うわさ殺し
日の沈んだ森の中、僕は小枝を折りながら獣道を歩いていく。罠を仕掛けていた場所までたどり着くと、そこには僕が探しているやつがいた。足元を照らしていたライトに反射して、その両眼はぎらりと輝いている。
「君が、『ゾンビ犬』かい? このあたりで猫や小鳥を襲っているってうわさの」
両眼の主にライトを向けると、マズルのある長い顔が大きく横に振られた。
「ごめん、まぶしかったね」
ライトの光を足元に戻しながら、僕は『ゾンビ犬』の姿をじっくりと観察する。
灰色の毛並みはボロボロで、所々に赤黒い肉が見えるほどの痛々しい傷があった。膿んでいる箇所もある。首輪だけはまるで新品のようにしっかりと巻きついていた。元は飼い犬だったのだろう。
右足には、僕が仕掛けたトラバサミががっちりと食い込んでいた。クマみたいな猛獣も想定してたんだけど、その痛々しい姿に追い打ちをかけたみたいで、やりすぎだったと反省した。
『ゾンビ犬』は敵意に満ちた眼を向けると、やがて姿勢を低くし、吠えかかろうとしてきた。しかし、その直前に長い顔は地面へと向けられ、咳き込むような弱弱しい鳴き声が夜の森に響く。前足の付近に、鮮血が飛び散っていた。
無理もない、こんな怪我を放置したままだったから、黴菌が入り込んで体の中がボロボロになっているのだろう。いくら猫や小鳥を食べたって、どうにかなるものじゃない。
「君も病気なんだね。今、楽にしてあげるよ」
僕はジャンパーのポケットからサバイバルナイフを取り出し、ゆっくりと『ゾンビ犬』に近づいていく。もう『ゾンビ犬』の眼に敵意は無かった。鼻から血を垂らしながら、じっと僕を見つめていた。
「高次くん聞いた? 『ゾンビ犬』の話」
高校から家までの帰り道、僕は同級生の元田幸華さんといつものように会話をしながら、広い道路の歩道を歩いていた。
「『ゾンビ犬』? ああ、幸華さんがこのあいだ話してくれたうわさの犬だね」
「その子さ、バス停のベンチ下で死んでいたんだって」
「えっ、本当にいたの、その犬」
「うん、うわさ通りの、ゾンビみたいなボロボロの体だったんだけど、首輪をしていたから誰かの飼い犬だったんじゃないかって、一応、元の飼い主を探しているみたい。最初に発見した人が言うには、まるで眠っているように死んでたそうよ」
「そっか。見つかったのならひと安心だね」
「そうね、とりあえず一件落着かな」
どうやら首を刃物で切られていることは、隠されているらしい。
「これでまた、幸華さんお気に入りのうわさが減っちゃったね」
「ふふっ、そうでもないよ。今朝SNSでとびっきりのヤバいうわさを見つけたの」
「おっ、さすがだね。さっそくそのうわさ話、聞かせてくれないかな」
幸華さんはスマホを取り出し、親指でいじりながら話をしてくれた。教室では表情が固くて近寄りがたい雰囲気を持つ幸華さんだけど、この時だけは、読んだ絵本の内容を話す子どもみたいになる。
僕はそのうわさの内容を一字一句聞き漏らすまいと、目を光らせ、耳に意識を集中させていた。今思えば、僕は幸華さんをそんな顔にさせる『うわさ』に、嫉妬をしていたのかもしれない。
僕の名前は枝住高次。あまり覚える価値はない名前だと思う。なぜなら僕は生まれつき筋肉の難病を抱えていて、この世に長く留まれない身分だからだ。
定期的に病院で点滴治療を受ければ、ちょっと体の弱い男子として学校生活は送れるんだけれども、この病気は20歳を過ぎると急激に進行して、手足の筋肉が機能しなくなり、それからは寝たきりの生活が続く。そして内臓の筋肉も衰弱していって、ほとんどが30歳を迎える前に亡くなるんだそうだ。ふざけてるよね。
そんなだから、これまでの僕は家族以外と深いかかわりを持つことを避けていた。でも、高校生になって、僕は初めて恋をしてしまった。
それが元田幸華さんだった。長い黒髪の凛とした美人で、それは学校でも共通認識だ。でも、彼女は地元にいる昔ながらの……えっと、今風に言うと反社会的勢力のトップの娘さんなのだそうだ。そのせいか、同級生のみんなは彼女を『さん』付けで呼ぶし、軽々しくデートに誘う人なんていなかった。
そんな幸華さんと僕の接点ができたのは、一年生の秋の下校中だった。
「ちょっと、君……高次くん、だよね? 大丈夫、歩けるの?」
「あ、ああごめん。ちょっと、足が攣っちゃって」
筋肉がけいれんを起こしてしばらく動けなかった僕に、幸華さんは手を差し伸べてくれた。それからは下校時に会ったら気兼ねなくお喋りをし、途中まで一緒に帰ることが多くなった。お互いの下校時間がだいたい同じだったのも一因だろう。
「私ね、死後の世界がどうなっているのか興味あるんだ。ほら、私……身内で亡くなる人が多いから」
「へえ、意外だね。幸華さんがオカルトに興味あるなんて」
「オカルト、って言うんだ、それ」
「まあ、オカルトの一種かな。良ければ知っていること、聞かせてくれない?」
正直言うと、僕は中学生の時点で死後の世界については飽きるぐらい調べつくしている。それでも、幸華さんが語る死後の世界を聞いてみたかった。
「魂の重さは21グラムだってネットで検索すると出てくるけどね、もともと魂に重さなんて無くて、もっとなんか別の性質の……」
「へえー……」
もちろん、内容としては聞いたことのあるものばかりだったけど、僕は楽しそうに死後の世界を語る幸華さんに、魅力を感じていた。
幸華さんは、僕が想像しているよりずっと、死が身近にある環境に置かれているのかもしれない。だとしたら僕も似たようなものだ。性質は違うかもしれないけど、僕だって産まれたころから死の影が眼前にちらついていた。だからお互いにそういう雰囲気を感じ取って、自然に惹かれ合っていたとしても不思議じゃない。
でも僕は、幸華さんと付き合うことは考えなかった。僕の病気については、学校では校長先生と担任の先生ぐらいしか詳細を知らされていない。僕自身も、カミングアウトをして普通の高校生と線引きをされるのは、嫌だった。それは幸華さんに対しても同じだったし、なにより、幸華さんを置いて先に死んでしまう自分を想像するのが辛かった。
「ねえねえ、廃墟になってるパシフィックホテルの324号室に、呪いの日本人形が置かれているってうわさ、聞いたことある?」
「ええ、ホテルに日本人形が? いったいどういう話なの」
幸華さんはうわさ話も好きだった。でも、だれそれが付き合ったとか別れたとか、遠まわしの悪口や陰口みたいな、学校でよく聞くうわさ話とは違う。どれも非現実的で危険なにおいがする、オカルト要素のあるものだ。
「うわぁ……人形の呪いかぁ、怖いうわさだね。幸華さんは好きだよね、そういうの」
「うーん、やっぱり、血筋なのかな。心臓のドキドキとかスリル満点のハラハラが、ときどき恋しくなるというか」
「あはは、あるある。たまにホラーものの映画とか見たくなるの、それだよね」
「実際に行ってみて、真相を確かめてみたいって気持ちもあるけど、そんな危ない場所に行ったら家中が大騒ぎになっちゃうから、こうやってうわさだけで楽しんでるの」
「そりゃしょうがないよ、うわさが本当じゃなかったとしても、廃墟とか心霊スポットとか、暗いと普通に危ない場所が多いし」
「でもなんだか……憧れに近い感覚なのかな。高次くんも素敵だと思う? 見たこともない何かと、見たこともない世界。誰かが代わりに調べに行って、SNSにでもあげてくれれば助かるんだけど」
幸華さんの顔は夢見る少女のようだった。何気ない一言だったんだろうけど、僕にはその言葉が心のどこかで引っかかっていた。
帰宅して数時間後、寝る前に薬をぬるま湯で流し込んで、床についたところである決心をした。
そうだ、僕がかわりにうわさを調べに行けばいいんだ。幸華さんがあんなに楽しそうに喋るうわさが、どんなものか見極めてやろう。
その日以来、暇を見つけては幸華さんが話してくれたうわさを自分で調べに行った。ネットで購入して、探索用の装備も充実させた。父さんと母さんには、体が動く今のうちにたくさん旅行をしたい、と話している。
いろんなうわさをこの目で見て回ったけど、やっぱりうわさ通りってわけにはいかないみたいだ。ほとんど何の収穫もない時もあった。『ややはずれ』の例をあげると、ホテルの一室には日本人形ではなく、ただの髪の長い女児用のおもちゃが捨てられていたりとか、指定の場所に藁人形が釘で打ち付けてあったけど、明らかに最近のものであったりとか。
そういったうわさの元ネタたちを、タブレットを使って撮影し、詳細をメモにして残しておいた。持てるものは駅やコンビニのゴミ箱に放り込んだり、そうでないものは黒のマジックやスプレーでバツ印をつけたりして、始末をつけた。
僕自身、度胸はあるほうだし、恐怖のような感情はほとんどなかった。……擦り切れている、と言ったほうがいいかもね。うわさでは呪いが降りかかるだの、祟られるだの、殺されるだの、いろいろ煽ってはくるけれど、あいにく僕の運命はほとんど決まっているんだ。死ぬまでの時間が少しぐらい短くなろうがどうでもよかった。
そして、時たま『当たり』に出会うこともあった。先日の『ゾンビ犬』も当たりの部類だったんだけど、今夜は――。
「あなたが、『尾暮山に住む山姥』ですか?」
山の中腹あたりに設置されていた、怪しいテント。その中に入ると、ロウソクだけが光源の薄暗い空間があり、床一面には仰々しい文字と幾何学的な記号が描かれていた。呪文と魔方陣、なんだろうか。
そして、奥にある台座には数人の子どもが遺体となって並べられていて、その前にある大きな皿のなかには赤黒い液体が溜まっている。他にもあまり直視したくないグロテスクな供え物が、等間隔で周りに並べられていた。
「だ、誰、誰なの!」
思っていたより若い声だった。ほとんど白髪になっているボサボサの長髪に、カビや汚れが目立つ白い服、痩せて強張った顔つきは、山姥といううわさに相応しいものなんだけど。
「僕は趣味でうわさを調べている学生です。この付近で、山姥が子どもを誘拐しているといううわさがありまして……」
「やめて、撮影はしないで! もうちょっとで儀式が終わるのに!」
「……すみませんが、このまま見過ごすわけにはいきません。後で警察に通報させていただきます」
「ううっ、わたしの赤ちゃん……わたしの赤ちゃんの、復活の儀式を邪魔させてなるものかあっ!」
「うわっ!」
彼女は突然襲いかかってきた。手には血の付いたノコギリのようなものを持っている。僕もとっさにサバイバルナイフで応戦しようとした。刃先を出したタイミングで彼女が飛びかかり、密着したまま床に倒れこんだ。
その直後、彼女はノコギリを床に落とし、動かなくなった。胸には、僕のサバイバルナイフが深々と刺さっていた。
……最近、体の調子が悪い。うわさを調べるためにたくさん歩き回ったし、多少の怪我もしてしまった。けど、それ以上に手足の力が入りづらい。特に右足がきつくて、今日は松葉杖をついて登校しなきゃいけなかった。帰り道で、幸華さんは心配そうな眼差しを何度も僕に向けた。
「高次くん……足のほう、大丈夫?」
「うん、ちょっと捻っちゃって、力が入りにくいんだ」
もう、病気の進行が始まってしまったのだろうか。あるいは、今まで積もり積もってきた呪いや祟りとやらが、今、降りかかっているのか。はは、まさかね。
「……ねえ聞いた? 『尾暮山に住む山姥』の事件」
「じ、事件?」
一瞬、ひやりとした。
「あのうわさ、本当に……山にテント張って、何年も住んでた女の人が誘拐してたんだって。誘拐されていた子どもたちはみんな殺されてた。そしてその犯人も、誰かに殺されてたって、ニュースで」
「……ひどい事件だね」
さすがに、幸華さんの声は沈んだ感じになっていた。僕ももうこの件に関しては耳にしたくない。あれはどう考えても正当防衛だし、死刑になってもおかしくない凶悪犯なんだ、と言い訳してみても、僕の手には深々と刺さったサバイバルナイフの感触がいまだに残っている。僕は人殺しだ。あのまま逃げ帰ったけど、僕のもとに警察がやってくるのも時間の問題だろう。もう、ここまで、かな。
「なんか……おかしくない?」
「えっ、おかしいって、何が?」
急に幸華さんがそう言ってきたので、僕の返答も上擦ってしまう。
それから数分の沈黙が続いた後に、幸華さんはうわさ話を始めた。いつもと違った雰囲気だった。なんだか声がくぐもっていて、恐怖と興奮が混ざりあっているみたいだ。
「あのね、最近このうわさがSNSで話題になっているの。『うわさ殺し』っていうんだけど、なんか、うわさになっているものをね、片っ端から暴いてみたり、探し出して捕まえたり……殺したりしている人が、いるんだって……」
それを聞いた時、僕はまるで、何重にもきつく巻きつけられた首輪が、はじけ飛んだような感覚になった。幸華さんは、胸を手で押さえて、怖がっているような、期待しているかのような、そんな眼差しを僕に向けている。渦のような感情が胸の中を踊った。僕はようやく、僕が本当は何がしたかったのか、わかったんだ。
「幸華さん、これあげるよ」
松葉杖によりかかり、鞄の中から、教科書の間に挟まれていたタブレットを引き抜いて幸華さんに差し出した。僕がうわさの調査をしている時に、撮影やメモを行っていたものだ。未完成のままだけれども、渡すなら今しかない。
「ロックはかかってないからね。中の写真やテキストに、幸華さんが知りたかったものが、だいたい入っていると思う」
訳がわからずきょとんとしている幸華さんを尻目に、僕は鞄の奥に隠していたサバイバルナイフを取り出した。刃先には、乾いた血がこびり付いている。
「高次くん、そ、それは……」
「幸華さん、その『うわさ殺し』ってやつはね」
僕は、自分の首を一直線に切り裂いた。喉から血が吹き出し、制服の下のシャツが濡れていくのを感じる。
これが真相だよ、幸華さん。僕こそが、うわさの『うわさ殺し』なんだ。
幸華さんは今までに見たことのない、すばらしい表情を見せてくれた。
ああ、これだ。僕は幸華さんの、そういう顔が見たかったんだ。
タブレットを抱えてその場に座り込む幸華さんに、僕は意識がもうろうとしながらも、精一杯の笑顔を作った。濡れた唇がぬるりと滑り、口の端から血が漏れ出す。
幸華さん、僕は一足先に、死後の世界を調べに行ってくるよ。
また、幸華さんのそんな顔が見れたらいいなぁ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。