80話 違う世界の人
姫さんが物心ついた頃から、その日常には父親の暴力があった。
元は家具か何かの職人だったらしいが、事故で利き手の自由がきかなくなって以来、父親は酒浸りになって姫さんの母親への暴力を繰り返していたらしい。
母親が稼いだなけなしの金もほとんど全て酒代に消え、酒が切れれば暴力を振るう。
そんな生活に耐えかねたんだろう、ある日母親は家を出て姿を消した、八歳になったばかりの姫さんを一人置いて。
子供を育てながら八年間あの生活に耐えてくれたのだからむしろ立派な人ですと当の姫さんは言う、でもその後の事を思えば俺はその言葉に同意する気にはなれなかった。
母親がいなくなった後、父親の暴力は当然子姫さんへと向いた。
酒さえ与えれば大人しくなるが、金はとっくに底を突き今までどうにかしてくれていた母親ももういない。
子供だった姫さんには、どうすることも出来なかった。
やがて酒代を用意できるまで家に帰ってくるなと家を放り出され、姫さんはボロボロの体でスラムを彷徨った。
そんなやつは当時のスラムでは珍しくもなかったようで、路傍で子供が野垂れ死んでいる事だってもはや日常の風景だったという。
このままいけば姫さんもそんな子供達の仲間入りするというその時だった。
「君、大丈夫?」
一人の少年が姫さんに声を掛けた。
その姿を一目見て、まるで違う世界の人みたいだと当時の姫さんは思った。
「ボロボロじゃないか、痛いところは? 何かしてほしいことはない?」
「……おなかが空いた」
体の痛みはあった、ただそれ以上に姫さんの体が望んだのは飢えをしのぐことだった。
なんせ母親が出て言ってから二日間なにも口に入れていない、限界だった。
その言葉を聞いた少年は姫さんの手を引いて歩き出す。
まともに歩くこともままならなかった姫さんを気遣う様にゆっくりと進んだ先でたどり着いたのは、ジムのおっちゃんとパタタさん達が経営するあのパン屋だった。
「おいおいどうしたんだいその子は!」
当時は今より少しだけ痩せていたというジムのおっちゃんが姫さんの姿を見て驚き、少年はポッケから無造作に取り出した。
「これでこの子にパンを食べさせてあげて」
そう頼のまれジムのおっちゃんはその金貨で買えるだけのパンを用意して、親切に傷の手当てまでしてくれたという。
「はい、食べられそうかい?」
少年からパンを差し出される。どうしてこんなことをしてくれるのかそそもそも彼が一体誰なのか疑問はいくらでもあった。
でもそんなものは全部押しのけて、目の前に差し出されたパンを見た瞬間目が離せなくなって、焼けた小麦の匂いを嗅いだ途端よだれがあふれた。
気づけば一にも二にも無く姫さんはパンを手に取り口に運んだ。
それは何の変哲も無いバゲットだったそうだがこの先どれだけ時が経って、どれだけ美味しいもの食べようと、あの時の一口を忘れることはないと姫さんは言う。
そばで見ていた少年が心配するくらいの勢いでバゲットを食べきり、また別のパンを手に取り口へと運ぶ。
「よかったよ、喜んでくれたみたいで。でも一体何があったんだい?」
食べるのに夢中で恥も外聞も無くなっていた姫さんは、聞かれるがまま全てを話したらしい。
話を聞いた少年は痛ましそうに顔を歪め、ジムのおっちゃんも苦虫を噛み潰した様に吐き捨てる。
「酷い話だねぇ、まったくよ」
「……君はこれからどうするんだい?」
少年にそう聞かれて姫さんは初めてそのことを考えた、今まではその余裕すらなかったから。
一日中酒ばかり呑んで暴力を振るう父、母親もいない、どうすれば良いか分からなかった、考えれば考えるほど未来なんて無い様に思えた。
「……ウチで働く?」
いつから聞いていたのか、いつの間にやら厨房から出てきていたパタタさんが唐突にそう言った。
「……お店を手伝ってくれるならお金をあげる……売れ残りのパンも……持って行っていい……」
「おいおい、まてまてまて! お前さすがにそれは……」
さしものおっちゃんも、パタタさんのその提案には眉をひそめた。
それはそうだろう、どこの誰ともしれないスラムの子供を自分たちの店で働かせるなんて正気の沙汰じゃない。
しかしそんなおっちゃんの心配を他所にしてパタタさんは姫さんに問いかける。
「……どうする」
その問いかけに姫さんはどう答えれば良いか分からなかったという、あまりにも突然で都合がよすぎて何かの間違いか夢なんじゃないかと本気で疑いもしたらしい。
ただそれでも、今を逃したら自分に未来はないと、子供心にも姫さんは分かっていた。
「お願いします、働かせてください」
頭を下げて姫さんは懇願した、ただそれでもおっちゃんは困り顔を浮かべるばかりで首を縦に振ることはしなかった。
「いや、可哀想だとは思うがねぇ」
ますます困り顔を深くするおっちゃんの袖をパタタさんがちょいちょいと袖口を引き振り返った瞳を見つめて一言。
「……お願い」
その言葉に、おっちゃんは大きく肩を落として…「…ずるいぞ」と恨めしそうに息を吐いた。
「君にそう言われたら断れないって知ってるくせによ……悪いけどちゃんと働けない様ならやめてもらうよ、それでもいいかな?」
こうして、姫さんはおっちゃん達の店で働く事になった。
年端もいかない子供とはいえ懸命に働き器量よしな姫さんはすぐ評判になり、最初こそ懐疑的だったジムのおっちゃんも気づけばすっかり受け入れて仕事終わりには食卓で一緒に食事をするまでになっていた。
ただその一方で実の父親の面倒を姫さんは見続けていて、店で稼いだお金のほとんどは父親の酒代に消えていたらしい。
そんなろくでなしもう放っておけば良いと俺は思うが腐っても血のつながった家族、優しい姫さんにはそれを見捨てることは出来なかった。
お店でもらった売れ残りのパンやジムとパタタの二人が用意してくれる食事のおかげで飢えることはない。
父親は相変わらず糞野郎のままだったがそれでも当時の姫さんからすればそれは夢の様な日々だった。
そんな幸せな毎日のきっかけとなってくれたあの少年。
スラムで野垂れ死に寸前だった姫さんに声を掛けてくれた彼の名前を聞きそびれていたことに姫さんが気付いたのは、初めて会ったその日から少したってからの事だった。




