第5話 レインブルグの薬師
真夜中のレインブルグは群青色の静寂の底に沈んでいた。この街は地形の関係で雨が降りやすく、そのせいで良く霧が立ち込める。この日も真っ白な霧に街中が覆われた。霧の白と闇色が混ざると、群青の雲の中に街があるように思えた。逃亡するシェルリたちにとっては有難い霧だった。
シェルリはリドから教えてもらった住所を頼りに、ニイナの家を探した。もう一つ聞いていた話によると、小さな薬屋を経営しているらしい。暗闇に加えて霧が濃く、街の街灯もほとんど役に立たないので、シェルリたちは手探りで一件ずつ住所を見ていった。夜中だし、霧もあるので誰も出歩いてはいなかった。時折、森の方から狼の遠吠えが聞こえてくる。
「ミース、また反対側を見ていってね。今度はあの街灯の下に集まりましょう」
シェルリとミースは、かなり長い時間同じことを繰り返していた。霧のお蔭で人に見つからずに済むが、同時にニイナの家探しが難航した。シェルリは朝になってもニイナの所に辿り着けないかもしれないと思い、焦り始めていた。
「この辺りのはずなんだけど……」
ニイナの家を見つけたとして、ニイナが騎士団に追われている自分を受け入れてくれるのだろうか。シェルリはそう考えながら、家々を見ていた。リドが手紙で事情を伝えているとは言え、自分の身を危険にさらしてまで他人を守る人間がそう多くいるとは思えなかった。もしニイナに拒絶されてしまったらと思うと、シェルリは怖くなった。
「お姉ちゃん、お薬屋さんあった」
霧の向こうからミースの声が聞こえた。シェルリは急いで声のした方に向かった。
「あふ!」
ミースがいきなりシェルリの胸に抱かれて驚いた声をあげた。前が見えなかったので、シェルリはミースに衝突してしまった。
「ごめんね、大丈夫だった?」
シェルリがミースを抱き込んで言うと、ミースは鼻を押さえながら上を向いた。
「ちょっとお鼻が痛いけど平気」
二人の前に小さな薬屋があった。ポストに住所が書かれていたのでシェルリが確認すると、リドが紙に書き記したものと同じだった。店は閉まっているが、中で明かりがと灯っているのが見えていた。シェルリはニイナに会う事に躊躇いを覚えたが、考えてもどうにもならないので思い切って入り口を叩いた。扉はすぐに開いて、ピンク色のネグリジェ姿の若い女が出てきた。シェルリを見て微笑を浮べる彼女は、セミロングのブロンドに碧眼の一見すると気性の柔らかそうな女性だった。
「おお、やっと来たか、待ちかねたよ」
ニイナは言葉使いも声音も姉さん気質で、見た目の印象とまったく違っていた。シェルリが本当に驚いたのはここからだった。
「あんたがシェルリだね、じいちゃんの手紙にあった通りの可愛い女の子だ!」
ニイナはシェルリをいきなりひしと抱きしめて頬ずりした。
「すりすり」
「な、な、な、何ですかいきなり!?」
予想外の展開にシェルリは慌て、年上の綺麗なお姉さんに頬ずりされて顔が赤くなった。
「可愛いから頬ずりしてるんだよ」
「や、止めて下さい~」
その時、ニイナはシェルリの隣でぽかんと見上げている少女に気づいた。
「おやおや? 手紙には可愛い女の子が一人って書いてあったけど、もう一人いるじゃないか。君の名前は何ていうのかな?」
「ミルティース、皆はミースって呼ぶよ」
「そうか、ミースか、可愛い子だね」
ニイナはやはりミースも抱きしめて頬ずりした。
「すりすり」
「あう~」
ニイナは散々頬ずりした後にミースから離れると言った。
「そんなところに突っ立ってないで、早く中に入りなよ」
ニイナの衝撃的な挨拶で、シェルリとミースは呆けていた。ニイナはそんな二人を抱き寄せるようにして家の中に入れた。
「二人とも外の霧で服が濡れちまってるね。体が冷えるから上着は脱いじゃいな。今紅茶を淹れてあげるからね、体を温めてから寝るんだよ」
「あの、リドさんはまだ来ていませんか? ニイナさんの家で会うって約束してるんです」
シェルリが聞くと、ニイナはお茶の用意をしていた手をぴたりと止めた。
「ここまで必死に逃げてきたんだろうから、何も知らなくて当然か」
振り向いたニイナの青い瞳はランプを光を吸い込んで輝いていた。その奥底に潜む悲しみをシェルリは読み取り、込み上げてきた恐ろしい予感が胸を締め付けた。
「近くの錬金術師の館で裏切者の騎士と狂った老人が王国騎士団に粛清された」
シェルリは引きつけを起こすように大きく息を吸い込み、目を大きく開けた。理解の範疇を越えた現実を突き付けられ、心が瞬時に凍りついたようだった。
「…………嘘ですよね?」
その言葉には、どうかそうあってほしいと言う必死な思いがこもっていた。
「本当さ、じいちゃんは王国騎士団に殺されたんだ」
「騎士様も……」
「そうだ」
呆然としていたシェルリは、その場に折り崩れて手で顔を覆った。滂沱の涙と共に悲痛な声が漏れた。ミースはシェルリを慰めたいが、どうすればいいのか分からなくて立ちすくんでいた。ニイナはその空気を読み取ってシェルリに近づいた。すると、シェルリはいきなりニイナのネグリジェのスカートに掴みかかり、上を見上げる。涙に濡れる虚ろな瞳には、助けを求めるような色があった。
「騎士様もリドさんも死んだなんて嘘ですよね!? お願いですから嘘って言って…………」
ニイナは屈み込んでシェルリと目線を合わせると、真剣な目で少女のか細い肩を強く掴む。
「嘘なんかじゃない。現実から逃げるな」
「わたしのせいだ、わたしのせいで二人とも……」
悲しみに打ちひしがれるシェルリが余りにも可哀そうで、ニイナは自然に抱きしめていた。
「じいちゃんが死んだのも騎士が死んだのも、お前のせいじゃない。王国騎士団が殺したんだ。そんな事を気にするのは筋違いだよ」
「……でも…………」
「わたしはシェルリに感謝しているよ。あのじいちゃんが、あんたを助ける為に命をかけたんだ。無意味な錬金の道程に横たわるものと思っていたけれど……」
ニイナは言葉を切って、シェルリの後ろ髪を優しくなで、それを続けながら言った。
「尊敬するよ、じいちゃん」
その時、ニイナの目に涙が光り、一粒の雫が零れ落ちた。
その夜、シェルリは悲しみ疲れて就寝した。その横でミースも寝入り、ニイナはずっと起きて外に注意を払っていた。やがて夜が明けると、濃い霧を通して淡い陽光が薬屋の窓から差し込んだ。
「二人とも起きろ」
ニイナは時を見計らって夜中に来訪した少女たちを起こした。
「う~っ、眠いよぅ」
ミースがぶつくさ言いながら起きたのに対して、シェルリは身を起こすと、まだリドとグラニドの死のショックから立ち直れずに呆然としていた。
「さあ子供たち、すぐに風呂に入って体の汚れを落とすんだ。そしたらすぐに出かけるよ、時間がないから素早くね!」
そういうニイナはネグリジェから薬師の姿に変わっていた。谷間が見える程に胸の開いたホットピンクの袖広の上着に白のショートマントを付けて、同じくホットピンクのロングスカートの右側には白い太腿が見える程に深くスリットが入っていて、見ればどきりとしてしまう程の艶かしさがあった。
「お風呂どこ?」
「あっち、お湯は沸いてるからね」
ミースはニイナが指さした方に歩いていったが、シェルリはベッドの端に座って虚ろな目をしていた。
「隙あり!」
ニイナはここぞとばかりに横からシェルリに抱きつき、押し倒して頬ずりした。
「すりすり」
「きゃあぁぁっ!? 止めて下さい! どうしてそういう事するんですか!?」
「ここに可愛い女の子がいるからさ!」
ニイナはもっともらしく言ってから起き上がる。シェルリは仰向けに寝たまま天井を見上げていた。その碧眼は悲しみの底に深く沈んでいた。しかし、ニイナの奇行のお蔭なのか、虚ろだった目に光が戻っていた。
「悲しいのはわかるけどさ、今はあんだが成すべき事だけを考えな。今やるべきことは、風呂に入って体の汚れを落としたら、すぐにここを離れる事だ」
「ここを離れる? どうしてですか? お店はどうするんです?」
「この薬屋は捨てて新しい店舗に移る」
シェルリは起き上がってニイナの横顔を見つめた。ニイナの言っている意味が理解できなかった。
「わたしは、あんたを守って殺されたリド・エインの孫娘なんだよ。騎士団が当たりを付けてここに来るのは明白さ。今はまだ霧が出ているから安心だけど、たぶん昼過ぎには霧が晴れる。その前に新しい店舗に移動するんだよ」
シェルリはその時になって気付いた。ニイナが今まで生活していたはずのこの部屋には、ベッドと茶器以外には何もなかった。必要な荷物はあらかじめ新しい店舗に移動してあるのだ。ニイナはリドから便りを貰った時から周到に用意していた。
シェルリもニイナの言う事を聞いて、すぐに浴室に入った。ミースはシェルリが後から入ってくると、とても喜んではしゃいでいた。シェルリは湯船につかり、妹分を心配させないように精一杯の笑顔を見せた。
シェルリとミースはニイナに手を引かれて白霧濃い街の中を移動する。普段なら人が出てきて賑やかになり始める時間帯だが、霧のせいでまだ人は少なかった。視界の悪い中でニイナの歩みが早いので、シェルリは心配になった。
「あの、よくこんな霧の中で普通に歩けますね、前ほとんど見えないのに」
「わたしはこの街で生まれ育ったんだ、街の地形は熟知してる、前が見えなくても問題ないよ」
ニイナは二人を引っ張ってさっさか歩いた。やがて薄暗い裏路地に入り、ニイナは古びた扉の前で止まった。古いだけではなく、妙に背の低い扉で、大人は頭を下げなければ入れないくらいのものだった。
「ここが新しい店舗さ」
「お店らしいものは何もありませんけど……」
「まあ、とにかく中に入りなよ」
ニイナが扉の鍵を開けて中に入る。扉の向こう側は真っ暗で何も見えなかった。
「シェルリ、頭ぶつけないように気を付けなよ」
十四歳の少女の背丈でも、ぎりぎり素通りできない出入り口だった。
シェルリとミースが中に入ると、すぐに部屋の中が明るくなった。ニイナがランプに火を灯していた。そこにベッドとソファーが一つずつと、それらに挟まれるように小さな丸いテーブルが一つ、出窓の下に棚が置いてあり、その中に薬らしい小瓶が敷き詰めてあった。その上、部屋の一角にフラスコや試験管、アルコールランプ等を始め薬の調合に使う道具や機器が置いてあり、それらが小規模な工房を形作っていた。そして、奥にもキッチンらしい狭い部屋がある。特に変わっいるのは、窓が異常に高い場所にあるというところだった。三人が暮らすにはあまりにも狭い場所だ。居場所がソファーとベッドしかなかった。
「どうだい、割と良い店だろう」
「わぁい、秘密のお部屋って感じで、すごく楽しいよ」
ミースがベッドの上で跳ねながら喜んだ。一方、シェルリはまったく腑に落ちないという顔をしていた。
「ここのどこがお店なんですか?」
「そこの出窓を開けると店に早変わりさ」
出窓と言っても木の板を張り付けただけのもので、出窓の板を前に押して開けると、向こう側が狭い路地に面していた。
「薬を売る時だけこの窓を開けるんだ」
「ずっと開けておかないと、ここが薬屋だなんて誰にも分からないと思います」
例え開けておいたとしても、ここが薬屋と分かるかどうか怪しかった。看板もなければ、店舗と思えるような成りもしていない。
「王国騎士が街中を巡回してるんだよ。この窓を開けておいたら、すぐに見つかっちゃうよ。あんた捕まったらやばいんだろ?」
そう言われると、シェルリは黙って頷くしかなかった。
「大丈夫だよ、店舗の移動先は常連には伝えてある。それに路地売りもやるからね」
ニイナは抜け目がなく、シェルリはこの人なら大丈夫だと安心した。同時に、癒えぬ悲しみに疲れて、言葉を出すのが億劫だった。だから全てをニイナに預ける事にした。
「さて、問題は肝心の特効薬のレシピが不明だという事なんだが……」
「あ、それならわたしが持ってます。お母さんが書いたものなんですけど、届けてくれたのはきっと王子様です」
「手紙に書いてあったことは本当なんだね、あんたがエリオ王子から特効薬の作成を依頼されていたってさ」
「王子様が望んでいるのは、特効薬を作る事だけじゃありません。これを作って墳血症で苦しんでいる人達を救わないと意味がないんです」
ニイナはシェルリから特効薬のレシピ本を受け取り、微笑を浮べながらさっと中を見てから、本を閉じて表紙を指で叩いた。
「こいつがあれば楽勝さ! わたしが特効薬を作るから、その間あんたたちは休んでおきな。後でたっぷり働いてもらうからね!」
それから、シェルリとミースは言われた通りにベッドで休んだ。二人とも今朝は殆ど寝られなかったし、色々な事があって疲れてもいた。久しぶりにゆっくり休める時間が与えられたのだった。
現国王アルラス・ロディス、この男はロディスの直系にはあまり見られない、有能ではない男だった。勉学はほどほどに出来たが、武には全く疎く、政治にもかかわろうとはせず、王妃が死んでからは全て宰相にまかせっきりという有様だった。普段は何をしているのかと言えば、お気に入りの側近とカードで賭け事をしたり、外に出て女遊びをしたりと、毎日遊興にふけっていた。王家にいるのは無能な王に狂った王子、ロディスはもうお終いだと囁く者は多かった。
この頃、ロディス王は熱を出して床に伏せっていた。医者はただの風邪だろうと診断したが、薬を投与しても熱は下がらず、症状は少しずつ悪化していくようだった。
ロディス王は寝室で七人の侍女と一人の専属医に囲まれて手厚い看護を受けていた。ベッドに寝ている王はまだ三〇代後半だが、実際の年齢よりもずっと老けて見える。髪にも顎ひげにも白髪が混ざっているし、痩せこけた顔には疲労と無気力感が滲み出ている。目もどこか虚ろで、王族なのにまったく覇気というものがなかった。王の今の姿は病のせいではなく、遊蕩に明け暮れた末の人間性の崩壊によるもだ。
「王子、いけません、王はご病気で体に障るので、許可のある者しかお会いする事が出来ないのです」
「どけよ! 僕はこの国の王子なんだぞ! この僕が中に入れないなんて事があるか!」
部屋の外でエリオと王の近衛騎士が言い争う声が聞こえてきて、侍女たちは色めき立った。彼女等がこの場に最も来てほしくない人物がエリオ王子だった。一騎士が自国の王子を平然と拒絶するところからも異常さが伺える。
エリオは近衛騎士を押しのけて無理やり王の寝室に入って来た。その後ろからルナリオンもついてきていた。侍女たちは腫れ物に触るような気持ちで王子の事を見ていた。
「父上、風邪を引いたって聞いたよ。心配だからお見舞いに来たよ」
ロディス王はエリオの姿を見た途端に、顔が深い憎しみの為に歪んだ。
「貴様、何をしに来た」
「父上に何かあったら、僕もう生きていられないよ。だって、僕は父上が大好きなんだもの」
「わたしは貴様の顔を見ただけで反吐がでそうになるわ!! 貴様などわたしの息子などではないと、前に言ったはずだ! もう忘れたのかこの白痴めが!!」
王が怒鳴り散らした途端に、エリオは幼い子供が今にも泣きそうな顔をした。
「そんな、父上が僕を嫌いだなんて、そんなはずないよ! 僕の父上なのに!」
「わたしの息子は一〇年前に王妃と共に死んだのだ! 今目の前にいるのは、ただの狂った小僧だ! でていけい!!」
ロディス王は、王妃の死のショックでエリオが狂ったという現実から目を逸らし続けていた。今の王にとって、エリオは息子でないどころか、邪魔な存在でしかなかった。
「王子、王様のお体に触りますゆえ、どうかお引き取り下さい」
医者が言ってもエリオは首を横に振って出ていこうとはしなかった。
「ルナリオン! しっかりその馬鹿のお守りをしろ! そいつを二度とわたしの前に連れてくるな!!」
ルナリオンは王に対して慇懃に頭を下げると、王子の手を引いた。無言だったのは、王のエリオに対する仕打ちへの抗議だった。エリオはルナリオンに引っ張られながらも王から目を離さずに、泣きそうな表情を王に投げかけながら出ていった。エリオが部屋の外に出て扉が閉められると、ロディス王は吐き捨てるように言った。
「クズめが」
その後、エリオはルナリオンと共にすぐに自室に戻った。エリオは自分の机に座り、ルナリオンが手に入れてきた資料に目を通しながら言った。
「ルナリオン、父上は良くないようだな」
「はい……」
「君が手に入れてくれた資料のおかげで、墳血症の事が良く分かった。父上のご病気は恐らく墳血症だろう」
「医者から聞いた症状から、その可能性が非常に高いと思われます。いくら薬を飲んでも熱が下がらないのは、風邪ではない別の病気だからです」
「ルナリオン、感染経路を調べてくれ。それから、少しでも墳血症の疑いのある者は暇を取らせるんだ。あと、父上の周りにいる侍女も必要最低限の人数にしなければならない。特効薬がない以上は、墳血症のがこれ以上広がらないように気を配る事しか出来ないな」
その後、ルナリオンが行った調査により、王についていた侍女の一人が高熱を出して休んでいる事が分かった。ルナリオンがその侍女の家を訪ねた時には、侍女は高熱と共に鼻腔からの出血があり、墳血症である事が明確となった。
王自身には墳血症であることが知らされる事はなかった。王家直属の医者以外で王が墳血症である事を知っていたのは、宰相のディオニスだけだけだ。ディオニスはロディス王が墳血症にかかったと知るや、自室にこもり、一人密かに笑った。それは会心の笑みであった。
「いいぞ、これで王はお終いだ、確実に死ぬ。そうなれば残るは馬鹿のエリオだけだ。奴を裏で操る事ができれば、この国の全てがわしのものになる」
ディオニスは我欲に浸りながら、しばらく楽しげに笑っていたが、いきなり真顔になった。その表情には、悪魔が人の皮を被ったらこのようになるのではないかと思うような異様さがあった。
「出来るだけ早くアリアの娘を始末しておかねば。小娘に墳血症の特効薬が作れるとは思えんが、万が一という事もあり得るからな」
この日、宰相から王国騎士団に新たな命令が下された。シェルリ・フェローナ捕縛の為の人員の倍増と、シェルリを捕え次第脱獄の罪で斬殺せよという内容だった。
シェルリとミースが寝ている間、ニイナはひたすら特効薬を作成していた。ニイナは前日から一睡もしていないのに、そんな事はお構いなしに複雑な手順の特効薬を次々と作り上げていく。しかも仕事が早い。凄まじいまでの集中力と胆力である。薬学院を首席で卒業しただけあり、ニイナの薬師としての能力は跳びぬけていた。
シェルリとミースは、半日も眠っていた。最初に起きたのはシェルリだったが、その時には特効薬の入った小瓶が五十個程テーブルの上に並んでいた。母アリアを凌ぐニイナの仕事の速さに、シェルリは驚愕した。前に自分が調合した時は、完成直前の特効薬を作るのに半日以上かかり、量は目の前の小瓶にすれば三つか四つ分くらいだった。
「おや、起きたのかい。どうした、テーブルの薬ばっかり見つめて」
「ニイナさんって、本当にすごいですね。仕事も出来るし、特効薬の作り方もすぐに分かっちゃうし」
シェルリはそこまで言うと、今まで忘れていた重大事に気づいた。
「あっ、ニイナさんにお礼言わなきゃって思ってたんです。色々あって、今まで言えずにいたけど、ニイナさんがいなければわたしもミースもここにはいなかったんです。ニイナさんは命の恩人です、ずっとずっと感謝し続けます」
「やめてくれ、何だか恥ずかしいじゃないか」
「ニイナさんが道を示してくれました。そして、それを元にリドさんが特効薬を完成させて、わたしたちを墳血症から救ってくれたんです」
「何だって!? あのじいちゃんが特効薬を作ったって言うのか!?」
「はい、そうですけど……」
ニイナの驚き様が余りにも大仰で声も大きく、シェルリの隣で寝ていたミースが目を覚まして起き出した程だった。
「そうだったのかい。それは生涯最初で最後の成功だよ、まさに奇跡だね」
「……え?」
シェルリは間の抜けた声を出していた。いくら何でも冗談だろうと思ったが、ニイナは真顔だった。
「あの、リドさんは名の知れた錬金術師だって、自分で言ってましたけど」
シェルリが言うと、ニイナはいきなり笑い出した。可笑しくて可笑しくてたまらないという痛快な笑いで、起きたばかりのミースはそれを見てきょとんとしていた。
「何言ってんだか、あの似非錬金術師! あ~、誤解のないように言っておくけどね、確かに有名ではあったよ、変人としてだけどね!」
「え~」
シェルリも思わず呆れてしまった。そのすぐ後に、可笑しくなって笑った。
「わたしも変だなって思ったんです、薬草の仕分けもちゃんと出来ていませんでしたし」
「そうだろう。よくあんな爺さんに命を預けられたもんだ」
「あの時は、不思議と大丈夫だって思えたんです」
「まあ、可愛い女の子を二人も助けたんだ、じいちゃんはあの世で満足しているだろうさ」
その時にシェルリはふっと悲しみに沈んだ。表情だけではなく、全体に陰が差したような雰囲気があった。無理をして明るさを装っている事が、ニイナに痛い程伝わってきた。更に悪い事に、シェルリは部屋の隅に積んである荷物を見つけてしまった。少女は明らかに見覚えのあるそれに近づき、触ってみた。
「……これ、リドさんの館の倉庫にあった材料…………」
「じいちゃんが手紙と一緒に送ってよこしたんだ。倉庫の材料丸ごと全部ってのは驚いたけど、手紙を読んで納得した。自分にもしもの事があったら、シェルリの事を頼むって書いてあったよ。きっと、こういう事になるって予感してたんだろうね」
それを聞いた瞬間、シェルリの中で堰を築いて抑えていたものが決壊した。リドの材料の前に崩れるように座り込み、声を上げて泣いた。最初にニイナからリドの死を知らされた時よりも、ずっと悲嘆の深い涙だった。
「おじいちゃん……わたしのおじいちゃん…………」
シェルリが荷の皮袋をぎゅっと掴むと、その手の上に涙が零れた。おじいさんの孫になると約束したのに、こんなことになるなんて。シェルリはやりきれない悲しさで涙が止まらなかった。
「お姉ちゃん……」
ミースはシェルリを心配するばかりで、どう接していいか分からない。この時に、ミースの中で両親を失った悲しみよりも、シェルリを慰められない自分への怒りが凌駕した。幼い少女は、今まさに強く立ち上がろうとしていた。




