88話 兄貴だからな
弟の顔を君は覚えているかい?
前にこいつからそう聞かれたとき俺は――思い出す事が出来なかった。
朧気な記憶はある、顔だって何度も合わしていた筈だ、それなのに俺はたった一人しかいなかった兄弟の顔を思い出すことが出来なかった。
「あの夜、確か塾の帰りだったかな? 兄さんが柄の悪い人達と人気のない所に向かうのを見かけて僕はなんとなく後を付けたんだ」
ずっと、弟は幸せなんだと思ってた。
俺とは違って親の期待に応えられるだけの才能があって両親にも愛されて順風満帆の人生、悩みなんて微塵もなくて出来の悪い兄貴の事なんて見下して歯牙にも掛けてないとそう思ってた。
「そのうち喧嘩が始まって陰から様子を見ていたら僕の足元に誰のか分からないナイフが滑り込んできた。それを見たときふと思ったんだ兄さんがいなくなればこの惨めな気持ちもなくなるんじゃないかって」
だから俺は弟の事を見ないようにした。
目を閉じて耳を塞いで、それが一番面倒じゃなかったしその方が弟の為だろうとそう思ってた。
でも蓋を開けてみればなんだよ、やっぱり馬鹿だな俺は。
「あの時の感触を忘れたことはないよ。拾ったナイフを握りしめて僕は兄さんを後ろから――!」
「悪かった、ごめん」
俺が頭を下げると弟は、へっ? って間の抜けた声が聞こえた。
「は? なに言ってるんだよ、人の話聞いてないの?」
「聞いてるよ……逃げてたんだ俺は、家族から。両親の期待に応えられない出来損ないの自分が嫌で、やけになってもうなにがどうなっても良いって」
俺は膝を抱えて座る弟の前に屈んで目線を合わせる、姫さんがよくそうやっていたように。
そうしたところで膝を抱えてうつむく弟の顔を見ることは出来なかったが、今はそれでも構わない。
「でもそれは間違いだった。もっと話をするべきだったんだ、両親とも……お前とも」
話した所で何かが変わることはなかったかもしれない、結局は分かり合えなかったかもしれないし、もしかすればもっと悪い方向へ行った可能性だってあったかもしれない。
でもたとえそうだったとしてもやるべきだった、それが出来なかったのはひとえに軟派だった俺が招いた結果だ。
「どの面下げて言ってんだってのは分かってる、でもここで目ぇ逸らしたら前と何も変わらねぇ、いつまでも軟派な俺のままだ。そんなの誰より俺自身が許せねぇ、だから頼む!」
もう一度俺は頭を下げた、深く深く少しでも誠意が伝わるように。
「すまなかった、軟派な兄貴をどうか許してくれ」
弟はなにも言わなかった、それでも俺は頭を下げたまま待った。
たとえ何を言われることになろうとも、次の言葉が来るまでいくらでも待つつもりだった。
「……どうしてあんたが謝るだよ、そんなことされたら――」
ぐすりと鼻をすする音が聞こえた。
「――そんなこと言われたら、僕まで謝らなきゃいけなくなるじゃないか」
嗚咽はどんどんと大きくなって、その内それは隠しようもない涙声になって辺りに響いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……生まれ変わって僕はたくさんの人を殺した。兄の様に慕ってくれた女の子まで利用して手に掛けた……僕は許されない事をしたんだ、そんな僕にもう生きる資格なんてないよ」
「……軟派な事抜かしてんじゃねぇ」
弱々しい懺悔の言葉に一喝いれる。ビクりと弟の肩が跳ねるがそんな事は構ってやらない。
「許されないから戻る資格がない? 甘えんな、許されようが許されまいが、お前はお前が迷惑を掛けた連中全員に頭下げなきゃなんねぇんだよ」
俺は結局元の世界で父さんにも母さんにも、あの時の事を謝ることが出来なかった。
いくら悔いても、それはもう今更どうすることも出来ないけれど目の前のこいつはそうじゃない、命を持って償うなんてそんな軟派な理由で逃げるのなんざ許さない、弟にまで俺と同じ間違いはさせられない。
「一人で謝るのが怖いってのなら俺が一緒に頭を下げてやる、一人じゃ歩けないって言うのなら俺が後ろから蹴っ飛ばしてやる、許されない事が怖いってのなら――俺が許してやる。他の誰もお前を許さなくても俺だけはお前を許してやる、側にいてやる」
俺は過去の自分を姫さんに許してもらった。
それで俺の過ちが消えた訳じゃないし何かが変わるわけでもない、端から見りゃ何の意味も無いのかもしれない。
ただそれでも俺は確かにあの時救われたんだ、あなたを許します、その一言にどれだけ心が軽くなったか。
だから今度は自分が救う側になろう、なんて、それはさすがに調子に乗りすぎか。
「ああそうそう、この際はっきり言っとくがな、お前が俺をぶっ殺した事なんかこちとら端から恨んでなんかいねぇよ」
実際今の今まで俺の事を刺した奴の事なんて気にも掛けていなかった、まさか犯人が実の弟だとは思ってもみなかったんだで多少驚きはしたがそれだけだ今更怒ることなんてない。
「最初からお前が俺に謝る道理なんてねぇ、だから気にすんな」
「どうして……どうしてこんな僕にそんなことが言えるのさ、どうして」
「どうしてって、そりゃお前……」
困った、理由なんて思いつかない。
責任だとか贖罪だとか。それっぽいことならいくらでも浮かぶがどれもこれもどうにも取ってつけ様でしっくりこない。
そうだな、強いて理由を挙げるとするのなら――。
「俺はお前の兄貴だからな、そんだけよ」
「そっか……そうなんだね」
「そう言うこった、そら帰るぞ」
立ち上がり弟に手を差し伸べると恐る恐ると弟の手が伸びる、この後に及んで躊躇するのがじれったくなってこっちから捕まえたその時伏せられていた弟の顔が上がった。
ずいぶん久しぶりに見るような気がする弟の顔を、俺はその目に焼き付ける。
もう忘れない。
もう目を逸らして逃げるなんて軟派な真似は絶対にしない。
「……ありがとう――兄さん」
そう言って弟は控えめだか俺の手を確かにつかみ返してくれた。




