第3話 彼女がいない理由を、僕は知らない
部屋に帰ってきた。
でも、そこに紗羅はいなかった。
ただ、それだけのことなのに。
それだけのことが、どうしようもなく、胸にのしかかってくる。
ソファには、畳まれかけたブランケットが置いてある。
読みかけの本が開かれたまま、机の上にある。
匂いも、温度も、声も残っているのに――彼女だけが、もう、いない。
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「……こちらが、ギルドからの正式な報告になります」
薄い書類を机に置いて、職員は低い声でそう言った。
言葉も、表情も、感情がこもっていない。
事故。火災。避難が間に合わなかった。
回収は不可能。生存の可能性は限りなくゼロ。
だから、死亡として処理する。
「そんな……嘘だろ……」
優は、椅子に座ったまま、息を呑んだ。
耳鳴りがして、視界がかすんでいく。
何を言われたのか、わからなかった。
わかりたくなかった。
「紗羅は……昨日、明日のパンを買いに行こうって言ってたんです。
図書館にも行くって、受け取り票も残ってる。
“明日”があったんです。彼女には……ちゃんと、明日が」
震えながら、そう言うのがやっとだった。
「……ご愁傷様です」
ただ、それだけの言葉を残して職員は去っていった。
優の手元には、薄い紙束と、急に色のなくなった現実だけが残った。
⸻
帰宅しても、頭が働かなかった。
靴を脱いだ記憶も、荷物を置いた記憶もない。
ただ、部屋にいた。
紗羅の部屋に入って、ぽつりと座った。
彼女の匂いがまだ部屋に残っている。
香水じゃない。使い慣れた紅茶と、石鹸の匂い。
それだけで、涙が溢れそうになった。
「なんで……なんでいないんだよ……」
声が漏れた。
止められなかった。
誰に聞かれるでもないのに、口からこぼれた言葉は、涙混じりだった。
喉が詰まる。息ができない。
張り裂けそうな胸の奥で、何かが崩れていく。
「帰ってこいよ……なんで、俺の前からいなくなるんだよ……っ」
拳を床に叩きつけた。痛みすら感じなかった。
紗羅がいなければ、自分は空っぽだ。
世界の色も、音も、意味も、全部失われてしまった気がした。
どれだけ願っても、どれだけ祈っても、
彼女はもう戻ってこない。
それを、頭では理解していた。
でも、心は――全力で否定していた。
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夜が明けても、優は布団から動けなかった。
身体が重い。
思考が止まっている。
食事も喉を通らない。
通知音が鳴っても、画面を見る気力もない。
ただ、天井を見つめて、名前を呼びそうになるたびに、
その声を飲み込んだ。
「紗羅……」
彼女が笑っていた顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
最後に交わした言葉が、ずっと耳に残っている。
「ちゃんと……帰ってきてね」
その言葉を、守れなかった。
守れなかったことが、たまらなく悔しかった。
そして同時に――
心のどこかで、ほんのわずかにでも「守れたかもしれない」と思っている自分がいた。
(俺が、もっと強ければ)
そう思った瞬間、自分の無力さが全身を刺すように襲ってきた。
「俺が無能だから、何もできなかったんだ……」
声にならない声が、喉を震わせた。
⸻
彼女はもういない。
たぶん、それは本当だ。
誰もがそう言う。きっと、そうなんだろう。
でも――
「いなくなるなんて、言ってなかったじゃないか……」
その事実だけが、どうしても受け入れられなかった。
涙は、もう出なかった。
泣き疲れて、心が空っぽになっていた。
それでも胸の奥では、
何かが、ゆっくりと、目を覚まそうとしていた。