異世界へ
休日はハイキング客や自転車乗りで賑わうのかも知れない林道も、平日の曇りときたら閑散としたものだ。
いや、紅葉も終わったこの時期では元々人の往来などないのかも知れない。
かろうじて一車線分を保っている舗装路をやめかけたボロボロの道には、時折車の離合のための待避所がある。
カーブの外径に突き出した崖っぷちのその待避所には軽自動車が一台停まっており、その側には男が一人立っていた。
「別に、死に場所を探して来たわけじゃない」
男は一人つぶやく。
「でもここは素晴らしい景色だし。どうせ死ぬならこういう所が良いな」
男の眼前には下界の景色が茫々と広がっていた。
晴れていればもっとはっきりとした景色が見られたのだろうか。
遠くには自分が住む街が見えるよう見えないような、大地と空の境目も定かでない。少なくとも客観的には素晴らしい景色ではなかった。
男はしばらくその場に呆然と立ちすくんでいると、やがて緩慢な動作でガードレールをまたいで乗り越えた。
そしてそのまま遠くを見つめ、暫く逡巡する。
もう嫌だ。
自分を裏切った者たちに復讐してやりたい気持ちもなくはなかったが、それより自分が傷つけられた事実から逃げ出したかった。
復讐するにも耐えるにも、その現実に向き合わなければならない。
男にはその勇気も気力も残されていなかった。
いっそ、全てをリセットしたい・・・なかったことにしたい・・・
死への恐怖はなかった。むしろこの世界からいなくなりたい気持ちでここに立っている。
死ぬ勇気があればなんでも出来ると言う人がいるが、あれは嘘だな。
勇気があれば自ら死にはしないんだ。
自殺する人はきっと、こうやって、何もしたくないからこの世から逃げるんだ。
あの女がいる家にも帰りたくないし、あの男がいる会社にも行きたくない。
彼らの不義理を糾弾するために少しばかりの労力も使いたくない。
もう関わりたくないんだ。でも生きている以上は関わらざるを得ない。
もう嫌だな・・・
男の思考はそこで止まり、そしてしばらくして、男は飛んだ。
体はあらゆる支えを失い、ただ重力だけが男に作用する。
浮いた、と思ったのは一瞬だった。
体はすぐにものすごい速さで大地に吸われ始め、その速度に男の意識はついていけず、まるで体から心が抜け出していくような感覚に襲われた。
「あ、下、なんだっけ」
落ちる先を確認していなかった己の間抜けさを自嘲するぐらいの暇はあった。
下は確か木々だったか岩場だったか、まぁ、なんでもいいか。
そう思った瞬間、男の体と心は何か硬いものにぶつかり、男の時間は永遠に止まった。
跳ね返されるたかな。止まった時間のなかで男はそう感じたような気がした。
もう自分と外界の境界線もわからない。
やがて男の意識は薄れていき、暗闇に包まれ地の底へ深く深く沈んでいった。
それからどれだけの時間が流れたのだろう。
1秒とも100年ともつかいない曖昧な時空の中で、霧散してた男の意識は徐々に一点に集まり、最後にははっきりとした人格となって固まった。
取り戻した自我は男に少しずつ認識力を呼び戻させ、生命としての活動を思い出させる。
夢・・・、これは夢。
早く覚めなきゃ。痛い、体が痛い。
なぜだろう、手足が痛む。目を覚まさないといけない。
男がそう意識すると、思考力が急速に男のコントロール下に戻り、無秩序な世界を一つずつ消去していく。
走馬灯のように男に起こった出来事が高速でフラッシュバックし、男は現実世界へと這い出た。
男が目を覚ますと、眼前に突然黒い木々が現れた。
辺りはすっかり暗くなっており、薄っすらとした光が男の視線の先を照らしていた。
状況を飲み込めず男は立ち上がって周りを見渡そうとする。
っつ、痛い。
しかし男の手足はロープのような植物の繊維で縛られており、身動きが取れなかった。
俺は、落ちたんじゃないのか。ここはあの山の森の中なのか。
男は背中に熱量を感じ、ゴロッと後ろに転がると焚き火が煌々と輝いていた。
ああ、さっきの薄明かりの光源はこれか。
意味が分からない。
男は服すら来ていない状態で手足を縛られて転がされている。
他に、何かないのか、誰かいないのか。
男は焚き火の明かりを頼りに周りを見渡す。
すると焚き火の向こう側にはうっすら人影があるようだった。
なんだこれは。どういう状況なんだ。
ここが落ちた先なら、俺は五体満足なわけはないし、こうやって拘束されているのもわけが分からない。
男はとにかく状況を打開しようと、もぞもぞと動きロープが解けないか試そうとした。
すると焚き火の向こうの人影が立ち上がり、こちらへ向かってくる。
やがてそれははっきりとした人間の形になり、男の前に現れた。
異様な格好をしている。身につけているのは動物の毛皮であろうか。
しかしその模様は見たことのないものだ。
青い毛並みに、スイカの縞模様のような黒い波線が縦に入っている。
なんの動物であろうか。見当もつかない。
それに毛皮一枚被ったその格好は、まるで博物館に展示されている石器時代の人間を模した人形のようだ。
ぎょっとして男が視線を上げると、顔には入れ墨がしてあり、歌舞伎の隈取のような赤いラインが引かれているのが見えた。
相貌も異様だ。
額は異様に盛り上がり、輪郭も横に平べったい。
それはおよそホモサピエンスとは違うものであった。
「おい、これはなんなんだ」
男が縛られていることを抗議しようとすると、入れ墨は無言で手にした槍のような棒の石突で男の腹をついてきた。
痛い。なんなんだ、ここはどこだ、こいつは誰なんだ。
男がのたうち回っていると、入れ墨はウオーと奇声をあげ槍を振りかざし、石突で男を滅多突きにしてきた。
「やめろ。何をするんだ。痛い、痛い」
男は叫んだが、入れ墨は手を緩めない。
やがて男は大人しくなった。
入れ墨はそれに満足したのかようやく手を緩め、そして毛皮を脱ぎ全裸になった。
その下腹部には、起立したモノが見たことのない角度で天を突いていた。
くそっ、なんだ、なんなんだよ。
動けなくなった男をうつ伏せにすると、入れ墨は男の腰を掴んで引き上げ、そしてそれにゆっくりと自分の股間に沈めていった。
「ああああああああ」
言葉にならない嗚咽が男の口から漏れる。
しかし手足は縛られ、関節も外れてしまっているのか全く四肢に力が入らない。
やがて入れ墨の息は上がり始め、フーフーという息遣いと、肉と肉がぶつかる音だけが暗い森に響き渡った。
一体何が起きているんだ。男は痛みで天を仰ぐ。
すると夜空には二つの月が輝いていた。