第4話 師匠と呼ばないことと最低限の護身術と
結局、俺は根負けした。
あの土下座と切実な瞳に「分かった」と頷いてしまったのだ。
その結果、俺の隣には今、ぴょこぴょことお団子頭を揺らしながらついてくる少女、モモがいる。非常に面倒なことになった。
「師匠。次はどこへ向かうんですか」
「だから、師匠と呼ぶな。サトウさんでいい」
俺は何度目か分からない訂正をした。
彼女と行動を共にするにあたり、俺は三つの条件を出した。
一つ、俺を師匠と呼ばないこと。
二つ、俺の【スキル】をあてにして戦い方を真似しないこと。
三つ、自分の身は自分で守ること。
モモは全ての条件を「はい」という元気な返事で受け入れた。だから俺は渋々、彼女をダンジョンに同行させているというわけだ。
「よし。じゃあまず護身術の訓練からだ」
「ご、護身術ですか。私、戦闘スキルは持ってませんけど……」
「戦うんじゃない。生き残るための術だ」
俺が教えるのは剣の振り方でも魔法の撃ち方でもない。
元営業マンとして二十年間で培った、リスク管理と状況分析のノウハウだった。
「いいかモモ。まず罠の見つけ方だ。この通路を見て何か気づくことはあるか」
「えっと……普通の通路、ですけど」
「違う。よく見ろ。壁の色が一部微妙に違う。湿り気のせいだ。そして床の石畳。あそこだけ継ぎ目が不自然に新しい。これは最近誰かが罠を設置したか、あるいは元々あった罠が作動した痕跡だ。こういう場所には近づかない。これが基本だ」
「へぇ……」
モモは感心したように俺が指差した場所を食い入るように見つめている。
営業マン時代、競合他社の見えない動きを読むために俺は常に情報の断片から全体像を推測する訓練を繰り返してきた。
相手の顔色、言葉の端々、オフィスの雰囲気。
些細な違和感から危険を察知する能力は、ダンジョン探索においてもそのまま応用が利いた。
「次にモンスターの気配だ。音を聞け。ただの足音じゃない。ホブゴブリンの巡回兵なら金属鎧が擦れる音と規則的な足音が混じる。オークならもっと重くて引きずるような音だ。匂いも重要だ。腐臭がすればアンデッド、獣臭がすれば大型モンスター。常に五感を研ぎ澄ませて危険そのものを避ける。これが一番の護身術だ」
「な、なるほど……」
モモは小さなメモ帳を取り出し、俺の言葉を必死に書き留めている。
その真剣な様子は新入社員だった頃の自分を見ているようで、少しばかり気恥ずかしくなった。
「サトウさんって、本当にすごいですね。なんでそんなことまで知ってるんですか」
「……社会人やってりゃ、これくらい普通だ」
俺は照れ隠しにそう言ってそっぽを向いた。
別にすごいことじゃない。
理不尽な上司の機嫌を読み、無理難題を押し付けてくるクライアントの真意を探り、迫りくる納期と予算という名のモンスターから自分の身を守る。
俺がやってきたのはただそれだけだ。
◇ ◇ ◇
その日の探索を終えモモと別れた後。
俺は一人、缶コーヒーを飲みながら今日の出来事を反芻していた。
素直に教えを吸収していくモモの姿。その一生懸命な横顔を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ少しだけ充実感のようなものさえ感じている自分に気づく。
人に何かを教える。新人の面倒を見る。そんなことは課長の仕事だった頃以来だ。
「……まあ、たまにはこういうのも悪くないか」
俺は小さく呟き、コーヒーを飲み干した。
リストラされて以来、初めて感じた誰かの役に立つという感覚。
それは金銭的な満足感とはまた違う、温かい何かを俺の心に残していった。
もちろん面倒であることに変わりはないのだが。