初陣
部屋を出ると長い廊下があり、自分がいたのと同じような部屋が左右に10は並んでいるようだった。
その廊下の先には鉄格子があり、白く輝いている。
どうやら鉄格子の先は明るい外の世界につながっているようであった。
水回りや生活に必要なものは部屋全てあったので、翔太は実に一ヶ月ぶりに太陽の下に出ることになる。
しかしそんなことを意識したのは全てが終わった後であった。
今の翔太にはそのようなことを認識する余裕などはない。
趙に連れられ鉄格子まで行くと、向こう側にいる武装した鎧兜の男によって鍵が開けられ、翔太は趙の手から離れた。
武装した男に促されて鉄格子の外に出ると、円形の闘技場が広がっていた。
正確には鉄格子をくぐった先は闘技場を囲うような回廊になっており、回廊と闘技場はまた鉄格子で区切られていた。
その鉄格子も武装した男によって扉が開けられ、翔太は大人しい家畜のように闘技場の真ん中の方に追い立てられた。
その瞬間、しばらく浴びたことのない強烈な陽光が翔太を照らす。
あまりの眩さにびっくりして周りを見渡すと、目が慣れると共に周囲の様子が見え始めた。
闘技場はやはり円形で、直径は20mぐらいだろうか?
先ほどくぐった闘技場を囲う鉄格子の上はとても手が届きそうもない壁になっており、その壁の向こうには観客席が並んでいる。
翔太がそれを認めた様に、観客も翔太を認め、主役の片割れの登場に観客は熱くなり、歓声が上がる。
空洞のようになっている翔太の頭にそれが鳴り響いた。
俺はここで死ぬのか・・・死ぬ?俺を殺すやつは?
翔太がようやく相手のことに意識を回すと、その時初めて現れたかのように目の前に中年と思われる男が立っていた。
中年男は上目遣いで翔太を睨んでおり、上体を揺すっていた。
心做しか震えている様にも見える。
やがて審判らしき男がやってきて、二人を5m程離れた位置に立たせる。
だめだ、まだこの男と殺し合う実感が湧かない。
翔太はぼんやりと中年男を見つめ、何も覚悟ができていない自分を認めるとようやく焦りが湧いてきた。
あ、あ、まずい、俺はどうすればいい?
「始めろ!」
審判の声に歓声がより一層大きくなる。
まただ、俺は真剣さが足りないんだ。
いつもそうだ、こうやって、もう間に合わないときになってやっと実感が湧いてくる。
女や上司に裏切られた時も、向き合う気持ちを持てないまま死を選んだのではないか。
翔太が何を思おうが、中年男は距離を縮めてくる。
翔太は慌てて現実に戻ろうとする。
武器は?俺と同じ様な剣。背恰好も大体同じ、ただ俺のほうが一回り以上若い。
3mぐらいまで距離が縮まると、中年男は叫び声を上げて走り寄ってきた。
間合いも何も無い、やたらめったらに剣を振り回し翔太に飛び込んでくる。
殺す気だ、怖い・・・!
ひいぃっと悲鳴を上げると、翔太は中年男から逃れようと後退りし、体勢を崩すとそのまま転げ回って逃げた。
観客席がどよめき、嘲笑が翔太の頭の中にこだまする。
慌てて立ち上がり中年男を探すと、息を切らしながらこちらに向き直るのが見えた。
痛い、振り回された剣に裂かれた皮膚から血が滴り落ちる。
転げ回ったときに闘技場の土に混ざった石も皮膚に食い込んだらしい。
なぜだ、俺は自ら死を選んだのに、なぜこんなにも醜く生きながらえようとするのか?入れ墨に乱暴に扱われていたときだって、もう殺してくれてと思ったじゃないか。
しかし中年男は翔太が長考するような時間を与えず、再び奇声を上げて走り寄ってきた。
翔太は剣を両手で持つと腕を伸ばし、切っ先をまっすぐ中年男の喉元に向ける。
中年男と翔太の間に剣という緩衝地帯が生まれ、中年男は翔太に届かなくなった自分の剣を翔太の剣にぶつけようとしてきた。
あ、ここだ。
中年男の剣が翔太の剣に当たろうとした瞬間、翔太は剣を振り上げる。
すると中年男の剣は空振りし、前のめりになった上半身が翔太の眼前に躍り出た。
これから先は単なる勢いだった。
翔太はスイカでも割るかのように無造作に剣を振り下ろし、剣は中年男が被った木の兜に直撃した。
コーン!と乾いた音が鳴り、中年男は昏倒して地に伏す。
やってしまった・・・
我に返った翔太は、動かなくなった中年男を確認すると審判に向き直った。
これで決着はついたじゃないか。
これからどうしろというんだ。
そういうジェスチャーをする。
しかしそれは
「新人戦は相手が死ぬまでやれ!」
という審判の声によって遮られた。
「なぜ?殺す、必要ない。終わった」
翔太は覚えたての言葉で抗議したが、
「説明を受けていないのか?剣闘士になれるのは適性のある者だけだ。無能なものを飼い続ける余裕はない」
と突っぱねられてしまった。
翔太は仕方なく中年男の元に歩み寄る。
中年男はうつ伏せのまま動かず、小刻みに痙攣していた。
この人を殺してまで俺は生きる必要があるのか?
この人はあんなにも生きたがってたじゃないか。
そう思うとどうしてもとどめを刺す気持ちにはなれなかった。
躊躇する様子の翔太を見て、観客がブーイングを飛ばす。
この世界に俺の味方はいない。
翔太の心は折れそうになった。
いっそこの場でまた自殺してやろうか。
そう思ったときである、地に伏せていた中年男が突然動き出し、剣で翔太の足を払った。
うっ!
翔太の右足に激痛が走り、足を切られてしまったと翔太は気が動転した。
その瞬間、翔太の中に恐怖とも怒りとも取れない感情が湧き、今までの逡巡が吹き飛んだように翔太は迷いなく剣を地に伏す中年男に突き立てた。
剣は簡易的ななめし革の鎧を容易に貫通し、夢中で繰り出された刃は、背中、首、腿と何度も何度も中年男に突き立てられた。
その度に闘技場に中年男の悲鳴が響き渡たったが、やがて中年男は悲鳴をあげなくなり、ぴくりとも動かなくなった。
闘技場に歓声が溢れる。
審判は血溜まりを避けながら中年男に近づくと、何度か足で小突き、動かないのを認めると翔太の勝ちを宣言した
翔太はその場に立ち尽くし、やがて体の芯から震えが湧き出でてきた。
人を殺してしまった。俺が、人を殺したんだ。
平和な時代に生まれ育った翔太には、とても信じがたい現実であった。
そして分かったことがある。
自ら死ぬのと、他人に殺されるのでは全く意味合いが違う。
極限状態で翔太に去来したのは、殺されたくないという気持ちであった。
そして翔太はこの震えが恐怖から来ているものではないことも理解していた。
俺は興奮している。他者を殺して生き延びたことに喜びを感じている。
それは翔太本人にとって衝撃的な事実であったが、これから自分が今までの自分とは違う存在になってしまうことを予感してた。