れた皮の鞄をいつも肩にかけていた。いつでも捨てる機会はあった筈なのだが、それだけは、彼の心に鎖のように絡みつき、引きちぎることは出来なかった。中にあるのは失われた希望なのだとしても。
角を曲がった先、崩れかけた建物の壁に、もたれかかる少年一人を見つけた。倒れてはいない、壁に体重をかけ息を潜めるように座り込んでいた。
ひどくありふれた光景。居場所を失い、路頭に迷う子供など、さほど珍しくもない。当然、こんなものに絡んでしまっては、こちらが持たない。そんなことは知っていた。だが、彼の心はそれを許さなかった。どうして、また人を見殺しに出来よう?
彼の視線は憔悴しきった様子の少年をちらと見た。その顔にはまだ少年特有のあどけなさが残っており、そしてその瞳には、何か燃えるものがあった。それはユン・ソクの妄想であったかもしれない。昔の自分とその少年を重ねてみた時の、願望であったのかもしれない。しかしそれでも、ユン・ソクはその少年の瞳に諦めきれない光と、折れ切っていない意思を垣間見た気がした。
ユン・ソクはその少年に足が向いていた。それは意識したものではなかった。これは彼の心の叫びでもあった。これ以上の罪は重ねんとする、残った良心の呵責。何かしてやる義理もない。それでも、そうせずにはいられなかった。
壁にもたれたまま天を仰ぎ見る少年に近づいていくほど、その若さが鮮明に見えてきた。普通ならば、まだ多くの友人と戯れ、学業に勤しみ、こんな風化した街の通りに体を落とす事もない年齢であろう。
ユン・ソクは自らのポケットを探る。しかしそこにあったのはしわくちゃのメモ用紙だけ。少年に与えられるようなものなど、何一つとして持ち合わせてはいなかった。だから、彼は心をやることを選択した。それは希望でもなければ、救いでもなかったが。
「………生きているか、お前?」
掠れ、やけにしわがれた声。長く使わなかった声帯を振るわせ、喉の奥から絞り出した。しかしそれは、まるで自分の声でないかのように、彼の耳に残響した。
返事はすぐには来なかった。ただ、少年の浅い息遣いが聞こえるだけ。それでも、ユン・ソクは留まることにした。風の音が、時間を焦らせる。やがて、少年はゆっくりと顔を上げた。
真っ直ぐユン・ソクを見つめたその瞳は、明らかな怯えの感情を持っていた。だが、その瞳の奥深く、心を表すその部分は、消えきらなかった炎を強く宿していた。
───それは、かつてのユン・ソクが持っていた情熱と似ていた。
未だ彼が人を助けるために全てを捧げていた頃の彼と。犯した罪に名前をつける必要もなかった、あの時の彼と。
「家族を助けなければ………。」
少年の乾き切った唇から漏れ出たのは、吐息と言ってもいいほどの弱々しさの言葉だった。が、その声に恐れも迷いもなかった。ああ、こんなことを言うのもおかしな話だが、ユン・ソクはこの少年に運命に似た何かを感じ取ったのだ。
彼は否定できなかった。この少年には何もない、それこそ生きていくための金も場所も。しかし、彼はその少年の愚かさを笑う事も貶す事も全くできなかった。その愚かさを笑ってしまったら、それはあの時を侮辱することに他ならなくなる………。あの時の彼を嘲笑うことになる。
ユン・ソクは少年のことをしばらくまじまじと見つめたのち、この少年が右手に小さな鞄を持っていることに気がついた。そこから、白いノートと思われる紙が顔を覗かせていた。彼はそれに非常に興味が湧いた、もしくは少年のことについてもっと知っておくべきだと考えた故のことなのかもしれないが、それを少年の手からそっと取り、パラパラとめくり始めた。失礼、と言う言葉は少年の耳に届いたのか、何も言わずにノートのページを捲るユン・ソクを見つめていた。
「これを………一人で………。」
そのノートの中には、それまで少年が研究してきたであろう生体組織再活性化技術について、ほぼノートの全てを使って記されてあった。それはユン・ソクが研究してきた、自然融解遅延技術と、酷く似ていた。いや、ほぼそのままと言ってもいいかもしれない。ああ、ここまで来れば、もはやユン・ソクは見過ごすことなど出来まい。彼の心はもう定まってしまったのだ。後悔と自責の念を見なかったことにできる、自らの罪を払拭できる、そんなことを思い付いてしまったのだ。
彼は知っている。人の命を延長する技術が、人の生命を取り戻す技術が、どれほど取り返しのつかない場所に人を連れていくか。その技術を願うことが、どれほど無謀かを。
それでも、彼は否定の言葉など喉奥で噛み潰してしまった。この少年を責める資格など彼にはない。ユン・ソクは静かに膝を曲げ、少年の肩に触れた。
「………立てるか?」
短い言葉。それ以外には、何も言わない。今から少年をどこへ連れて行こうとするのかも、なぜ助けようとするのかも、全部。少年の肩を持ち、支えたその体は軽く、この世から半分ほど消えかかっているようであった。
少年は何も聞かずに、ユン・ソクに支えられ歩き出す。少年はユン・ソクに対して質問する必要がなかった。どこへ行くのかも、何をするのかも、何故こんなことをするのかも。少年を支え、歩き出した彼の瞳の中には、あの時失ってしまったはずの光が、僅かながら存在していた。
静かな街に、二人が大地を踏みしめる音だけが木霊する。彼の目的地はあの場所。かつて研究所であった、廃墟。あそこならば、機材は残っているはずだ………。風が吹き、砂が舞う。振り返りはしない、いや、もうできない。彼も少年も、終わりへの一歩を踏み出していた。
【第三章/終わりと希望を見る】
街を抜けると、空の色は灰から鈍い藍へと変わっていた。崩れた建物の隙間を縫う風が、遅れてきた冬の匂いを運んでくる。砂埃に混じるしんしんとした雨の匂いが、前方に見える黒雲の未来を表していた。
ユン・ソクは少年を支えながら歩いていた。彼なりの気遣いか、歩幅は少年に合わさり、ゆっくりになる。しばらく、足音だけが続いた。
───やがて、
「……名前は。」
唐突と言うほど雰囲気を滲ませなかった質問でもなかったし、相手の精神状況を鑑みたような優しい声でもなかった。ただ、これから暮らすことになる同居人との必要最低限の確認に思えた。
少年は視線を少しだけ彼に向ける。それは言い淀むと言うより、思い出すような間であった。
「………ジン。」
掠れた声で、それでもはっきりしていた。彼は内心、満足した。この少年が───ジンが、声に力はなくとも、心は折れないと言うような返事をしたからだ。この調子と、この精神なら、やり遂げられる。そう確信したのだ。
「……ジンか。いい名前だな。姓は?」
「………もう、必要ありません。」
その答えに含められた意味は、ユン・ソクの心に風を吹かせた。彼は何も言わないし、否定も慰めも意味がないことはわかっている。それが、少年の望みを実現させるための───ユン・ソクの願いを叶えるための、最大限の誠実さだった。
少しして、ジンが小さく言う。
「あなたは。」
「…ユン・ソクだ。」
短い名乗り。それ以上は続かない。だが、ジンにとってはそれで十分だった。何かを確かめるために、小さく息を漏らす。再び、沈黙が満ちる。けれど、先ほどの沈黙とは違う。同じ道を進むと確かめ合った二人の、確信めいた、そんな信頼の沈黙であった。同じ方向へ歩く者同士の、重さの均衡があった。
ジンがぽつりとこぼす。
「…夢は、叶いますか。」
問いは曖昧だった。しかし、何を求めているのかははっきりとわかった。ユン・ソクの足が、僅かに遅れる。
「………俺は、叶えれなかった。」
過去に、俺の同僚はこんなことを言っていた。何もなせないことって怖いことなんですよね。………その通り、俺は今非常に怖い。それを知ることもない少年にとって、それは否定の言葉であり、肯定の言葉であった。ジンがその言葉をどう捉えたか、それは知らない。ジンは黙った。しかしそれは理解の静けさだった。
「僕なら。」
ジンはまだ濁り切らない瞳で夜空を仰ぐ。星は見えないが、ただそこにあるだろうと言う事実だけで充分だった。見えなくても、確実にあるのだから。
「………できる。」
震えている。恐怖ではない、決意に慣れない震え。ユン・ソクは横目で一瞬、ジンを見る。かつて守れなかった、希望に満ちた目。自分が捨ててしまった光。守れなかった光。胸の奥で何かが鈍く軋んだ。ジンの歩みは、先ほどより力強さを増した。
砂に覆われた大地を抜け、枯れかかった川を渡り、夜が宵闇を降り注がせた時、わずかな星の光に照らされて現れる、大きな影があった。それは荒廃し、人の気配など一つもなかった。目的を忘れ、崩れいくのを待つだけの建物。彼にはそれが痛々しく思えた。
ユン・ソクが立ち止まるとともに、ジンも歩みを止める。
「……あそこだ。」
初めて、彼の口から目的地を指す言葉が出る。少年はその影を揺れる瞳で見上げる。恐怖も、希望も混じった顔で。そして───小さく頷いた。
二人はまた歩き出す。
沈黙が三度訪れたが………。今度はこの世界の規則に立ち向かう、二人の罪人の静かなる合意であった。
【第四章/再び始まる】
この建物は、かつて研究施設であった。壁面の塗装は剥げ、ところどころ基礎が露出している部分も見受けられる。割れた窓には風だけが出入りし、名を示す看板は木屑になり、もはや何者でも無かった。
しかしそれでも、ユン・ソクの読み通り、研究施設内への扉はまだ開けた。いや、開く扉すらも無かったのだが。二人は暗い施設内に歩いていく。白く掠れた床に、二人分の砂の跡がつく。
中は暗い。だが、完全な闇ではない。蛍光灯のかすかな灯りが、青白い光が寂れた廊下を照らしていた。その形を見えるものにしていた。
数多ある部屋の中には、休憩室、研究室、保存室、まだまだ利用できそうな箇所が残っていた。あの実験を再開するための物資が、ここにはあった。
休憩室に入り、彼は鞄を下ろす。残されたボロボロのソファに腰掛け、深い息を吐く。少年は周囲を見渡し、そしてここに居場所があるという安堵感を得た。それから、二人の生活が始まった。
【第五章/過去を見つめる】
生活と呼ぶには、それはあまりにも粗末で、温かみはなかった。研究施設に残っていた長期保存食を食べ、濾過装置を使って雨水を飲み、かろうじて動く唯一の発電機を使い、ランプを照らした。
しかしそれでも、誰かといれるというだけで、それは立派な生活だった。会話は多くない。むしろ、必要最低限の言葉しか交わさなかった。だが、日が重なるにつれ、そんな生活は変わっていく。良い方向にも───。
ある夜、発電機の低い振動音だけが部屋の隅に続いていた。そんな中、ジンがぽつりとこぼす。
「……妹が、いたんです。」
唐突だった。しかし、こんな場所では唐突な言葉以外、存在し得ない。ユン・ソクは手を止めない。機械の動作チェックや、掃除、交換器具の在庫などを、靴の音を響かせながら行う。それが、続きをゆるす合図だった。
「体が生まれつき弱くて。」
「母は看病につきっきりで。」
「父は薬のお金を稼ぐために一日中………。」
言葉は途切れ途切れだった。記憶をなぞるたび、少年の鼓動が速くなり、呼吸が浅くなる。
「………父は戻りませんでした。」
「妹も、自らの体を考えなかった母も、最後は衰弱して………」
沈黙。発電機の音だけが、時を刻む。
「だから………。」
ジンは拳を固く握る。
「取り戻したいんです。絶対に。」
それは悲痛の叫びでも、他力の祈りでもなかった。それを聞いた彼は、ゆっくりと目を閉じる。胸の奥に秘めたはずの声が、かすかに揺れる。それでも彼は何も語らない。吐露してしまったら、これが壊れてしまう気がした。代わりに、短く言う。
「………ここには、まだ動く装置の残骸がある。」
「完全ではないが、修理しながらやっていけば。」
「そうすれば、不可能ではない。」
「ただ………。」
ジンの顔が上がる。今まで薄汚れ、ひび割れていた床を見ていた視線が、ユン・ソクの触れる装置群に向く。光が差すほどではない。しかし、そこには喜びが見えた。彼は続ける。
「………禁忌に、触れることになる。」
そこで、彼の言葉が一時止まる。そして───
「それでもやるなら、止めはしない。いや、俺も全力で協力しよう。」
少年はしばらく動かなかった。
やがて。
小さく、けれど確かに頷く。
「やります。」
その瞬間、空気が変わった。希望でも救いでも、それが未来に繋がるものならばよかった。けれども。それは再びあの惨劇を繰り返させてしまうような。そんな空気だった。ユン・ソクは視線を落とす。かつても、この判断をした人物を知っている。そして、その人物が最後にどんな選択をしたかも、知っている。
それでも。
今度こそは違う結末になるんじゃないかと。今度こそ変えられるんじゃないのかと。ほんの一瞬だけ、そう思ってしまった。
【第六章/捨てられない】
研究室の空気は、時間の流れを忘れている。発電機の唸りと、時々どこからともなく滴り落ちる水滴の音だけが、ここに『今』があることを示していた。
ジンは眠っている。小さく聞こえる、呼吸音。その向こうで、ユン・ソクは一人机に向かっていた。ランプで手元を照らしながら。
手元には、古い手帳。革の表紙には汚れが付きひび割れ………。角は擦り切れ、何度も開かれ閉じられてきた痕跡があった。ユン・ソクは一人机にそれを開くことを躊躇っていた。触れれば、過去が戻ってきてしまうと、知っているからだ。
しかし、暗く静かな夜は、人を過去に引きずり混む。否が応でも、自らを見ることを強制してくる。ゆっくり、手帳は開かれた。
-処刑記録 第七区共同研究会-
乾いた文字、感情を滲ませない筆跡。
-罪状:-
-自然死の否定を目的とした技術研究。-
-寿命延長理論の実証段階への到達。-
-死者蘇生理論の仮説確立。-
そこで、紙が歪み、水に濡れた跡が残っていた。彼は目を逸らさない。
-判決:-
-研究体の完全処分。-
-関係者の即時処刑。-
その次には、別の筆跡で、いや、ユン・ソクの筆跡で書かれていた。
私は生かされた。仲間の研究と、その場所を密告した。それにより、私だけ処刑を免れた。仲間は、突然訪れた処刑者に全員殺された。その最後まで仲間は私を信じて、そしてこの手帳まで託してくれた。
処刑者はこの手帳に罪状を記した。私がこの罪を忘れぬようにと、再び過ちを起こさぬようにと。
記憶が滲む………。
研究所内に飛び散った、赤い水たまり。膝をついた仲間たち。何も言わなかった者、最後まで理論を貫いた者。ただ、彼の名前を呼んだ者。命を投げ出して、全てを守ろうとした者。
引き裂かれた彼らは。処刑者ではなく、私の手によって引き裂かれた彼らと私との仲は。ああ、きっともう戻ることなどできないだろう。戻すことなどできないだろう。
血の匂いが鼻にこびりついている。そしてもっと確かな、死の匂い。そして、あの声が耳にこびりついている。
「死は定められている。」
まるで機械音声だった。一切の抑揚も、息遣いも、何もなかった。
「世界が保たれるには、規則が必要だ。」
光がまた一人、また一人と切り裂いていく。発光する処刑者の刃が研究員を殺めていく中、ユン・ソクだけが、動けなかった。いや、動こうとしなかった………。
手帳を閉じる。音は、殆どしない。ただ、その静寂はもう先ほどまでのものと同一ではない。この世界には、明確な掟がある。幼い頃から言い聞かせられ、いつどこで定められたのかもわからないが、絶対的なルールが。
死は、世界の均衡を支えるもの。万物に平等に訪れ、逃れることはできない。それを歪める者は、排除される。
寿命延長、死者蘇生、時間操作。それら全て、同一な罪。そしてその罪の執行には………処刑者が来る。例外は認められない。一つたりとも。
ユン・ソクは目を閉じる。ここにいる時点で、結末は決まっている。それでも。
視線は眠るジンに向く。規則正しい呼吸、まだ失っていない顔。
───いや、すでに全て失っている。だから、ここに居る。だから、ここまで着いてきた。
彼は小さくため息を吐く。
「またか………。」
誰にも届かない声。止めるべきだと知っている。止めるべきだとわかっている。続ければ同じ結末になる。
彼の手は、机の上の擦り切れた紙に向かっていた。線はまだ、死んでいない。その設計図は、かつて仲間を死に追いやったもの。
廃墟の研究所で、闇の奥で、何かが静かに動き出していた。
───再び、禁忌が呼吸を始める。
【第七章/僅かに祈る】
研究所の空気は、あいも変わらず重いまま。だが、その空気の重さは以前とは質が変わっていた。息を押しつぶすような静けさの中に、停滞や後退でなく、全身の気配があった。辺りの装置群の周囲には分解されたパーツのかけらが転がり、繋ぎ直された配線が露出している。机の上には何度も書き直された推察や数式が書かれたノートが放られていた。二人とも声を発さない。今何か話してしまったら、この成功が終わってしまいそうだった。
何度も何度も失敗し、その度に成功への道を着実にこじ開けてきた。ようやくその一つが、形になろうとしていた。ユン・ソクが装置の最終工程を進める。バチリと音を立てる火花、焦げ臭い匂い。それでも装置は沈黙を保っていた───。
次の瞬間、低い振動が遅れて生まれる。ジンの目が見開かれる。
「………動いてる………。」
囁きのような声。表示板の光は弱い。また、それに表される結果も、まだ実用段階には程遠いことを示していた。今にも消えそうな明滅………。それでも確かに、今ここで期待していた反応が起こっている。ユン・ソクは数値を見つめる。表情は変わらない。しかし、機械の端にかけられた彼の指は震えていた。
「崩壊速度が………落ちている。」
事実だけを告げる声。今何か感情を混ぜてしまえば、この結果も無に帰してしまうような気がした。
「完全停止ではないが………これは………。」
そこで言葉が詰まる。続きは言わなくても分かる。死に対する歩みが、一時的に止められた。ガラス管の中に入っている細胞が、緩やかな崩壊をする。それは、今までよりずっと長くかかった。死に向かう流れが、一時的に鈍った。ジンの喉が鳴る。笑いでも、泣きでもない音。
「じゃあ………」
声が震える。
「戻るかもしれない………?」
ユン・ソクは答えない。答えられない。それでも、否定もしなかった。沈黙が、この夜だけは肯定を意味していた。装置の効果は弱い。奇跡と呼ぶには、あまりにも小さい。それでも───。
確かに、世界の禁忌に触れてしまった。
【第八章/彼を見つめる】
誰にも聞こえない場所で、何かが記録される。停止していた監視系、忘れられていた警告網、朽ちたはずの観測装置。微弱な信号が、ゆっくりと外に滲む。
-禁忌反応、検出-
遠い場所で、確かにそれは目を開いた。感情のない確認、迷いのない判断。
-処刑者、派遣承認-
研究所では、そんなこと知る由もなく、ジンは装置を見つめ続け、ユン・ソクは目を閉じていた。少年は失われた家族を取り戻す糸を手放さぬよう、穴が開くほど機械を見つめ、彼はかつての仲間への贖罪とでも言わんばかりに、ひっそりと神に祈った。
喜びではない。代わりに訪れたのは、確信だった。終わりが足音を立てて近づいてくるという、宣告が届く。それでも、彼は何も言わない。ただ静かに、次の調整を始める。止めない、もう、止められない。研究所の奥で、僅かな光が揺れていた。それは希望と、あまりにも似ていた。
【第九章/日常を噛み締める】
この研究所内に、朝日が昇ることはない。けれども二人は決まった時間に目を覚ますようになっていた。発電機の点検、水の濾過、装置の数値確認。同じ手順を、同じ順番で繰り返す、変化のない日々。その変わらなさが、そこでは奇跡に近かった。
ある日、ジンは保存食の缶を開けながら、眉をひそめた。パッケージラベルは擦り切れて見えなくなり、金属部分も多少錆び付いている。
「………またこれですか。」
乾いた豆の匂い。味など長期保存という目的の前には蔑ろにされるもの。それでも、味覚が繊細な少年にはその味こそ生活を豊かにするものであった。ユン・ソクは器に水を注ぎながら答える。
「栄養は足りる」
「味は足りません」
間をおかず帰ってくる言葉、ほんの僅かに拗ねた響き。ユン・ソクは一瞬だけ動きを止め、小さく息を吐いた。それは呆れでなく、埃で覆われた過去の記憶を拭う動きだった。
その日の夜、ジンが休憩室に戻ると、机の上に見慣れない鍋が置かれていた。カセットコンロの火が鍋底を炙り、ぐつぐつと音を立てる。湯気が立ち上るのに呆気に取られていたが、ぐう、と腹がなるのに気がつき、机の周りをユン・ソクと共に───どこから手に入れてきたかわからない乾燥野菜と砕いた保存食を皿に入れて持っている彼と共に囲む。質素なのには変わりない。まともな食事ではないことはわかっている。完全な料理、と言い切るには余りにも色々と不足している。だが───
「………あたたかい。」
ジンが呟く。ユン・ソクは鍋の火加減を見た後、材料を鍋に入れていった。少年が僅かながらに顔を綻ばせたのを見て、彼は言う。
「ただ単に味付けをして茹でただけだ。」
そっけない声。けれど、いつも落ち着いた声で話す彼にしては、少し早口だった。ジンは黙ってそれを一口食べる。味は、やはり大したことはなく、いつもの保存食より飲み込みやすい程度だった。それでも。
「………ほっこりします。」
その言葉に、ユン・ソクは何も返さない。ただ、何も言わずに自分の分を口に運ぶ。かちゃり、と皿とスプーンが机に置かれるまで、二人は静かに食事を続けた。しばらくして、
「………昔、よく作っていた。」
ほとんど独り言のような声。ジンは顔を上げるが、ユン・ソクはもう何も続けない。口に含まれた過去の記憶は、咀嚼を続けなければいけない。まだ。
それでも、沈黙と静寂は以前ほど寂しいものでなく───、むしろ、赦しの時間であった。
別の日。装置の調整中、ジンの手が止まる。
「ここ、計算違いませんか………?」
ユン・ソクは機械の整備をする陣の手元を覗き込み、少し考え込む。
「………合っている。」
「でも、ここの係数───」
言いかけて、ジンは口を閉じる。否定されると思ったのだろう。その沈黙の後、ユン・ソクは機械の制御端末に触れ、数値を書き換えた。ジンはそんなユン・ソクの顔を見つめたが、彼は目を逸らした。
「………こっちの方がいいな。」
ジンの目が見開かれる。叱責も、説明もない。ただ、意見が採用されたという事実だけ。
「………はい。」
小さな返事。けれど、その声には確かな熱が宿っていた。
【第十章/恐怖を見つめる】
夜、発電機の音の中で、ジンがぽつりと聞く。
「……怖く、ないんですか」
何を指すかは、言わなくても分かる。禁忌、処刑者、結末。ユン・ソクは少し考え───
「……怖い」
正直すぎるほど、短い答え。ジンは驚いた顔をする。
「でも、やめない」
続く言葉は、静かだった。
「……お前もだろう」
ジンは、ゆっくり頷く。二人の間に落ちた沈黙は、もう孤独の形をしていなかった。同じ場所へ向かう者の、共有された静けさだった。
その夜。
ジンはすぐに眠り、ユン・ソクは少し遅れて目を閉じる。研究施設は、変わらず暗い。電灯はパチパチ点滅し、ライトの線は焼き切れている。けれど───完全な闇ではなかった。ここには今、二人分の呼吸がある。それだけで。この場所は、かつてより少しだけ安息と平穏に近づいていた。
だからこそ、終わりは必ずやってくる。禁忌に触れたものが人間的な生活に近付いているのならば、それは。
【第十一章/凄惨を見る】
その夜、発電機の音が、いつもより低く響いていた。故障でも、機械の調整ミスでもない。ただ───そう感じただけだ。心情による作用、とでも言ったらいいのだろうか。ジンは眠っている。規則正しい呼吸。変わらないはずの光景。それでもユンソクは、目を閉じられずにいた。まぶたの裏に、別の夜があるからだ。
白い廊下。逃げ場のない光。床に並ばされる影。動かない背中。誰も叫ばなかった。誰も泣かなかった。ただ一人が、静かに言った。
「……ユン、生きろ」
責める声ではない。許す声でもない。託す声だった。
次の瞬間。音は───驚くほど小さい。処刑者が握る刃は速く、執行の終わりは短い。光が視界を満たす。一瞬の発光ののち、ユン・ソクが希望として抱いていた心の光は、世界の朝日で塗りつぶされた。世界は、何も変わらない顔で続いていく。誰も、ユン・ソクが裏切ったと思っていなかった。いや、そう勘づいた上で、見ぬふりをして、ユン・ソクに託してくれたのかもしれない。
ユンソクは息を止める。横隔膜が正常に機能しない。胸の奥が、あの時と同じ形で固まる。泥に塗れたかのように、粘りついた鎖が心を押し固める。
禁忌に触れるとは、ただ危険という意味ではない。処刑者という、世界そのものに否定されるということだ。
理論も。願いも。関係も。すべて───「在ってはならないもの」に変わる。そして最後に残るのは、生き残った者の時間だけ。終わらない、罰のような時間。見逃してもらったことに対する罪悪感で、自らの心を火炙りにする時間。気づけば、指が震えていた。止めようとしても、止まらない。その震えを、後ろから声が包む。
「……また、あの夢ですか」
ジンは起きていた。いつから見ていたのか、分からない。ユン・ソクは答えない。答えれば、形になってしまう。それでもジンは、逃げなかった。今まで聞かなかった、ユン・ソクの過去、それに、小さな少年は向き合おうとしている。共に暮らす仲間として、本人でもないのに、関係なんてないのに。
「怖いですよね」
静かな声。同情ではない。理解しようとする声。
「でも───」
一度、言葉を飲み込む。震えているのは、少年も同じだ。それでも。
「それでも、やらなきゃいけないんです。」
ユンソクの呼吸が、わずかに止まる。ユン・ソクは、この少年が変わっていっていることに、気がついていた。暮らしていくうちに。ユン・ソクと生活を重ねていくうちに。ジンは続ける。
「家族を戻したいから、じゃない。」
その言葉は、以前と違っていた。
「……このまま、誰も救えないまま終わるのが嫌なんです。誰かはわからない、それでも何かに置いていかれるのが。」
地下の空気が、静かに張り詰める。それは願いではない。祈りでもない。選択だった。恐怖を知った上で、それでも踏み出すという選択。それは人間の美しさであり、愚かさである。
長い沈黙のあと。ユンソクは、ゆっくり息を吐く。胸の奥の凍りついた場所が、わずかに軋む。ずっとミキサーにかけられていたような気分だった。それが今では、何ということだろう!彼の持つ強大な罪悪感はもはや彼の原動力となり、エンジンをかけているではないか!
「……同じだ」
かすれた声。
「俺も───それが、嫌だった」
救えなかった過去。動かなかった自分。残された時間。すべての根にあるのは、きっと同じ感情だ。二人は、何も言わなくなる。それでも。沈黙はもう、恐怖だけではできていない。その奥に、微かな意志が灯っている。禁忌は恐ろしい。世界は変わらない。結末も、きっと同じだ。それでも。それでも───
机の上の設計図に、二人の影が重なる。震えは、まだ消えない。だが指先は、もう止まらなかった。正解に辿り着こうとする、彼らの思考は、留まることを知らなかった。いや、忘れ去ったのだ!
ある場所、遠くで足音が夜の闇に溶け込んでいた。誰にも聞こえない場所で、刃に光を携えて。
【第十二章/終わりに近づく】
研究施設の空気が、わずかに変わっていた。理由は誰も口にしない。だが二人とも、気づいている。いや、その気づきがこの空気を生み出している。そろそろ、最後が近い。あるいは───最期が近い。絶えず淡い光を発し続ける装置の中心部には、新しく組み上げられた核がある。かつての残骸でも、仮の代用品でもない。ここまでの失敗すべてを踏まえて、初めて一つに繋がった形。それは二人の研究の集大成であったし、そして願い続けてきた奇跡の中枢でもあった。
ジンは、何度も数値を確認していた。ノートと表示上の数値を見比べ、それが正しいことを確認する。理論通りにことが進んでいることを実感する。合っているかどうか不安なのではない。むしろ逆だ。装置が理論通りに動きすぎて、その正しさが怖いのだ。
「……収束してます」
声が震える。抑えようとしても、抑えきれない。無理もない。努力の成果と、自らの抱いてきた希望が形となって現れたのだから。
「崩壊速度、理論値以下……維持時間も、限界を超えてる」
言葉の意味は明白だった。偶然ではない。誤作動でもない。───文句の一つもつけようがないほど成功に近い。ユン・ソクは、何も言わない。ただ、数式を見つめている。見慣れたはずの理論。かつて仲間と辿り着いた場所。そして───すべてを失った地点。胸の奥で、あの夜の冷たさが蘇る。白い光。膝をつく仲間。最後の声。
「生きろ」
ああ、これは何もかもを失ってしまう道なのだ。これは同じ道だ。同じ終わりへ続く、二度目の道。歩いてきてしまった。横にいる少年をちらと見、罪悪感を覚える。指先が冷える。呼吸が浅くなる。完成すれば───来る。必ず来る。例外は、一度もない。必ず、処刑の時間はやってくる。世のことを理を正すため、世界の意思そのものがやってくる。
「……先生。」
いつの間にか、ユン・ソクのことをジンはそう呼ぶようになっていた。彼は顔を上げる。ジンの目は、これより来たるものに恐れている。それでも───笑っていた。達成感と、その他の複雑な感情が混ざった、涙の溢れでる笑顔。
「ここまで、来ました。来れました。」
小さな声。叫びではない。歓喜に打ち震えるような声でもない。だがその中に、これまでの全部が詰まっている。飢えも。孤独も。死も。願いも。すべて越えて、今ここに立っているという事実。今までの何もかもを捧げてきた甲斐があったと言わんばかりの、少年の心の満ち足り方。
彼の喉が、わずかに動く。言うべき言葉は分かっている。
やめろ。まだ戻れる。
けれど。その言葉を口にする資格が、自分にあるのか分からなかった。ここまでこの少年を導いてきたのも、この少年が研究をできるような環境を作ったのも、この少年の研究を進めてしまうようなことをしたのも、全てユン・ソクだった。そして───
少年の目に宿るものと同じ光を、かつて、信じて疑わなかったからだ。
長い沈黙。装置の鼓動だけが、静かに響く。ユン・ソクは、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。震えは消えない。恐怖も消えない。それでも。目を閉じ、短く息を吐き───
「……よく、やったな。」
かすれた声。祝福には、あまりにも小さい。それでもジンは、はっきりと笑った。その笑顔を見た瞬間。胸の奥が、痛いほど軋む。
───守れなかった光と、あまりにも似ていた。ユン・ソクは理解している。ここが境界だ。越えれば、もう戻れない。そして。これが知られたら、もう俺は助からない。もう密告などできやしない。
それでも。
それでも───
装置の起動手順を、止めることができなかった。この実験結果を、記録しておかずにはいられなかった。
遠くで。確実に、何かが近づいている。足音はまだ聞こえない。だが───終わりだけが、正確に近づいていた。
【第十三章/超えることのできない】
装置の中心核が、静かに脈打っている。光は弱い。今にも消え入りそうな光だった。けれど確かに、そこに「生命に似た振動」があった。それは、この装置の実用的な完成の宣告にほぼ等しかった。
起動手順は、すでに最終段階に入っている。残る操作は、ひとつだけ。
───主電源の投入。ジンは何も言わない。そして、見ている。これは、ユン・ソクがやるべきことだと、ユン・ソクが結果を初めて見るべきだと、そう思っていた。ただ、隣に立っている。震えを隠しきれないまま。
「……先生。」
呼びかけは、祈りに近かった。完成させてください、そう言っていた。その想いに応えるように、ユン・ソクはゆっくりと手を伸ばす。しかし、装置の表面に触れる指先が、スイッチの上で止まる。冷たい金属。わずかな距離。それだけで───胸の奥が、凍りつく。
白い光。視界が、唐突に反転する。目で見ている世界が、脳内で見ている世界にとって変わる。ジンのいる研究施設ではない。あの時の仲間と共に実験を繰り返していた、過去の廊下。あたりに散らばる四肢、人間の部位。動かない影。呼吸ができない。時間が、同じ場所に戻る。記憶の最も忌み嫌った場所へ。自らの罪が色濃く映し出される、あの瞬間へ。
「……やめろ」
誰の声か分からない。自分かもしれない。それはその時言ったのか、今心の中で叫んだのかすらも、曖昧だった。それでも、記憶の中で白い刃は落ちる。一人。また一人。血の匂いよりも、終わりの静けさだけが広がる。最後に残った視線。責めない。恨まない。ただ───
「生きろ」
指が動かない。動いてしまえば、動作を始めさせてしまえば、同じ結末になる。分かっている。分かりすぎている。知ってしまっている。呼吸が乱れる。視界が歪む。不規則にはねる心臓の音だけが、やけに大きい。ジンの声が、遠くで揺れる。
「……先生?先生───」
届かない。聞こえない。少年が発した言葉の次元に、ユン・ソクの意識はもうなかった。世界が、過去に引きずり込まれる。
足元が崩れる。身体の力が抜け、ユン・ソクはその場に倒れ込んだ。金属音。途切れる呼吸。視界が暗く閉じる。最後に見えたのは───
スイッチに触れられないままの、自分の手。過去に縛られ、地獄に引き摺り込まれようとする、罪悪感の手。
夢を見る。逃れられない形で、あの夜を。
あれはまだ研究が始まったばかりの頃。あれはスミレが咲くぐらいの、春の始まりごろだったか。十人ほどが入り、そして大きな機材も入るぐらいの部屋で。いろいろな文章が綴られた紙が散らばり。研究に対する議論は盛んに行われ眠ることを知らず。誰かが笑っている。別の誰かが数式を間違える。取るに足らない、ありふれた時間。それがどれほど貴重だったか、今なら分かる。書類とファイルに囲まれた机の向こうであの人が言う。
「死は、ただの現象だ。」
吠えるオオカミでさえも花畑で眠りに落ちるような穏やかな声。
「ならば───、遅らせることも、越えることもできる」
あの時は若かった。何も知らなかったし、周囲を見渡せていなかった。今思い出してみれば、あれは無謀だった。それでも───今まで全ての人生の中で本気だった。
場面が歪む。悍ましいほどゆらめく光が差し込む。いつの間にか、"それ"はそこにいた。白い外套。感情のない足音。表情はなく、いや、そもそも顔すらなく。
誰かが立ち上がる。誰かが前に出る。誰かが、研究資料を急いでまとめる。次々と失われていく、仲間の命。あの時、俺は何もできなかった。ただ、処刑者の光の中に消えていく仲間を見ていることしかできなかった。ユン・ソクと処刑者を除いて最後に生き残ったあの人はただ静かに───
託す目。
「……ユン・ソク、生きろ。全てを抱えて、何処かへ。」
違う。あの時、俺は───
胸の奥で、言い表しようのない何かが崩れる。底へ底へと多重の鎖が、罪悪感というものが、彼を深淵の底へと導き、動きを止めさせる。
闇に飲み込まれゆく彼に、遠くからかすかな声が届く。懇願するような、必死で人を呼び戻そうとする声。ああ、それは少年の声だった。
「………戻って来て、戻って来てください!」
「僕を、置いていかないで………」
暗い暗い闇の底で、何かが動く。動きを止めていたそれが、拍動を持つ。
【第十四章/裏切りを見る】
彼が引き摺り込まれた、罪の意識という闇の底に、まだ触れられていない部屋が残っている。白い光による処刑の夜より、さらに前。すべてが引き裂かれる前の、彼の光の最後の分岐点。その時は冷たい雨が降っていた。風と、横殴りの雨が窓を叩く音が、やけに大きい夜。夜も夜中、他の仲間は各々のベッドルームへ移動していた。彼だけ一人残った研究室には、灯りが一つだけ残っている。机の上には設計図と論文。完成に、あと少し。誰も疑っていなかった。明日も続くと。この時間が、まだ先へ伸びていると。
扉が、静かに叩かれる。仲間ではない。私にだけ届いた───おそらくの話で、もしかしたら仲間はそれを読んでも告発しなかったのかもしれないが───便箋に書かれた警告文で、"それ"が来ることは、分かっていた。それでも───ユン・ソクは、扉を開けた。外に立っていたのは、白い外套の男。表情があるのか、意思があるのかすらわからない、感情のない目。大雨の中、ここまでやって来たというのに、傘を所持している様子も見当たらないのに、濡れていない衣服。夜も暗がりの中で雨音だけが、世界を満たしている。
「確認する。」
機械音声のようであり、肉声のようであり、男性的であり、女性的であり、子供のあどけなさを感じ、年老いた老人の貫禄を感じさせる、低い声。
「第七区共同研究体の所在。」
自分は全く関係のない研究員だと、仲間もそうであると、否定できた。処刑が遂行されるのを遅らせ、研究が完成するまで時間を稼ぐために、お茶を濁すこともできた。ただただ、この場は知らないと沈黙することもできた。そんな仲間を思っての選択肢は、いくらでもあった。言い淀むユン・ソクを見て、男は続ける。
「情報提供者には生存の保証が与えられる。」
その言葉で、時間が止まる。揺らいでしまった決心が大半を占めてしまった頭の中に浮かぶのは、仲間と語り合った理想でも、苦楽を共にし、それまで共に研究を続けて来た仲間でもない。───自分が殺されて、この世からいなくなってしまう、処刑の光景。言ってしまったら、終わる。全員、終わる。骨の一片たりとも何も残らない。世界を変えると意気込み、熱中させてくれた理論も。全員が抱いていた、希望となる願いも。全ての人々が命を隅隅まで味わい尽くせる未来も。すべて、最初から無かったことになる。
黒い雨音が強くなる。夜の沈黙の背後には、何も知らず眠る仲間たち。目の前には、そんな仲間に終わりを運ぶ存在。その間に、ユン・ソクは立っている。
「……場所は。」
ユン・ソクの理性とは裏腹に、声が出る。頭の中でいくら止めようとしても、止まらない。
「旧区画の───」
その言葉が、ユン・ソクの今まで生きて来た世界とこれからの世界を切り分ける。ここで生きていき、ここで骨を埋めるとするならば、越えてはならない線を、夜の雨音が足音を掻き消し、静かに踏み越える。白い外套の男は、ただ頷く。情報提供への感謝も、仲間を易々と売ったことへの軽蔑もない。それは、最初から定められていた当然の結果のように。
「理解した。」
その一単語だけ。無機質な足音は、降り頻る雨の中へ消えていく。あれの訪問で開かれていた扉が閉まる。全てが終わったことを示す音は、驚くほどに、誰も眠りから覚さないほどに小さい。研究室の中は、何も変わらない。机も。紙も。それでも。すべてが、もう終わっている。
研究が大詰めとなった明日の朝、それは執行しに来た。研究室で、全員が完成を見守っている頃、あの人が主電源のスイッチを押すわずかコンマ数秒前、扉が開かれ。白い光が研究所内に傾れ込んだ。次に聞こえたのは、誰かの悲鳴。その悲鳴は混じり合って、誰が誰であるかなんてわからなかった。胴体だけで膝をつく仲間たち、鮮血を吐き出す散らばった四肢、次々と切り裂かれる生存者。"それ"は私には見向きもせず、いよいよ最奥にいたあの人に刃を振り下ろした。悲鳴の代わりにあの人が放った言葉が。
「ユン・ソク、生きろ。」
最期だというのに、自らの人生が目の前にいる研究者の男によって終わらせられたというのに、あの人は。最期の最期まで笑顔で。こっちに。あの人は託したのだ。いや、託したんじゃない。俺が奪ったんだ。仲間から、あの人から、未来の人々から、命そのものを。
過去の記憶の中で、ユン・ソクの喉が裂ける。声にできないほどの叫び。後悔も、赦しを乞うことも、もう何も望んでいなかった。今あるのは、ただこの罪の中に潜り込み、永遠に叫び続けたいという破滅的思考回路のみ。だが。そんな自分にも、救いがあるとするなら?
闇が崩れ始める。過去のもっと先、ずうっと遠くから、ジンの声が届く。
「……先生」
震えている。それでも呼び続ける声。築き上げた罪は消えない。泥で踏み固めた過去も変わらない。それでも───この盲目的になった目を開けた先に、まだ未来があるのなら。俺を尊敬し、慕ってくれる仲間がいるなら。この失ってしまった光が、再び輝き出す時が来るのなら!命を全て投げ打ってもいい。もう、崩れ落ちたりしない。俺は、決心したんだ。今俺の周りには黒い影が立ち並んでいると思っていた。ああ、だが違ったじゃないか!あの時俺を信じて託してくれたのは誰だ!俺と共に研究をしていたあいつは言った!
「何もなせないことって怖いことなんですよね。だから、もし僕が死んだら、あなたが僕の夢、引き継いでくださいね。」
俺がその夢を叶えてみせる。そうすれば、無念は晴れる。そうすれば、何もかもが、託された意思を完遂できる!そしてなんだ、黒い影というのはみんな俺の仲間じゃないか!今までずうっと見守ってくれていたんだな。この不甲斐ない俺を。ああ、見ててくれ。俺は必ずお前らの無念を晴らす。
それに今の俺には、俺を慕って、俺と一緒に研究をして、そして命まで投げ出してくれるすばらしい仲間がいるじゃないか!俺だってそうだ、俺もお前とならどこまでも行ける気がするよ。
「………ジン、悪かったな。気絶なんてしたりして。俺は、もう大丈夫だ。」
彼は立ち上がった。その瞳の中に、ジンは見た。眩しいほどに煌めく、熱い光を。それは、彼の今までの行動から滲み出していた絶望と後悔ではない。何かをやり遂げてみせる、いや、研究を完成させる、その意思があった。ジンは、何も言わなかった。何を言おうが、先生は先生だ。そして、ジンはジンだ。そして、瞳に宿す光も、その瞳ごとの光だ。ジンは、彼の瞳に、こう誓った。必ずや、全てを終わらせてみせます、と。
【第十五章/通達を見る】
機械のスイッチは押されなかった。ユン・ソクは、最後にやることがある、そう言って休憩室に戻って行った。研究室に一人残されたジンは、装置が完成し、終わりを迎えるまでの心の整理をしていた。
「………ははっ………。」
今思えば、ここまで長かった。先生と過ごした日々、それは何もかもが有意義で、楽しくて、満ち足りていて。横目でちらと装置を見る。不格好で、色も素材もバラバラで、それでも動いている。動かすようにしたんだ。正直言って、僕はこの研究が終わるのが寂しい。全てが終わってしまえば、僕は一人だ。薄々勘付いてはいた。この研究が完成しても、僕の家族は戻らないって。僕たちが研究していたのは、あくまで死を遅らせる技術。死んだ人間など、蘇らせれるはずもない。それでも。
「………やっぱり、先生と、終わりを迎えたい。何もせず、何もやったという思いなく………。」
「そんなふうに死んでいくのは、嫌だ。」
たとえ最期が呆気ないものだとして。それが僕たちの命を無くすものだとして。もはやそれは問題ではない。先生と一緒なら。先生と完成を見れるなら。それで良いって、思ったんだ。
ユン・ソクは自らの手帳を取り出す。ひび割れた革の表面、何度も開かれた形跡。彼はランプの灯った机に座り、空白に文字を書き連ねる。しばらくして、それを書き終えたかと思うと、新しい紙を取り出し、それにまた何かを書き始めた。今度はそれを書き終わると封筒に入れ、それを部屋の外に置いた。
遠くから、雨の音が響く。ユン・ソクには、それが来る時間も、それが来る目的も、全てわかっていた。扉の前に、それは来た。気配が背中を刺すようだ。しかし、今度は違う。あの時とは違う。それは先ほど置いておいた封筒を確認したようで………足音が離れて行った。全てはうまくいった。あとは、完成の日に。
【最終章/永き光の終着点】
最後の眠りは覚め、二人は機械を見つめていた。それは永きにわたる研究に終止符を打つ存在であり、そして完全に戻ることができなくする、禁忌の申し子だった。だが、もはやそんなこと二人には関係ない。もう、迷いなどなくなり、かたや仲間の無念を晴らすため、もうかたや尊敬する人の夢を叶えるため、起動のスイッチを押そうとしていた。心残りはもうない。過去はもう見ていない。過去に囚われていることも、もうない。そして、電源は入れられた。
───カチリ。世界の理が、歪んだ音がした。機械が起動し、低い振動音が辺りに響き渡る。数値が安定し、光が一定の周期で明滅する。画面に映し出された細胞の崩壊は起こっていなかった。止まっている。それは、この研究の成功を意味していた。何もかもが、救われる。だが───この世界にとっては、それは救いを表さない。越境。境界線を踏み越えてしまった。それでも、今は気にしない。ジンの目が見開かれる。
「……できた。」
信じられないように笑う。それはユン・ソクも同じだった。彼もまた、昔の光を取り戻し、成功に笑えるようになっていた。
「本当に……。」
しかし、それも長くは続かない。ある気配に、二人とも言葉を失う。その瞬間。成功の安堵と達成感という温かみで満たされていた空気が、凍りついた。来た。二人とも言葉にしない。だが、分かる。世界の理という存在の圧が、現実を塗り替える。僅かなランプの灯りで照らされた研究施設の奥、空間が裂けるように───処刑者が、現れる。あの時と同じ姿。同じ輪郭。同じ、無機質さ。そして今回も───判断が完了している。
-禁忌抵触、条件成立、よって執行を開始する-
ユン・ソクは、ジンの前に出た。自ら、処刑者に向かって、その足で、歩いて行った。その行動に、処刑者は何も口にすることはないが───ジンは思考が停止した。
「おい、処刑者。なぜここで研究していることがばれたんだ?もしや、この少年、ジンが密告でもしたのか?」
芝居がかった口調、彼らしくなく、多くを語り、まるで説明するかのように長ったらしく話す。
「処刑者に手紙を渡して、そして裏切り行為で生き残るなんて………まったく、羨ましいぜ。」
「お、おい、ちょっと待て───」
ジンは処刑者に向かって歩いていくユン・ソクを止めようと、彼の手を掴む。しかし、その手を彼は振り払った。そして、彼は戸惑い、この状況を理解できない、理解したくない少年に、にっこり笑顔で。彼を縛り付けていた鎖が、彼の背中に重くのしかかっていた罪悪感が、彼を恐怖に陥れていた空虚感が、全てが取れ落ちたそんな屈託のない、まるで少年のような笑顔を浮かべて。その笑顔は、きっと、仲間と研究していた、あの時のもの。
「ジン、生きろ。好きに生きてくれ。」
-処刑対象、ユン・ソクを確認。密告者ジンは特別処置により、生存を許可。只今より、執行を開始する-
俺、みんなの気持ちがわかった気がするよ。光が収束していく処刑者の掌を前にして、彼は物思いに耽っていた。次に託して、自らの意思が受け継がれなくとも、それを記憶した人がいて。そして、誰かのために犠牲になるって。こんなにもこんなにも………。
彼に、光の刃が振り下ろされた。
「生きているって、実感できるんだな。」
ユン・ソクは最期まで目を閉じなかった。仲間と自分とジンが、幸せで満たしていこうって決心したこの美しい世界を最期の光景にするために。自らの罪の始まりと、その終わりを見るために。
光が、彼に触れる。音は、ない。静寂が広がるばかり。痛みも、叫びも、何も残さない。ただ。存在だけが、静かに───削除されていく。彼が受けたすべての事象を、静かに削除していく。輪郭が薄れ、色が消え、最後に残ったのは、ジンを見ていた視線だけ。それも、やがて消えた。沈黙。完全な、沈黙。機械の音さえ、もう遠い。そこにいるのは、ジン一人だけだった。
「……ふざけないでくれよ………置いてくなって………前に言っただろ………」
先生との思い出が蘇る。
冬の終わりを告げるには、まだ早すぎる冷たい風が、研究棟の窓を細く震わせていた。ユン・ソクは、その震えに気づきながらも視線を上げなかった。白い机の上に並ぶ記録用紙、淡く光る計測器、規則的に脈打つ装置の低音───それらすべてが、彼に残された時間を静かに削っているようだった。背後で、控えめな足音が止まる。
「……また、徹夜ですか?」
振り返らなくてもわかる声だった。ジンは、いつも同じ距離で立ち、同じ調子で心配する。ユン・ソクはわずかに笑った。
「もう少しだ。」
それは、何度も繰り返された言葉だった。
朝になると、研究棟の廊下には薄い陽光が差し込む。古びた自動販売機の前で、ジンは必ず二本の温かい缶コーヒーを買った。一本は自分用、もう一本はユン・ソク用。だがユン・ソクは、ほとんど口をつけない。
「冷めますよ。」
「そうだな。」
それでも、ジンは毎朝買い続けた。飲まれないと知りながら。差し出したままの温もりが、まだここに日常が残っている証のように思えたからだ。昼には、研究棟の裏庭で短い休憩を取ることもあった。雪解けの水が土に滲み、硬かった地面がわずかに柔らぐ。ジンはどうでもいい話をした。昔見た映画の話、子どものころ飼っていた犬の話、意味もなく笑った出来事の話。ユン・ソクは、ほとんど相槌しか打たなかった。それでもジンは話し続けた。沈黙に沈まないように。
どれくらい、時間が経ったのか分からない。膝をついたまま、動けない。理解が、追いつかない。いや───本当は、分かっている。最初から。こうなることを。それでも。喉の奥から、声が漏れる。
「……なんでだよ」
返事は、ない。当然だ。もう、どこにもいない。その時。背後で、小さな音がした。振り返る。研究装置の中心。完成した機構が、音を立てて光っている。───生きている。ユン・ソクが遺した、たった一つの結果。ジンは、ゆっくり立ち上がる。足は震えている。それでも、歩く。装置の前に立つ。手を伸ばす。思考が止まる。意味はない。長い沈黙のあと。ジンは、小さく息を吐いた。そして。装置の電源を───自ら切った。光が消える。完全な、暗闇。それは、希望を捨てた行為ではない。逃げでもない。ただ───受け取ったのだ。ユン・ソクの死も、選択も、終わりも。すべてを。外では、風が吹いている。廃れた世界は、何も変わらない。人は死ぬ。禁忌は罰せられる。救いは来ない。それでも。ジンは、歩き出す。一人で。もう、振り返らない。
───世界はなにも赦さない。世界はなにも残そうとしない。それでも。それでも───
───人は、生き続ける。たとえ、自らが愛していた光が、この世から消えてしまっても。




