9-3.運命の赤が消えるとき。
(…………おや?)
戻って来てみれば。ミモザの左手小指から出る赤い糸は、屋敷の中に繋がっていなかった。
(サクラ? どこか出たのでしょうか)
胸騒ぎがし、玄関扉をくぐる。
人気はなく、代わりに――――
(血痕!? これは、いったい!)
玄関広間に、明らかな血の跡があった。
(サクラ、サクラ…………ッ!?)
狼狽えるミモザの脳裏に、見覚えのない光景がよぎる。
かつてサクラがここで、ドラールという少年と対峙していたのに近い、が。
目を瞑り、勇ましくドラールに斬り付けるサクラの姿は、その時のものではない。
(ドラールがここにきて、サクラに、倒された……その後は、サクラは彼を突き出しに行った?)
赤い糸は、屋敷の外を指している。
少しずつ屋敷に向かって動いているような気もし……サクラの無事もうかがわせる。
(よか、った……………………いえ)
ミモザは深く安心すると同時に……不安になった。
この糸が無くなった後、同じようなことが起きたら。
自分があずかり知らぬところで、サクラに何かあったら。
かつてのように。彼女が惨い目にあったら――――。
(そう、なったら。私は、耐えられま、せん……)
ミモザは自身の体を抱くように、両の二の腕を手でつかみ、握り締める。
目の奥のこみ上げるものを、深く息をして堪えた。
その時。
『ただいまー』
ドアノックに続いて、呑気な声が聞こえた。
駆け出したいのを我慢し、ミモザはゆっくりと振り返る。
「おかえりなさい、サクラ。出かけていたのですね」
「はい。ドラールが襲撃してきたので、突き出してきました」
サクラがとんでもないことを言い出したが……それ以上に。
先に見た光景通りの出来事があったと知り、ミモザは呆然とした。
(この糸は、こんなに強力に情報を、想いを伝えてくれるのですね)
少し息を吐き、顔を上げてミモザはサクラを見る。
「もう……怖くないのですか?」
「はい。信じてますので」
「そう、ですか」
サクラは誰を、とは言わなかったが。
ミモザはそれを理解した。
彼女は確かに、縁を結び、そして信じたのだ。それが敵で、あろうとも。
(見えなくても、そこにある。本当のようですね、お兄様)
兄の言葉を思い出していると、今度はサクラが口を開いた。
「ミモザは、本邸に行ったんでしょう? リプテル様が言ってたし。
何のご用事だったの?」
聞かれ、ミモザは口元を引き結んだ。
彼女は右手で、左手を強く握りしめてから、顔を上げる。
そして……記憶のある場面との符合に、気づいた。
(あ、この、光景は)
それはもう、何年も前のこと。
カトレアからサクラと名乗るようになった彼女を、娼館で見つけて。
そうしてこの屋敷に、初めて連れてきたとき。
サクラは玄関の扉をくぐってとどまり、しばらく申し訳なさそうにしていた。
(あのときと、同じ)
サクラはその時、エランを奪ったことをミモザに詫びた。
ミモザは気にしないでとだけ言ったが。
もしサクラの身に何が起きたのか、その時点ですべて知っていれば。
きっとミモザは、泣いてすがって、許しを請うたであろう。
(思えば。あのときから、掛け違っていただけ。
私は卑怯にも自分に蓋をし、ずっと目を逸らし続けていた。
私を追いかけて、並び立って、向き合ってくれたサクラを。
私は、ちゃんと、見ていなかった)
改めて、左手を握り締め。
(前へ、進みましょう。
嫌われても、構わない。
あなたの、サクラの幸福のために。
前へ――――!)
一歩。サクラの方に向かって、ミモザは踏み出した。
「アカシアと――――――――縁を切って、来たのです」
「……………………え? もう? なんで?」
沈黙は、長いようで短かった。
問い返されて、ミモザは精いっぱいの笑顔を浮かべる。
余裕はまったくなく、頭も回らず、顔も上げられない。
ただ、サクラに歩み寄ることだけを考えて、進む。
「アカシア伯爵家に籍を置いていると、できないことがあったので」
「はぁ。えっとそれはぁ……」
ミモザは、また一歩詰める。思い当たらない様子のサクラに、言葉を紡いで続ける。
「私は伯爵令嬢。では……あなたは?」
「ド平民だけど。――――え? ほんとに?」
もう一歩。そしてミモザは……今更、想いと言葉以外の何の用意もないことを思い出し。
(ええい、ままよ!)
気合いを入れて、告げた。
「私と、結婚してほしいのです。サクラ」
「うん。いいよ?」
サクラの返事は、気の抜けたものだったが。
ミモザの心には――――十分以上の、衝撃が走った。
予測はしていた。だが、その何倍もの……喜び。
想いが通じ、実った幸福。
(ああ……伝わって、しまった。私の、こころが。想いが。サクラに)
サクラはとうに知っていた。問題は、それをミモザが……見ぬふりをしていたということ。
だがミモザは想いが伝わったことを理解し。
赤い糸がなくても、彼女を愛し、愛され、信じあえるのだと――――思い知った。
躊躇いすらなく、自分との未来を望んでくれる人に。
同性だという動揺もなく、自分の気持ちを受け入れてくれる人に。
ミモザは、己を委ねた。自身の未来すら、きっとその人となら共に在れると、委ねた。
――――――――二人の糸から。赤が、消える。




