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天魔

作者: まっちゃ

こんにちは、まっちゃです。皆さん、お元気ですか?早くも1月の後半ですね。寒い寒い。今作はめっちゃ字が続きます。字数的には前作「それでも、鰯は群れを成す」のほうが多いですが、読書が苦手な方はこっちのほうが断然読みづらいと思います。

【序章 見えぬ外界の亡き出口】

上層階の風は冷たく、切れ込みのように街の隙間を滑り抜けていった。アトラは手すりに寄りかかり、下界を見下ろす。高層ビルの屋上は、光も音も無く、まるで世界そのものが押しつぶされているかのようだ。

通りの向こうにいる人々の足取りが、どこか揃わない。呼吸のリズムも、微かにずれている。看板の文字が、ほんのわずか、揺らいだように見えた。アトラは眉をひそめる。――気のせいか。それとも、何かがおかしいのか。

街灯の光に照らされた影が、建物の壁に触れず、浮いたまま揺れている。息を吸うたび、胸に圧迫感が広がった。肺が、空気ではなく水で満たされていくような錯覚。階段を下りようとしても、足元の感覚が微妙にずれ、段差が延び縮みしている。

隣の家の窓から微かな声が漏れる。話しているはずの言葉は、どこか奇妙に重なり、理解できない。アトラの耳には、自分の心臓の音だけが鮮明に響く。

手すりを握る指先が冷たくなる。頭の中で問いが巡る。「なぜ、息がこんなにも重いのか――?」

目の前に現れた街灯の柱に、影が伸びる。形は人に似ているが、境界が曖昧で、膨張し、収縮する。アトラは一歩後ずさる。踏み出した先が床か空間かも分からなくなる。目を閉じても、音も光も消えず、肺の中に水が押し寄せる感覚だけが残った。

上層階の風景は、もう日常の形を留めていない。建物は迷路のように絡み合い、空は低く、閉ざされ、出口はどこにもない。アトラは、まだ見ぬものの気配を感じる。――それは、形を持たず、言葉にもならず、ただ存在を知らしめる力だけで、呼吸を奪い、意識を圧し潰す。

息を吐くたび、重力が増すように。街は、空気は、そして都市のすべてが、少年を深海へと沈める。希望はこの世界にはない。そこにいるのは、ただ、見えぬ何か――天魔の気配だけだ。


【第一章 雲を泳ぐは天空ノ魔物】

屋上に立つアトラ。遠くの建物群は、霧に覆われて形を歪める。昼間なのに、空気は鉛のように重く、風は無言で街を撫でるだけだ。アトラは手すりに寄りかかり、下界を見下ろす。見慣れた街が、まるで別の都市のように錯覚する。遠くの塔は高すぎて、先端が空に溶けているかのようだ。

通りの人々の足取りは揃わず、誰もが異様に慎重に、ゆっくりと歩いている。声は届かず、笑い声もない。アトラの耳には、自分の呼吸だけが、明瞭すぎるほど響く。周囲の時間が、彼を中心に歪むように感じられた。

建物の窓に映る影が、動きのテンポをわずかにずらしている。まるで人影が空間の裂け目から漏れているようだ。アトラは無意識に視線を避けるが、気配は追ってくる。影は壁に触れず、浮遊し、膨張と収縮を繰り返している。

胸の奥に重さが積もる。呼吸が水に押されるように苦しく、肺が圧迫される。視界の端で、光と影が混じり合い、理解できない形を描く。アトラは階段を下ろうとするが、踏み出すたびに段差が伸びたり縮んだりしているように感じ、足元の感覚が信じられない。

窓から漏れる微かな声も、まるで重なり合った言語の層のように響く。理解できないのに、耳は離せない。頭の中で問いが巡る――「なぜ、世界はこんなに重いのか」。空は低く垂れこめ、都市は圧縮され、出口は見えない。

影の膨張が視界を占め、空気は息苦しく変容する。アトラは手すりにしがみつくしかなかった。目を閉じても、景色は消えず、音は消えず、重力と空気が絡み合い、全てが彼を抑えつける。逃げ場はない。ただ、上層階に漂う微かな異質の気配――存在の輪郭すら持たない何か――が、彼を見ている。

息を吸うたび、街は静かに、確実に、アトラを飲み込む。存在の確かさは幻想でしかなく、目の前の世界は、彼の思考を試す迷路そのもの。建物も通りも、空も光も、ただ一つ――天魔の影を映し出す舞台に変わっていく。

通りの灯りが揺れ、ビルの窓ガラスが波打つ。アトラの視界は微細に歪み、直線と思っていたものが曲線を描き、距離感は狂う。彼が一歩踏み出すたび、地面は瞬間的に柔らかく沈み、また硬く跳ね返る。まるで都市全体が生き物のように呼吸しているかのようだ。

遠くの塔に浮かぶ影が、まるで空中で生き物のように形を変える。翼を広げ、体をねじり、時折消えたかと思えば、視界の隅でまた現れる。その動きは不規則で、意図を読み取れない。アトラの心拍は乱れ、耳鳴りが混ざる。世界が彼の内側に侵入してくるようだ。

歩道に立つ人影は、ただの人ではない。動きが不自然に遅く、ある者は壁をすり抜けるかのように消え、ある者は自身の影と入れ替わる。アトラは立ち止まり、手のひらで額の汗を拭うが、冷たさだけが残る。息が重く、胸の内が水圧に押される。

遠くから聞こえる鐘の音も、ひび割れたガラスのように耳を切り裂く。都市全体が音と光の迷路となり、アトラはどこに立っているのか、何を信じればいいのか、理解できなくなる。彼の視界に映る全ての形は、不安と疑念の象徴でしかない。

歩くたびに、足元の感覚が裏切る。階段の一段目は実際には三段分伸び、次の段は踏み外したかのように空中に消える。アトラは慌てて手すりを握るが、指先に伝わる感触も確かではない。空気は重く、時間は緩慢に流れ、都市は無言の圧迫で少年を押しつぶす。

そして気づく――視界の隅で、何かが彼を見ている。形を持たず、色もなく、言葉もない。だが確かに、存在している。心臓の奥で、血液が逆流する感覚。呼吸はますます重く、胸が押しつぶされそうになる。天魔の気配は、まだ姿を見せない。だが、都市のあらゆる隙間、壁、影、光――あらゆる場所がその意思を宿している。

アトラは踏み出す。逃げ場のない迷路の中で、少年の意識は微かに震え、都市の深淵に引き込まれていく。希望は一瞬も顔を見せず、存在するのはただ、見えぬ力――天魔の胎動だけだった。

空気は濃密な水のように肌を包む。アトラの呼吸は抵抗に潰され、肺は酸素を求めても応えない。足元のコンクリートは流動し、建物は歪み、階段は空中に浮く。まるで都市全体が彼を捕食する生物となったかのようだ。

遠く、見えない高みで風がざわめく。その音は耳に届くのではなく、骨を通して直接脳を震わせる。影が壁から剥がれ、空中で絡まり、形を失い、また瞬間的に現れる。アトラの視界は常に揺らぎ、目を開けても閉じても、現実は拒絶される。

街灯に映る自分の影が、微かに意志を持って動く。手を伸ばすと、影は指先をすり抜け、代わりに目の奥に別の影が浮かぶ。背後には何もないのに、何かが常に彼を追いかけている感覚が消えない。胸の圧迫は増し、心臓の鼓動が鼓膜を打ち破りそうだ。

都市の音は歪み、時折、聞き慣れぬ声が割り込む。それは言葉ではない――嗚咽、叫び、囁き、全てが重なり、アトラの理性を蝕む。周囲に人の姿はあるはずだが、彼の目には誰も存在しない。全てが虚ろで、空間は無限に拡張する。

そして、ふと、視界の片隅で――黒い影が、銀色の光を纏い、空中に立ち現れる。形は定まらず、しかし確かに存在し、圧倒的な存在感で都市を貫く。天魔はまだ口も目もなく、言葉もなく、ただその意志だけが伝わる。都市全体がそれを讃えるかのように揺れ、アトラの存在を飲み込もうとする。

少年は立ち止まる。どこへも逃げられず、希望も光も届かない。深淵が眼前に広がり、全ての感覚がそこへ吸い込まれる。呼吸は水の圧に潰され、理性は霧のように溶けていく。

都市の深淵、無限の虚空――その中心で、アトラはただひとつの問いと向き合う。

「この世界で、何を信じればいい……?」

応えはない。ただ、見えぬ天魔の気配が、都市の隅々で脈打ち、少年を完全に支配していく。

都市は、ふと静まった。さっきまで耳を圧していた歪な音が、嘘のように消える。風は止み、影は壁に貼り付いたまま動かない。アトラは屋上の中央に立ち尽くし、自分の呼吸が、ようやく空気を吸っていることに気づく。胸の圧迫が、わずかに和らぐ。

肺に入る空気は冷たく、乾いていて、確かに現実のものだった。

――気のせい、だったのか。

そう思おうとした瞬間、違和感が残る。

都市は静かすぎた。人の気配が、音だけでなく、存在そのものとして消えている。見下ろした通りに、人はいる。歩いている。立ち止まっている。それなのに、都市は無人だった。

アトラは気づいてしまう。人々は「生活」をしているが、「生きて」はいない。

彼らの動きは正確で、無駄がなく、あまりに社会的だ。まるで都市という機構の一部として、決められた動作を繰り返しているだけの歯車。

魚が、肺を失ったように。人間もまた、この都市に適応するために、何かを失ってきたのだと。

感情か、疑問か。それとも――恐怖か。

アトラの視線が、遠くの高層塔に吸い寄せられる。雲の中に半分沈んだその建造物は、最上層が見えない。いや、見えないのではない。見ようとすると、認識が拒まれる。目は捉えているのに、脳が理解を拒否する。

そこに「何か」があることだけが、確信として残る。心臓が、強く打つ。一拍、遅れて、もう一拍。

――見られている。

背後ではない。上でもない。都市そのものが、アトラを内側から覗いている。

逃げようとした思考が、途中で溶ける。逃げ場がないのではない。逃げるという概念が、この都市には存在しない。

空が、わずかに暗転する。

昼と夜の境目が曖昧になり、光は濁った水の底のように拡散する。都市の輪郭が、再び歪み始めるが、今度は恐怖を伴わない。

それが、いちばん致命的だった。

アトラは理解する。

この感覚に慣れたとき、人は完全に「こちら側」になるのだと。

疑問を持たず、違和感を無視し、重さを当然として受け入れる。

深海に適応した生物が、目を捨てるように。人間もまた、この都市に適応するために、思考を捨てる。

都市が、再び呼吸を始める。だがそれは、先ほどのような暴力的なものではない。

ゆっくりと、確実に、海流のように。

アトラの足元で、影がわずかに揺れた。人の形をしているが、人ではない。

それは影ではなく、投影だった。

天魔は、まだ姿を持たない。だが、すでに十分だった。

都市は完成している。恐怖も、混乱も、絶望も必要ない。ただ、沈ませるだけでいい。

アトラは、手すりから手を離す。落ちるつもりはない。それでも、体はわずかに沈む感覚を覚える。

――もう、始まっている。


【第二章 捨てた思考の甘味料】

都市は、昨日と同じ形をしていた。同じ空。同じ建物。同じ道。

違和感は、もうない。

アトラは歩く。考えずに、歩く。

足は自然に前へ出て、止まる理由も、急ぐ理由もなかった。

人々は多い。

けれど、混雑はしていない。

ぶつかることも、避ける必要もない。

流れに乗れば、それでよかった。

視線を上げる。

看板が光る。

文字ははっきりしていて、意味もすぐに分かる。

理解に時間は要らなかった。

胸は軽い。

呼吸は、深い。

昨日まであった重さを、思い出そうとして――やめる。

思い出す必要は、ない。

都市はやさしい。

何も考えなくても、正しい場所へ運んでくれる。

アトラは、それを疑わなかった。

案内は、いつの間にか始まっていた。

音はない。

声もない。

それでも、迷わない。

足が、知っている。

横断歩道の前で止まり、

信号が変わる前に、歩き出す。

赤だったか、青だったかは、どうでもよかった。

渡れた。

それで十分だ。

視界の端で、通知が光る。

端末を取り出す必要はない。

光るだけで、内容は伝わる。

今日の天気。

今日の気分。

今日、考えなくていいこと。

親切だった。

都市は、先回りする。

欲しい言葉を、欲しい順番で並べる。

難しい語は、使われない。

疑問符は、削除されている。

アトラは読む。

読む、というより、流される。

理解は、即座だった。

理解しようとしなくても、理解できる。

胸の奥で、甘さが広がる。

砂糖ではない。

後味が残らない、軽い甘み。

噛む必要がない。

飲み込む必要もない。

ただ、溶ける。

人々の表情は穏やかだった。

笑ってはいない。

だが、不満もない。

目は画面を追い、

指は動き、

身体は止まらない。

座った者もいる。

立ち続ける者もいる。

どちらにも、意味はない。

身体が楽な形を選ぶ。

意識は、報告を受け取らない。

考えないことが、最適化されている。

アトラは、立ち止まらない。

立ち止まる理由が、与えられていない。

ふと、胸の奥で何かが引っかかる。

小さく、硬い感触。

――昨日。

だが、言葉になる前に、消える。

代わりに、別の光が差し込む。

安心。

効率。

正常。

それらは、疑うには心地よすぎた。

都市は、囁かない。

命令もしない。

ただ、甘い。

深く、深く、

考える前に、沈ませる。

人は、笑っていた。

理由は分からない。

けれど、笑っている。


通りは整っている。

歩幅は揃い、立ち止まる者はいない。

誰も急がず、誰も遅れない。


それで、十分だった。


店の前を通ると、扉は自然に開く。

中は明るく、静かで、音は角が取れている。

並ぶ商品は少ない。

選ばせる気がない。


手に取ると、重さはちょうどいい。

説明は短く、必要なことだけが書かれている。

読まなくても、困らない。


支払いは早い。

迷う余地がない。

終わったあとに、間違いがなかったと分かる。


――いい。


その感覚が、喉の奥に残る。

甘い。

けれど、強くない。

もう一口、欲しくなる程度。


外に出ると、空は明るい。

雲は低く、街を覆うように広がっている。

守られている、と感じる高さ。


人々は話している。

声は小さく、穏やかだ。

言葉の内容は聞き取れない。

聞き取れなくても、問題はない。


誰も、怒っていない。

誰も、悩んでいない。

少なくとも、そう見える。


アトラは歩く。

足は止まらない。

止める理由が、浮かばない。


胸は軽い。

呼吸は安定している。

昨日の重さを、思い出そうとして――やめる。


思い出す意味が、ない。


立ち止まると、背後から流れが押す。

押されている感覚はない。

ただ、自然に前へ進む。


視線の先に、案内が現れる。

短い言葉。

肯定的な色。

否定は、どこにもない。


それを選ぶ。

選ばされたとは、思わない。


選んだあとで、正しかったと分かる。

間違いではなかった、という安心が残る。


それが、心地いい。


人々の表情は柔らかい。

笑顔は薄く、均一だ。

深くはないが、欠けてもいない。


幸福は、ここにある。

そう、言われていないのに、分かる。


アトラは、何も考えていない。

考えなくていい状態に、疑問を持たない。


それが許されている。

それが認められている。


――いいな。


その言葉が、意識に浮かぶ前に、

次の道が示される。


都市は、甘い。

甘さは均一で、逃げ場がない。

どこを歩いても、同じ味がする。


それでも、嫌ではない。


むしろ、

この中にいる限り、

間違えなくて済む。


影が足元で揺れる。

人の形をしている。

だが、人ではない。


気にする必要は、ない。


都市は完成している。

幸福も、正解も、流れも。


天魔は、まだ姿を持たない。

だが、もう十分だ。


甘さは、すでに血に回っている。


それでも、まだ足りない。


都市は、さらに与える。

量ではない。

質でもない。

密度だ。


アトラの一日には、空白がない。

だが、詰まってもいない。

必要なことだけが、ちょうどよく並ぶ。


起きる時間。

歩く速度。

休む間隔。


すべてが、最適だった。


誰かと話す必要はない。

話さなくても、理解されている。

理解されていると、分かる。


名前を呼ばれない。

だが、間違われない。


それが、安心だった。


窓の外で、人が手を振っている。

こちらを見ているわけではない。

それでも、不安は生まれない。


誰もが、同じように満たされている。

比較が成立しない世界では、

優劣も、嫉妬も、意味を失う。


幸福は、平等だ。

だから、誰も疑わない。


アトラは、ふと立ち止まる。

理由はない。

止まっても、流れは乱れない。


都市は待つ。

急かさない。

置いていかない。


立ち止まっていることさえ、

予定に含まれている。


胸が、温かい。

心拍は安定している。

鼓動は、都市のリズムと重なる。


深く、考えようとする。

だが、その必要が見当たらない。


問いがない。

問いがないことに、違和感を覚えない。


――これでいい。


そう思った瞬間、

その思考は記憶に残らない。


甘さは、思考を通過しない。

直接、神経を撫でる。


幸福は、判断を必要としない。


人は、考える前に、

沈む。


都市は、完成している。

人も、完成している。


天魔は、まだ姿を持たない。

だが、すでに役目を終えている。


恐怖はいらない。

混乱もいらない。

抵抗は、最初から存在しない。


甘さは、

生を包み、

死を隠し、

死後さえも、機能し続ける。


アトラは、気づかない。

気づく必要がない。


この都市では、

気づかないことこそが、幸福だからだ。


【第三章 崩壊招く天魔の調味料】

甘さがある。

昨日のものより、わずかに強い。


それは舌で測れるほど露骨ではなく、

気づいたとしても、気のせいで済ませられる程度だった。


都市は、今日も正しい。

建物は立ち、道は整い、空は覆いかぶさるように低い。

雲は動かず、光は均一に降っている。


アトラは歩く。

昨日と同じ速度で、同じ方向へ。


足取りに迷いはない。

理由もない。

理由がないことを、問題だとは思わない。


通りには人がいる。

数は変わらない。

減ってもいないし、増えてもいない。


ただ、誰も立ち止まらない。


会話は続いている。

声は穏やかで、抑揚が整っている。

内容は耳に残らないが、不安も残らない。


それでいい、と身体が判断する。


昨日までと違う点があるとすれば、

選択肢が、さらに減ったことだ。


看板の文字は短くなり、

色はより肯定的になり、

否定の語は完全に姿を消した。


疑問符は、もう存在しない。


提示されるのは、結果だけだ。

過程は示されない。

示されなくても、困らない。


人々は選ぶ。

だが、選んだという実感は残らない。


選択の責任が、最初から存在しない。


アトラには、それが当たり前となっていた。


いい、という感覚。

理由を求めない肯定。


胸の奥で、甘さが広がる。

第二章のそれより、確かに濃い。

だが、重くはない。


砂糖ではない。

人工的で、輪郭のない甘味。


摂取したという感覚すら、後から消える。


空を見上げると、

太陽がある。


いや、あるはずだ。


光は感じる。

暖かさもある。

だが、輪郭がぼやけている。


直視しようとすると、

視線が自然に逸れる。


見つめられているような気がしたが、

その考えは途中でほどける。


考え続ける必要はない。


羽が、落ちていた。


純白よりも白く、

光を反射して、すぐに輪郭を失う。


誰も拾わない。

誰も気づかない。


気づかないことが、正しい反応だと、

空気が教えてくれる。


アトラも、足を止めない。


昨日なら、

立ち止まっていたかもしれない。


だが今日は、

立ち止まる理由が、頭に浮かばない。


浮かばないことに、違和感はない。


建物の壁面に、細い亀裂が走っている。

だが、崩れてはいない。


ひび割れは、進行している。

だが、警告は出ない。


都市は、まだ完成している。


完成しているからこそ、

崩壊は静かだ。


音は立てない。

揺れもしない。


ただ、少しずつ、

戻れなくなる。


人々は前を向いている。

前しか向けない。


背後を振り返るという動作が、

選択肢から削除されている。


アトラは気づく。

いや、気づきかける。


――昨日より、甘い。


その一文が、

意識の縁に浮かぶ。


だが、次の瞬間、

別の感覚が上書きする。


安心。

正常。

問題なし。


そのどれもが、

確かめるには心地よすぎた。


都市は、壊れ始めている。

だが、誰もそれを「異常」と呼ばない。


完成しているからだ。


完成しているものは、

疑う必要がない。


アトラは歩く。

甘さは、さらに深くなる。


そして、

「まあ、いいや」

という感覚だけが、

静かに残った。


甘さは、もう隠れていない。

だが、主張もしない。


それがいちばん、厄介だった。


通りの端で、表示が一つ消える。

次の瞬間、別の表示が現れる。

誰も「減った」とは思わない。

増えたとも、思わない。


帳尻は、常に合っている。


合うように、調整されている。


アトラは気づく。

最近、説明が減っている。


理由が示されない。

だが、結果は正しい。


正しいから、納得する。

納得するから、疑問は不要になる。


便利だった。


選択肢はある。

だが、選ばなくてもいい。


どれを選んでも、「最適」が出力される。


責任は、最初から発生しない。


間違えたとしても、

それは個人の問題ではない。


環境がそうだった。

流れがそうだった。

仕方なかった。


その言葉が、

どこからともなく共有されている。


誰かが転ぶ。

周囲は少し避ける。

誰も止まらない。


救急車は来ない。

必要がないからだ。


数分後、そこには何もなかった。


血も、騒ぎも、「なかったこと」になっている。


アトラは思う。

――処理が早い。


その感想は、称賛に近い。


街は、静かだ。

静かすぎる。


怒鳴り声がない。

泣き声もない。


感情は、トラブルの予兆だから。


予兆は、早めに除去される。


画面が光る。

また、光る。


内容は覚えていない。

覚える必要がなかった。


「今の自分に必要なもの」

それだけが、供給される。


甘さは、口に残らない。


胃にも残らない。


だが、判断にだけ、沈殿する。


考える前に、

「まあ、いいか」が出る。


その速度が、昨日より少し速い。


アトラの歩幅も、わずかに一定になっている。


立ち止まると、背後から流れが補正する。


押されているわけではない。

遅れただけだ。


遅れは、悪ではない。

ただ、非効率なだけ。


効率は、善だ。


誰もそう言っていない。

だが、全員がそう動いている。


空を見上げると、雲が低い。


低すぎて、空というより天井に近い。


圧迫感は、ない。

むしろ、落ち着く。


覆われている。

守られている。


そう感じるように、

設計されている。


建物の上から、

白いものが落ちる。


羽のようにも見える。

だが、すぐに溶けて消える。


誰も気に留めない。

ゴミではない。

現象でもない。


処理済みだ。


遠くで、光が一瞬、強く瞬く。

太陽が、こちらを見たような気がする。


気がするだけだ。


確認する者はいない。


都市は、少しずつ崩れている。

だが、その崩壊は――


不快ではない。

危険でもない。

悲劇的ですらない。


むしろ、

「楽」に近づいている。


手放すものが増えるほど、

身軽になる。


疑問を捨て、

責任を捨て、

判断を捨てる。


それで、生活は回る。


回ってしまう。


アトラは歩く。

何も考えていない。


考えなくていいことに、安心している。


その安心が、最も甘い。


甘さは、すでに致死量を越えている。


だが、誰も倒れない。


倒れたことに、気づかないからだ。


甘さは、さらに増している。

昨日のものより、わずかに強い。


アトラはそれを、悪いとは思わなかった。

ただ――少しだけ、濃い。


街を歩く速度が、合っていない。

遅いわけではない。

速いわけでもない。


それでも、

流れの中で、ほんの一拍だけズレる。


すぐに補正される。

足が、勝手に次の一歩を選ぶ。

選ばされた感覚は、ない。


なのに。


歩いた距離を、覚えていない。


どこから来て、

どこへ向かっているのか。

考えようとすると、

思考が途中で途切れる。


不快ではない。

頭が軽い。


軽すぎる。


通りの向こうで、

誰かが立ち止まっている。


いや、

立ち止まっているように見えただけだ。


次の瞬間には、

その人影は流れに戻っている。


転んだのかもしれない。

躓いたのかもしれない。


けれど、

誰も触れない。


必要が、ないから。


「大丈夫ですか」


その言葉が、

頭の中に浮かびかけて――消える。


言う理由が、見つからない。


助けを必要としているかどうか、

判断する材料が、与えられていない。


ならば、

判断しないのが正しい。


アトラは、歩く。


胸の奥で、

小さな引っかかりが、また現れる。


昨日より、

ほんの少しだけ、硬い。


――何かを、忘れている。


そう思った瞬間、

画面が光る。


安心。

正常。

問題なし。


その三つが並ぶ。


順番も、色も、完璧だった。


引っかかりは、溶ける。


甘さが、上書きする。


空を見上げると、雲はさらに低い。


触れそうな距離。

守られている、と感じる高さ。


だが、その下で、建物の輪郭が、わずかに歪む。


直線が、ほんの少し、曲がっている。


見間違いだ。


アトラは、そう結論づける。


見間違いは、よくある。


疲れているだけかもしれない。

慣れていないだけかもしれない。


理由は、探せばいくらでも出てくる。


探す必要は、ない。


街は、今日も機能している。

人々は、問題なく生活している。


それで、十分だ。


白いものが、また一つ、空から落ちる。


羽のようにも見えたが、やはり、すぐに消える。


黄金色の光が、一瞬だけ、視界の端を焼く。


太陽だろう。

そういうことにしておく。


アトラの心拍が、一拍、遅れる。


次の瞬間には、流れに戻る。


違和感は、確かにあった。


だが、それは――

問題になるほどではない。


少なくとも、

今は。


アトラは、歩き続ける。


都市は、甘い。

甘さは、さらに最適化されている。


崩壊は進んでいる。

けれど、それに気づく理由が、

どこにも用意されていない。


だから、気のせいだ。


そう思うことが、いちばん楽だった。


【第四章 終わらぬ苦痛に舞うは】


都市の空気は、少しだけ変わっていた。

昨日との差は、測れない。

測ろうとした瞬間に、意味が抜け落ちる。


人々は同じ速さで歩いている。

揃ってはいない。

ただ、遅れも、先行も起きない。


足取りは安定している。

躓く者はいない。

転ぶ必要が、ない。


アトラは歩きながら、

自分の呼吸を数えようとする。

二つ目でやめる。

数える理由が、浮かばない。


胸の内側に、

昨日にはなかった感触がある。

軽い。

だが、空ではない。


満たされている、

という表現が最も近い。

何で満たされているのかは、分からない。


建物の配置が、少しだけ違う。

そう思った気がする。

だが、確認はしない。


確認は、

「ずれ」を前提にする行為だから。


通りの端で、

人が立ち止まっている。


立ち止まっている、

というより、進行が更新されていない。


声をかける者はいない。

避ける必要もない。


人の流れは、

その存在を計算に入れず、

滑らかに続いていく。


記憶に引っかかる顔ではない。

知っているはずもない。


だから、問題は起きない。


遠くで、

何かが欠ける音がした気がする。


音ではなかったかもしれない。

それを判断する基準が、

もう手元にない。


都市は、整っている。

整いすぎている。


隙間がない。

余白がない。

間違いが入り込む場所が、存在しない。


それは、安心と呼ばれる。

少なくとも、

そう呼ぶことになっている。


アトラは、

昨日よりも甘い感覚を覚える。


強くはない。

拒否反応も起きない。


ただ、戻ろうとする思考が、

途中で止まる。


「まあ、いいか」


その言葉が、自分のものだったかどうかは、

もう重要ではなかった。


甘さは、確かにあった。

昨日のものより、わずかに強い。

舌に残るほどではなく、気に留めるほどでもない。

ただ、以前より長く、体の奥に留まっている。


歩く速度は変わらない。

呼吸も、脈も、正常の範囲に収まっている。

少しだけ疲れやすくなった気がしたが、理由を探すほどではなかった。

皆も同じように歩いている。

それなら、問題はない。


胸の内側で、何かが擦れる感覚がある。

痛みと呼ぶには弱く、違和感と呼ぶには遅すぎる。

名前を与える前に、感覚は薄まり、

代わりに、慣れが広がる。


都市は今日も整っている。

流れは止まらず、選択は減り、間違いは起こらない。

少しだけ重くなった甘さも、

いつかは気にならなくなるだろう。


――なんだか、モヤっとする。

けれど、まあ、いい。


そう思えた時点で、

何かが終わっていることに、

誰も気づかなかった。


都市は、静かだった。

あまりにも静かで、音がないことに気づく余地すらなかった。


風は吹いている。

だが、方向を持たない。

強さも、弱さもなく、ただ一定の量だけが流れている。


それは風というより、

調整だった。


アトラの髪が揺れる。

同じ角度で、同じ幅で。

何度揺れても、乱れない。


歩く人々の衣服も同じだった。

翻らず、はためかず、

空気に触れているはずなのに、空気の存在を否定するように整っている。


――おかしい。


そう思った瞬間、

その言葉は、胸の内側で折り畳まれる。


おかしい、という判断には、

比較対象が必要だった。

だが、この都市には、

比較できる“外”がない。


あったはずの揺らぎは、

いつの間にか「無駄」として除去されている。


人々は動く。

規則正しく、滑らかに。


誰かが躓くことはない。

誰かが立ち止まることもない。


痛みは起こらない。

起こらないから、

癒やす必要もない。


アトラは気づく。

最近、顔をしかめた人を見ていない。

怒りも、焦りも、悲しみも、

感情としては存在しているはずなのに、

表に出る前に、どこかへ消えている。


処理が、早すぎる。


空を見上げる。

雲は低く、均一だ。

重なり合っているのに、影を作らない。


光は遮られているはずなのに、

暗くならない。


矛盾は、成立しない。

成立しないものは、

「なかったこと」になる。


白いものが、また一つ、落ちてくる。


羽のようで、

だが羽ではない。


触れる前に、溶ける。

溶けたあとに、痕跡は残らない。


誰かが見ていたかもしれない。

だが、見たという事実が共有されない以上、

それは発生していないのと同じだ。


都市は、

記録されない現象を許さない。


アトラの足元で、影が揺れる。

人の形をしている。

だが、人よりも正確だ。


影は、遅れない。

影は、迷わない。

影は、常に正しい位置にある。


影のほうが、

人間よりもこの都市に適応している。


その事実が、

説明なしに理解できてしまうことが、

いちばん恐ろしかった。


胸の奥で、

小さな痛みが生まれる。


だが、それは長く続かない。

痛みは、効率が悪い。


すぐに、

温度に溶かされる。

音に溶かされる。

流れに溶かされる。


苦痛は、存在している。

だが、叫ぶほどではない。

叫ぶほどでないなら、

耐えられると判断される。


耐えられるものは、

問題ではない。


都市は、

人に「耐えさせる」のではなく、

耐えていることに気づかせない。


アトラは歩く。

歩いているという感覚も、薄れていく。


足が前に出る。

意思よりも早く。


止まろうとすれば、

止まれる。

だが、止まる理由が、

見つからない。


それは自由だった。

自由すぎて、

選択が溶け落ちている。


都市は、今日も機能している。

誰も苦しんでいない。

誰も助けを求めていない。


だから――

何も間違っていない。


その結論が、

あまりにも自然に成立してしまう。


空のどこかで、

見えない何かが、

ゆっくりと循環している。


炎のようでもあり、

光のようでもあり、

どちらとも断定できない。


だが確かに、

それは都市全体に行き渡っている。


燃やさず、

照らさず、

ただ、均す。


強いものも、

弱いものも、

同じ高さに。


痛みも、

喜びも、

同じ重さに。


世界は、

踊っている。


だが、

誰も舞ってはいない。


アトラの胸に、

最後の引っかかりが残る。


――これが、終わりなのか。


問いは、

形になる前に、削除される。


都市は、完成している。

完成しているからこそ、

これ以上、変わらない。


変わらないということは、

もう――

始まっている。


【第五章 世界破滅組曲第一章・虚】


世界は、いつも通りだった。


朝は来て、

光は差し、

人々は起きる。


起きる、という表現が正しいのかは分からない。

だが、身体は動き、

都市はそれを「起床」として処理する。


アトラも歩いていた。

昨日と同じ道。

同じ幅の歩道。

同じ速度。


違いは、もう数えられないほど小さかった。


空は低い。

雲は動かない。

太陽は、ある。


ある、ということになっている。


光は均一で、影は薄く、

朝と昼と夜の境目は、

滑らかに溶けている。


人々は生活している。

買い物をし、

話し、

画面を見る。


感情はある。

ただ、強度がない。


喜びは揺れず、

悲しみは長引かず、

怒りは発生する前に処理される。


どれも、適切だった。


誰も苦しんでいない。

だから、救いは不要だった。


アトラは立ち止まる。

――いや、立ち止まった「ように見える」だけだ。


流れは乱れない。

都市は、停止を許容する。


止まることすら、

最適化の一部だから。


胸の奥に、

かつて「問い」だったものの残骸が沈んでいる。


形はない。

言葉にもならない。


ただ、

何かを失った感触だけが、

かすかに残っている。


だが、それは不快ではない。


不快でない以上、

問題ではない。


建物の壁に、ひびが走る。

だが、崩れない。


崩れないように、

調整されている。


亀裂は装飾のように配置され、

「劣化」という概念は、

視覚から切り離されている。


壊れている、とは誰も言わない。

壊れていない、という必要すらない。


世界は、正常だ。


人が倒れる。

音はしない。


数秒後、

そこには何もない。


痕跡は消え、

記憶は残らず、

空間は平坦に戻る。


誰も悲しまない。

悲しむ理由が、存在しない。


失われた、という認識が、

最初から発生していない。


完全な均質化。

差異の消失。

例外の削除。


世界は、ついに「揺れない」。


アトラは歩く。

歩きながら、

歩いているという自覚を失う。


足は前に出る。

だが、どこへ向かっているのかは分からない。


分からないことが、

問題にならない。


遠くで、白いものが落ちる。

羽のようにも見える。


だが、

地面に触れる前に溶ける。


存在していたかどうかすら、

確認されない。


黄金色の光が、

一瞬だけ強まる。


太陽が、

世界を確認しているように見える。


だが、それも

「そう見えただけ」だ。


確認は不要。

監視は不要。

裁きも不要。


世界は、すでに完成している。


完成した瞬間から、

崩壊は始まっている。


だがこの崩壊は、

破壊ではない。


削除だ。


余分な思考。

不要な感情。

責任という負荷。


すべてが、

静かに、

丁寧に、

取り除かれていく。


人々は軽い。

軽すぎる。


何も背負っていない。

何も選んでいない。

何も後悔していない。


だから、立っていられる。


倒れる必要がない。

泣く必要がない。

叫ぶ必要もない。


アトラは、ふと、

胸の奥に沈んでいた何かに触れかける。


――忘れてはいけなかった、

何か。


だが、その瞬間、

甘さが満ちる。


理由のない肯定。

説明のない安心。

責任のない正しさ。


「まあ、いい」


その感覚が、

すべてを上書きする。


甘すぎて、

苦い。


だが、苦味はすぐに消える。

残らないように設計されている。


世界は、

終わらない。


終わらないから、

救われない。


救われないから、

誰も失望しない。


誰も取り戻さない。

誰も振り返らない。

誰も疑わない。


ズルズルと、

だが穏やかに、

深淵へ沈んでいく。


沈んでいることに、

気づかないまま。


都市は、今日も機能している。

人々は、問題なく生活している。


それで、十分だ。


世界破滅組曲は、

音を立てない。


拍手も、

悲鳴も、

終止符もない。


ただ、

何も起きないまま、

すべてが終わっている。


そして――

誰も、それを

「終わり」とは呼ばなかった。


終わっていることに気づく理由は、最後まで用意されなかった――それは、あまりにも「楽」だった。

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