キスツス
き す つ す
ぽーん…
電子音が響き渡り、びくりと跳ね起きた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。
節電だからだろう、自分の頭上付近の蛍光灯以外が消されていて、見回してみれば誰もいなく、フロアは暗いの一言に尽きる。
クーラーも止められたのか、じっとりした空気が肌に纏わり付いた。
今の音は、エレベーターの到着音だ。
誰かが帰るところか、はたまた来たところか…。
何とは無しにデスクの時計を確認すれば、日付を跨いだところである。
…この時間だ、誰かが来るってのは無いか、と苦笑した。
つまりは、今しがたまで居た誰かが帰ったところだろう。
どうせなら声かけてきゃいいのに、疲れて眠ってたら仕事が終わらないだろう…などと都合のいいことを考えて、肩を廻す。
まぁ結果的に起きたのだ、良しとしようじゃないか。
今日中に…正確には昨日までだが…提出する書類があるため、残業していたところ寝こけてしまった自分が悪いのは棚に上げておく。
気を取り直し、続きをやらねば。
さて…どこまでやったかなっと…。
自分が突っ伏していたデスクのパソコンはスリープモード。
マウスをクリックして立ち上げ直そうとした時。
……ぽーん…
はっと息を呑む。
エレベーターの到着音…?
何でまた鳴るんだよ…?
…何か出るなんて、聞いたこと無いぞ。
その突拍子もない考えと同時に、扉を振り返る。
オフィスの扉は磨りガラスの観音開きタイプだ。
昼間は忙しなく人が出入りするので開いているが、流石に夜になると閉めていた。
その扉を出た先がエレベーターフロアのため灯りは着いていて、扉から向こうはなんとなく見える。
誰か来れば、そのシルエットくらいは確認出来るはずだった。
ワンフロアをぶち抜いた事務所は普段は50人以上の社員が居るが、こんな時間なのもあり、自分だけ…。
下の階も弊社のフロアだが、この時間に誰かがいるかはわからない。
そんな所を何度も行き来するか…?
気が付けば歯を食いしばり、手を握り締めて扉を凝視していた。
知らず、呼吸も詰めて。
ジーーーーー…
何かの電子機器の音が耳に障る。
「……」
誰も来ない…。
待てども、来ない。
…来ない。
……。
「ぶ、はっ、はあぁ!っははは!」
詰めていた空気を吐き出したら、急に可笑しくなった。
誰もいないフロアで、1人息を詰めていた自分が滑稽でたまらなかったのだ。
種を明かせばこう。
誰だかわからないが、さっき帰った奴が気を利かせてこの階までエレベーターを戻したんだろう。
何を怯えてるんだ俺は。
ぱっ…
「おっ、いいタイミング」
スリープモードのパソコンが、漸くお目覚めになる。
声に出してしまったのは、滑稽な自分への羞恥と、少しの心細さがあったからだが、敢えて気にしない。
作りかけの書類がそのまま画面に残っていたので、ざっと眺めた。
そうそう、ここの説明不足を補うために、文章を書き足していて…。
「…?」
おや、と思う。
その文章の最後に、こうあった。
き す つ す
寝る前の自分は、何故この文を入力したのか。
意味すらわからなかったので、寝ぼけていた…そもそもの意識が飛びかけた状態での入力だったんだろうな。
納得して、バックスペースキーに手を伸ばした……瞬間、俺は跳ね上がった。
プルルッ、プルルッ…!
突如響き渡った音が心臓を縮み上がらせて、驚いたのである。
…その勢いで隅に寄せていた書類をバサバサと散らしてしまった。
…これは内線のコール音だ。
プルルッ、プルルッ…!
このフロアと、下のフロアの別部署が繋がっていて…。
プルルッ、プルルッ…!
確かに、鳴る可能性はゼロではない。
プルルッ、プルルッ…!
だが、しかし。
プルルッ、プルルッ…!
……こんな時間だぞ、誰だよ!?
俺は恐る恐る…震える手で、内線を取ろうとする。
…ぽーん…
ひっ、と上ずった悲鳴が漏れる。
掌を電話の上に掲げたまま、扉を振り返った。
エレベーターの到着音…?
3度目。3度目だ。
何でだよ、何だよ、何なんだよ!?
完全にパニックだった。
プルルッ、プルルッ、
プルルッ、プルルッ…
俺は動くことも出来ず、じっと息を詰めて目を見開いていた。
磨りガラスの向こう…まるで染みのように、影が……。
広がって……。
…ばんっ!!!
「っーー!!」
誰かが扉を叩く。
プルルッ、プルルッ…
影が、扉を両手で叩く。
ばんばん、ばんばんっ!
やめろよ、何だよ!?
何だよこれは!!
プルルッ、プルルッ…!
「ーーーっ!」
がちゃっ…!
最高潮に達したパニックは、最悪の間違いを引き起こした。
俺の手には受話器。
そう、取ってしまった。
同時に情けなくも裏返った声で、俺は叫んでいた。
「だ、誰かきてくれっ!!」
しん…
音が……。
……急速に遠のいた。
しん…
膨れ上がる……濃厚な気配。
第六感としてそれを察知する能力が、人間に残されているのだと知る。
きっと誰しもが…感じることが出来るだろう。
しん…
それは、俺の持つ、受話器の向こう。
しん…
張り詰めた空気を嗤うように、いる。
しん…
ーーーいる。
「き、す、つ、す」
くすくすっ、と…
まるで耳元に吐息を吹きかけられるような声。
ゾッとしたのと同時に受話器を投げ捨て、まるで押し寄せるように音が戻った。
ばんばんっ!
ばんっ!
扉を叩く音。
…そして…。
「先輩!先輩!!開けてくださいって!早く!!」
聞き慣れた後輩の声だった。
………
「もーヤバかったんすから!先輩のそばに変な女いて!」
「女…?やめろよ…!いなかったろそんなの!!」
近くのファミレスは24時間。
そこでコーヒーを頼んで、やっと現実味が戻ってくる。
本物の恐怖は人の身体を侵食するのだと、震える手が訴えていた。
今更ながらにじっとりと嫌な汗をかき、何かいるのではと怯えて周りを伺うことすら出来ない。
ただじっと、震える手を、振動が伝わるカップを、見つめるだけ。
「とりあえず落ち着いてください」
………
コーヒーを2杯飲み終えた頃、漸く震えが薄れ始める。
後輩はそれを確認すると、眉を寄せながら、聞けとばかりに話し始めた。
下のフロアの後輩は、上のフロアを映す監視カメラのLIVEが見れる。
そのカメラは総じて下のフロアにいる役員達が、上のフロアも見ているぞ、という名目のために設置したオブジェクトである。
ふと見れば俺の横に白い服の女。
思わずにやにやしてことの成り行きを文字通り盗み見していたが、どうもおかしい。
俺は女を見ていない。
女は俺のスリープモードのパソコン…キーボードで何かを入力している。
これは、ヤバイ。
何かが、チガウ。
後輩は直感で、自分の荷物もそのままに、すぐ駆け付けてくれたのだった。
「きすつすって…わかるか?」
…思わず聞いていた。
「きすつす?…シラネっす」
「その女か何か知らんが…そいつが打ったらしい文も、受話器から聞こえたのも、その言葉だ」
「うっへ、受話器とっちゃったんすか!しかも聞こえたって…こっわ…」
こっちは笑い事じゃねーよ、と思う。
すると後輩はスマホで何か調べ始めた。
みるみるその表情が歪む。
「うわぁ…先輩、それマズイっすよ」
「何だよ」
「花です、花の名前」
嫌な予感しかしなかった。
「花言葉がヤバすぎますって…ほら。ワタシハ、アシタ、シニマス」
後輩が差し出したスマホの画面に、白い花が細い茎と共に映し出されている。
…そのワタシが、その女自身なのか俺のことなのかはわからない。
けれど、背中が総毛立つ程のこのゾッとする感覚は、10年しても忘れないだろう。
ああ、そう。
その通りだ。
もしアシタ、自分が生きていればの話だ…。
……なあ、あんたはどう思う?
オレハ、アシタ、イキテイルダロウカ?