81話 約束
少年は時折パン屋に姿を見せ、いつも姫さんとたわいのない話しをしていくつかのパンを買っていく。
その度に姫さんは彼の名前を尋ねたが、はぐらかされてばかりでまともに応えてもらえる事は無かった。
きっと何かよっぽど話せない事情があるのだろうと思い姫さんはその内、少年の素性を聞くのをやめた、無理に聞き出そうとして彼がパン屋に来なくなってしまうことが怖かったからだ。
それから二年が経ち姫さんが十歳になったある日のこと、いつものように少年がパン屋に姿を見せる、その頃にはもうそれだけで姫さんの心は踊るようになっていた。
今日のおすすめは何かだとか、最近変わったことはなかったかとか、いつも通りたわいない話をしながら少年がパンを選んでいくそんな時間がたまらなく幸せだった。
少年がパンを選び終わり名残惜しさを感じながらも姫さんがもうすっかりなれてた手つきで紙袋にパンを詰め、会計を済ませたその時だった。
おつりを渡そうと差し出した姫さんの手を見て、少年が何かに気がついた様な声をあげる。
「君、右手のそれは?」
「え? ああこれですか? 生まれつきです。変ですよね、なんだか模様みたいで」
少年は姫さんの右手の平にあったそれを何やら難しい顔で見つめた。
一体どうしたのだろう? と不思議に思うがそれを聞く前に、少年は近いうちにまた来るとだけ言い残して店を出て行ってしまった。
取り残されて困惑する姫さんだったが、その答えは翌日すぐに分かった。
その日また少年が店を訪れた、ただし数人の従者を連れて本人も何やら豪奢な身なりをして、まるで物語に登場する王子様の様みたいだった。
「今まで黙っていてごめん。僕はクルーゲル領主の嫡男、ロイド・クルーゲル今日は貴女に大事な話があって来ました」
突然すぎるその展開に訳が分からなくて姫さんは混乱しきりだったが、少年もといロイドはそんな彼女をなだめるように一つずつ説明していく。
守護神である守護竜とそれに仕える巫女であり国の主である女王、その代替わりの時が近づくとその身に聖痕を刻んだ次代をになう子供が国のどこかに産まれる。
その次代の巫女こそが姫さんであり、その右手に刻まれたものこそがその証である聖痕なのだと、そして貴女を次代の女王として王家へと迎え入れたいのだとロイドは言った。
あんまりの事にとてもすぐには信じられない姫さんだったが、ロイドが嘘をついているとも思えず結局はその話を信じるしかない。
姫さんを迎えるにあたってまだ少し手続きがあるとのことで、その日は挨拶だけですませて明日また迎えに来ると言ってロイドは去って行った。
スラムで野垂れ死に寸前だった自分が国の女王様だなんて、本当にまるで夢のような話だった、現実味がなさ過ぎて実感が湧かない。
ただジム達は驚きながらまるで自分の事の様に喜んでくれた、そんな様子に姫さんは嬉しくなりこれはすごく光栄なことなんだと思えた。
パン屋の仕事が終わったあと姫さんは家へと帰り今日あったことを父親に報告した。
聖痕を持つ巫女を生んだ家族には相当な額の報奨金が出る、女王になれば今よりずっといい生活もさせてあげられる。
だからきっとお父さんだって喜んでくれる、姫さんはそう思っていた。
そう思っていたのに、姫さんが今日あったことを伝えた瞬間父親はぼんやりとした目で姫さんを見て。
「お前も……お前も俺を見捨てるのか……」
焦点の合っていないまるでがらんどうの様な目から滔々と涙を流しながら、父親は突然姫さんに覆い被さった。
ちくしょう、馬鹿にしやがって、思い知らせてやる、酒の匂いを漂わせながら、父親はそんなことをうわごとの様に繰り返し抵抗する姫さんの服を剥いで――。
そこまで聞いたところで俺はそっから先は話さないでくれと姫さんに頼んだ。
姫さんにつらい事を思い出してほしくなかったし、何より俺がそいつの事を殺してやりたくなりそうだったからだ。
しかし姫さんは実の所、その時の事をほとんど覚えてはいなかった。
気づいたとき姫さんの目の前にあったのは割れた酒瓶の欠片を握りしめ真っ赤に染まった自分の手と血塗れで倒れる父の姿だった。
掻き切られた首元を苦しげに抑え、傷口から空気が漏れているのかあふれる血はぶくぶくと泡立ち、ぴーぴーと隙間風の様な甲高い音が不気味な位に規則正しく辺りに響く。
その時。
父親の目が姫さんを見た。
茫然自失となっていた姫さんはその時初めて、どうしようもないほどの恐怖を感じて訳も分からないまま逃げ出した。
✣
「翌日逃げだして途方に暮れていた私をあの人が見つけ、そのままクルーゲル家へと迎えられました。お父さんが死んだと聞いたのはそれから少し経ってからの事です……あの時私が逃げ出したりせず誰かに助けを求めていれば助かったかもしれません」
「……ロイド王にはさっきの事は話したのか?」
「はい、全てを。それでもあの人は私を家へと迎えてくれました。罪を許し、その上で一緒に行こうと……私はそんなあの人の優しさに縋ってしまった」
声に涙の色を滲ませながら涙ながらに姫さんは懺悔の言葉を口にする。
「身も心も汚れた私に守護竜の巫女となる資格なんて無いのは分かっていたのに、私はあの人の優しさを言い訳にして今もこうしてのうのうと生きている」
ごめんなさいとまるで叱られた子供みたいな弱々しい言葉が姫さんの口から零れる。
「本当はもっと早く話さなければいかなかった、でもあなたに軽蔑される事が怖くてずっと言わなかった、私はそんなズルくて卑しい女です、だから――」
「それがどうしたよ」
「へっ? どうしたって……えっ?……」
姫さんはまさかそんなことを言われるとは思ってもなかったのかまるで豆鉄砲食らった鳩みたいな顔をした。
「姫さんが自分の親父をヤッちまったんだとして、それがどうしたってんだよ、ええ?」
「どうしたも何も、私は咎人なのです! 守護竜様が命を掛けて守られるべき価値なんて」
「ナメんな!」
俺の一喝に姫さんが息を呑む、その隙に俺は言葉を畳み掛ける。
「その程度の事でテメェが言ったこと出したり引っ込めたりするような軟派なことする分けねえだろう! 俺を侮るのも大概にしろ」
本当なら姫さんは悪く無いと励ましてやるべきなのかもしれない、白状すれば思わずそんな言葉が口から出てきそうにもなった。
でも既の所でそれは飲み込んだ、いざ言葉にしてしまえば酷く薄っぺらいいもののしか出てこない様な気がしたからだ。
姫さんの頬を流れる涙を尻尾でそっと拭いながら、俺は気がつかれないよう一瞬だけ彼女の左薬指にはめられた指輪を見た。
どうして姫さんの為なら命を掛けられるのか?
そんなもんは決まってる、でも胸の内にあるこれを口に出すことは絶対にしない。
だってその場所にはもう既に先客がいる、そこに横から割り込む様なそんな野暮なマネはしねぇ。
「……俺はあんたを守りたい。そう思ったから命を掛ける、それ以上の理由も理屈もねえよ。なぁだから頼むよ、戦わせてくれそれがきっと俺がこの世界に来た意味だと思うから」
その答えに姫さんが納得してくれたかは分からない、でもたとえどうだったとしても俺はそれ以上の事を言うつもりはなかった。
それからしばらく姫さんは何も言わなかった。
時折涙をしゃくり上げながらうつむき気味にその場で立ち尽くし、俺はそれをただ黙って見守っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか、ようやく姫さんの口がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「一つだけ、約束してください」
「約束?」
「……命なんて掛けなくていい、絶対に死なないで、生きて帰ってきて。それを約束して頂けないのなら戦いに送り出す事は出来ません、絶対に」
力強い言葉だった。
その約束はそうやすやすと守れるもんじゃない、
ともすれば命を張るよりもずっと強い覚悟が必要かもしれない。
そんなことはきっと姫さんだって分かってるいる、分かった上でそれでも生きて帰ってくる覚悟を決めろとそういうことだ。
ああ分かったよ、望むところだ。
「ぜってぇ死なねぇし、ぜって負けねぇ、約束する、それでいいか」
俺の答えに、姫さんは返事をしなかった。
ただその代わり一度大きくうなずいてくれた。
そして戦いの日がやって来た。




