プロローグ
──風が鳴いていた。
東京の片隅。瓦屋根の古びた屋敷が、都市の喧騒から取り残されたように、静かに夜を見下ろしていた。
その屋敷の一角。畳の上に正座する少年の目の前には、一枚の和紙があった。
「心を静め、紙と向き合え。折るのではない。紙に神を宿すのだ」
厳しい声が、隣の部屋から響いた。声の主は、折神流の師範──蓮の祖父、神代 忍だった。
少年──神代 蓮は、和紙にそっと指を触れた。目を閉じる。
深く、深く息を吐いた。
紙に宿る神性を感じ取る。
自身の内にある折る意志と紙の“かたちになりたい願い”を、調和させていく。
──そのときだった。
障子の向こうから、突如として血の匂いが漂った。
蓮が振り返る間もなく、屋敷の外から轟音が響いた。
「――蓮ッ、逃げろ!!」
父の絶叫。
それを最後に、蓮の世界は紅に染まった。
黒い着物を纏った数人の男たちが、次々と屋敷に侵入してくる。
その先頭にいたのは、仮面をつけた男。長身で、冷えた目をしていた。
その手には、まるで生きているかのような紙の蛇が巻きついていた。
「ここが“折神流”の本家か。思ったより、貧相だな」
「お前ら……黒折……っ!!」
神代忍が、背を丸めながら立ち上がった。
「流派を……越えてはならぬという掟を、お前たちは忘れたか!」
仮面の男が薄く笑う。
「掟など、弱者の鎖だ。紙師の世界に必要なのは、力のみ」
「貴様……」
次の瞬間、空気が裂けた。
仮面の男が紙を投げる。紙は中空で折り重なり、刃の形となって忍に襲いかかった。
「――ッ!!」
蓮の目に、祖父が倒れる姿が焼きついた。
続いて、両親が紙の怪物に囲まれ、なすすべもなく倒れていく。
紙が命を奪う。
紙が家を壊す。
紙が、家族の笑顔を喰らう。
少年の中で、何かが音を立てて壊れた。
その夜、神代蓮はすべてを失った。
家も、家族も、未来も。
残ったのは──
復讐。
そして、紙師としての宿命。
蓮は焼け跡の中で、炭化した紙の切れ端を握りしめて立ち上がった。
涙も声も出なかった。けれど、目だけは濁らず、深い闇を映していた。
「必ず、奴らを……黒折を、潰す」
その誓いこそが、
後に“神紙の刻”と呼ばれる物語の始まりであった。




