第2話 君の聲が、僕を支えていた
「明日さ、帰りにパン屋さん寄ってもいい?」
そう言った紗羅の声は、いつもより少しだけ明るかった。
制服の袖をたくし上げて、洗った食器を水切りラックに並べていく後ろ姿。
「いいよ。たしか限定のハチミツクロワッサンだっけ?」
「そう! あれ、前に買いそびれてからずっと狙ってたんだよね」
「じゃあ帰り道、遠回りしていこうか。ついでに商店街も寄って、晩飯は揚げ物でも買って──」
「あ、それはダメ。お兄ちゃん、今月もう赤字なんだからね」
「くっ……監査が厳しい」
「当然です」
そんな他愛のない会話が、優にとっては日々を繋ぐ大切な時間だった。
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帰宅後、紗羅はいつものようにテーブルにノート端末を広げていた。
彼女は神託を持っていた。とはいえ戦闘向きではなく、識字と数理に関する“分析補助”系の聲を授かっている。
彼女の進む道は、戦場ではなく“支援職”──都市管理局やギルド資料班といった、比較的安全な職場だ。
「お兄ちゃんもさ……いつか、ハンターじゃなくても安定した仕事に就けたらいいのに」
「無能者に選択肢はないからな。今のうちに妹の稼ぎに期待しとくよ」
「もう……真面目な話してるのに」
ふてくされるように頬を膨らませるその仕草が、どうしようもなく愛おしいと感じてしまう。
彼女は、優にとって“唯一の家族”であり、光だった。
“神の聲”を持たぬ者として、生まれたときから何も与えられなかった優。
それでも、生きてこれた理由は、この小さな背中がそばにあったからだった。
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夜。
二人で夕食を囲み、テレビのニュースが流れていた。
「本日午後、南東区にて発生したマガツカミ出現に関し──」
その単語が画面に流れた瞬間、空気が一瞬、凍る。
街の一角が吹き飛ばされたような映像。遠巻きに見守る機動隊とギルド隊員。
詳細は不明、原因不明、被害調査中──。
「また……出たんだ」
紗羅の声が少し震えていた。
マガツカミ。神に背いた異端の存在。
その異質な力と意志は人間には理解できず、ただ“災厄”として語られる。
「心配すんな、俺は明日もモンスター討伐の補給任務。ゴブリン退治でマガツカミは出ない」
「……でも、前もいなかったはずの場所に突然現れたって」
「大丈夫。ちゃんと戻ってくる」
少しだけ、強く笑ってみせた。
不安を打ち消すための嘘でもなく、偽りでもなく。
ただ、信じてほしかった。
「……うん。信じてるよ」
紗羅が、静かに微笑んだ。
深夜。
優は一人、部屋の端で小さく呟いた。
「お前がいなかったら、たぶん俺、ここにいなかったよ」
誰にも聞かれないように。
たとえ紗羅にも、聞かせるつもりはなかった。
「神託がなくても、生きていいって──お前が隣で言ってくれるからさ。
俺、なんとか保ててるんだよ」
窓の外、夜の都市が静かに瞬いていた。
そして翌日──
彼女は、帰ってこなかった。
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「事故……だったと?」
ギルドの担当者は、どこか他人事のようにそう告げた。
移動中の小規模火災に巻き込まれた、と。
施設の構造上、避難が間に合わなかった者が複数名いた、と。
だが、“回収は難航している”という説明に、優はどこか引っかかっていた。
「遺体は? 彼女の──紗羅の安否は、まだ確認できてないんですよね?」
「……現場の状況を鑑みれば、生存の可能性は限りなく低い。
無念ですが……そのように受け止めていただく他ありません」
言葉の端々が、なにかを避けているように感じた。
(なぜ、こうも曖昧なんだ……?)
現場の映像は一切公開されず、報道も抑えられている。
いつもなら速報が流れるような案件なのに、今回は「詳細不明」のまま。
(何かが、おかしい)
受け入れられない。
どこか、引っかかる。
“死んだ”と聞かされても、心がそれを拒んでいる。
もし、これが事実だとしても。
……いや、事実であるならばこそ。
「ご協力、ありがとうございました」
平坦な声で対応を終えた職員がドアを閉じたあとも、優はその場に立ち尽くしていた。
紗羅の姿が、頭から離れなかった。
「ただの火災じゃない……だろ……?」
誰に向けるでもないその言葉が、静かな部屋に消えていった。