小さい頃、魔法使いに憧れた。
箒にまたがって大空を鳥のように自由に飛び回りたい。
杖を振るえば素敵な衣装が飛び出して、鼠が馬に、カボチャは馬車に。
友達は皆お姫様になりたいって言っていたけれど。
私は魔法使いに憧れた。
所詮叶わない空想上の産物だとはわかっていたけれど、やはり空想とはそういうものだ。
想像して創造して妄想して。
いつしかそんな夢は現実に飲み込まれる。
そんな当たり前の話、ありきたりな話……。
『だった』
夢は夢に消えず、泡とは消えず。
しかしてありきたりな現実に押し潰される。
もしかしたら今この瞬間も夢を見ているのかもしれない。
目を覚ませば自宅のベットで冷や汗を滝のように流し、粗相をしたのかと勘違いするほど衣服を濡らしているかもしれない。
それでもいい、それでいい。
夢は夢に消えて欲しい。それで助かるのであれば。
「助けて……」
ガタガタと歯の根は合わず、ガチガチと恐怖に震えて音を鳴らす。
そんな体を生暖かく、腐臭と墨のような臭いの混ざった息が包みこむ。
『ドラゴン』
魔法使いと同じく、空想上の生物。伝説の生き物。
仮に彼女が英雄ならば、今こそこの身に秘められし力が溢れだし世界を救う女勇者としての旅が始まるだろう。
だが、そんな都合のいい出来事は起こりはしない。
いや起こってはくれなかった。
でなければ一昼夜、逃げ回った挙げ句にこうして追い詰められはしないだろう。
そもそも今こうして生き延びていること事態が偶然、奇跡に近い。
既に彼女の体も限界を迎えていた。
それでも必死に逃げようと柔らかい土を掴む手には力が入らず、ずるりと滑る。
それでも、それでも肘を使って、脚を使って後ろに這いずるように彼女はついに壁際へとたどり着く。
意図したわけでもなく、追い詰められたわけだが。
そもそも今この状態でドラゴンが手出ししない時点で獲物をいたぶるように遊んでいるのではあるが。
だがそれももう終わりだった。
一口で体が縦に飲み込まれそうなほど開かれた顎が彼女に迫る。
幾重にも並び生える牙がもうそこにある。
ここで食べられて死ぬのか。等と彼女は考え、来るべき瞬間に備え最後の力でぎゅっと瞼を固く閉じた。
ガチン。
顎が閉じ、打ち鳴らされる。
…………。
…………………?
彼女はまだ死んではいない。
いくら待っても来ない死に恐る恐る目を開けると爬虫類のような縦長の瞳孔が眼前に広がっていた。
小さな黒目には涙と恐怖にぐしゃぐしゃに顔を歪めた彼女の顔が映る。
どろどろに汚れ乱れた、それでもきらびやかに月日を返す白銀の頭髪。
対して簡素というにもおこがましい、ボロきれと呼んだ方が相応しい衣服と、それに覆われていない部分にはあちらこちらに痛々しい切り傷や擦り傷が刻まれている。
どうして死んでないのだろうか。
不機嫌そうに唸るドラゴンを前に、彼女はそれが不思議でたまらない。
「やあやあまだまだ元気かな生きてるなら元気だと思うけどここで突然ですがクエスチョン!生きるか死ぬかさあどっ、ちだ!」
矢継ぎ早に頭上から声が降り注いだ。
いや、正確には違う。
聞き取れない、それでも明らかに言語がだとわかる言葉が降り注ぎ、彼女にもわかる言葉が頭の中で響いたのだ。
このドラゴンがファンタジーよろしく頭の中に直接思考を送りつけたのでは、等と一瞬彼女は考えてしまうが考え直す。
そもそもドラゴンはファンタジーであるし、今まで襲ってきたこいつが救いの手を差しのべるはずもなく。その言語はドラゴンの上から聞こえてきている。
「さあさあさあ時間がないよほらはやく。私も今は仕事じゃないし諦めてる人を助ける筋合いもないしそんな人を助けたところでくたびれ儲けで疲れるしさぁだから答えてさあ!君の答えは!」
その人物は、ドラゴンの頭の上で満月を背に、今にもずり落ちそうなぶかぶかの三角帽子を手で押さえ、彼女へと手を差し伸べていた。
この手を掴めば助かる。手を掴まなければこのまま死ぬ。
今まで襲ってきていたドラゴンの上に立つその人が黒幕だとも思うこともなく、ただ差し伸べられた手を掴もうと、彼女は手を伸ばす。
「おーけーおーけー、ならば救いましょう救っちゃいましょう!」
ぐっと一息に彼女は引き上げられ、
「っとぉ!?」
その人もろとも空高くへと飛ばされる。
ドラゴンが勢いよく首を後方へと跳ね上げたのだと気がついたのは後の事だ。
体が空気に押され、圧迫される。ようやく収まったかと思えば浮遊感に包まれ、大地へと引き戻されていく。
眼下には苛立たしげに尾を辺りの岩に叩き砕きながら象徴であるその翼を大きくはためかせ、落ちてくる二人を喰らい殺そうと顎を開くドラゴンが待ち受ける。
声は出ない。
状況に脳が追い付いていなかった。
それなのに、
「ピンチだとか思ってる?思っちゃってるよねでも大丈夫!私は助けるって言ったら絶対に助けるからね」
その人は子供のように笑みを浮かべ、やはり帽子を押さえながら親指と中指を擦り合わせている。
「じゃあとりあえずはこの場を切り抜けて見せようか!私の名前はノルト・シーズナブル!」
彼女はこの日出会った。
遠い昔に憧れたその存在に。
「見ての通り、魔法の使えない『魔法使い』さ!」
燃え上がるドラゴンを背景に彼女は落ちながらニカッと笑って見せた。