第91話 記録なき少女
アリシアの放った霊圧が、空間を歪ませる。
霊脈の流れが逆転し、施設全体の結界が軋む中、優は彼女の目を見つめていた。
その瞳には、はっきりとした“自我”が宿っていた。
だが、それは不安定で、どこか痛みに満ちている。
「お前……本当に、覚えてないのか?」
問いかけは届かない。
アリシアの霊結晶が一瞬、光のように弾け――そのとき、優の視界に“何か”が映った。
──手を伸ばす、幼い自分。
──白い部屋。眠る少女。その手に触れようとしていた――
(今の……何だ?)
記憶ではない。それでも、“確かにあった何か”が優の中に揺れた。
「優……?」
美月が声をかけるが、彼は応じなかった。
一方、教団幹部エルヴェス=グラフィアは、状況を冷静に分析していた。
「同調率の暴走。想定より早い……これは、神核の完全覚醒には不適切な干渉環境だ」
部下たちに手信号を送る。
「一時撤退。記録の収集は完了。
“次の接触”までに再調整を行う」
黒衣の信者たちが一斉に霊符を展開し、空間転位術式を発動する。
「逃すかよッ!」
隼人が死霊を引き連れて斬りかかるが、空間転位の完了が一瞬早かった。
残されたのは、崩れかけた結界と、中心に佇むアリシアだけ。
彼女はその場に崩れ落ちるように座り込み、ぽつりとつぶやいた。
「……私は……誰?」
その声に、優の胸が軋んだ。
美月が静かに近づいて、彼女の手をそっと取る。
「今はわからなくてもいい。でも、ここにいる私たちがいる。
だから……一緒に探そう」
アリシアは、小さく頷いた。
その姿に、優は確信した。
──この感覚は、偶然じゃない。
──彼女は、何かを知っている。
──そして、俺自身も……“何かを忘れている”。
封印は破られた。神核は目覚めの扉の前にいる。
だがそれは、世界に何をもたらすのか――まだ、誰も知らない。




