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フロスブルグの薬売り  作者: 李音
8/32

    シェルリと山小屋の少女3

 シェルリが特効薬の調合を始めてから丸二日が経とうとしていた。リドは墳血症のミースを前に苦闘していた。ミースの症状は末期に近い状態にまでなり、目蓋の後ろからも出血が始まり、涙のように赤い血が流れ、米神から耳の方にかけて赤い線となり、さらに完全に昏睡状態になっていた。リドは少女の目、耳、鼻、口から流れ出る血を布で拭う作業を休みなく行わなければならず、ベッドの周りには血塗られた綿や布が散乱していた。ミースの看病に忙殺されて片付ける暇すらないのだ。

「まだかシェルリ、ミースはあと三日と持たんぞ」

 老体のリドに寝ずの看護は堪えた。肉体的に精神的にも限界に近かった。それでもリドは、シェルリが特効薬を完成させる事を信じて頑張っていた。そんな時に老人の希望を打ち砕くような事が起こった。部屋の扉が開いて、シェルリが中に倒れ込んできたのだ。どうやら扉を開けて中に入る時に躓いたらしかった。

「どうしたシェルリ!!?」

 シェルリは妙に鈍い動作で立ち上がる。変に息を切らしていて、見るからに辛そうだった。立ち上がった後の足もふらついていた。

「……リドさん、ごめんなさい、もうわたしには調合は無理です」

「お前、なんじゃ、熱でもあるのか、顔が赤いぞ」

 シェルリは躊躇いがちに少し間を置いた。それはリドにも死の宣告を与える事になるからだ。

「……ミースの墳血症が移りました。高熱で目がかすんで正確な調合が出来ないんです」

「な、なんということじゃ!!?」

 リドはシェルリが墳血症の為に調合できなくなったことと、先ほどから感じていた理由のわからない悪寒の二つに同時に絶望した。リドにも墳血症が感染していたのだ。

 リドは絶望と恐怖の前に青くなった顔でシェルリを見つめていた。すると彼の目の前の少女は純粋に信じ切った輝きを目に浮べて言った。

「リドさん、後をお願いします。錬金術師のリドさんなら、きっと特効薬を作れます。今のわたしじゃ、調合みたいに細かい作業は無理ですけれど、ミースの看護ならまだ何とか出来ます。ミースの事は任せて下さい」

「……わかった、やってみよう」

 リドは瞬時に恐怖と絶望を吹き飛ばし、恐らく生涯で最も真剣で引き締まった表情を見せた。もはや迷っている暇はなかった。特効薬を完成させなければ三人とも死ぬのだから。


 リドはシェルリとミースを地下室に置いて、今までに何度となく無意味な実験を重ねてきた工房に入った。銀台の上には完成前の特効薬がビーカーの中にまだたっぷりあった。そして、シェルリが今までに試したエリスグリと薬の対比のメモと、特効薬の入ったクリスタルのピアスもビーカーの近くに置いてある。リドはそれを見て緊張を吐き出すように深く息をついた。

「シェルリはこの似非(えせ)錬金術師を完全に信じ切っておるわ。まともな研究成果など一つもないこのわしを……」

 リドはこれから何者かに命がけの戦いを挑むような形相で銀台の前に座った。

「これを生涯に一度の成果とする! 必ず特効薬を完成させてみせる! わしはどうなってもかまわんが、あの子らは何としても助けねばならん!」

 リドは試験管に少量の薬を入れてシェルリのメモを見つめた。

「エリスグリは猛毒じゃ、恐らくその量はごく少量のはず、シェルリが試した中で最もエリスグリの比率が少ないものを基準としよう。そこからさらに量を少しずつ減らしていく」

 ミースの容態から考えて、もう残されている時間は少なかった。

 一方、ミースの看護に着いたシェルリは、その容態の酷さに慄然としていた。意識を失いながらも悲痛な呻き声を上げるミース、幼い少女のあまりにも凄惨な姿に、高熱で曇っていた意識が覚醒させられた程だった。シェルリは顔中から血を流すミースが可哀そうで仕方がなく、目をそむけたくなったが、戦慄が次の瞬間には怒りに変わり、変わり果てたミースの姿を直視しながら綺麗な布を掴むと、手早く顔中の血をふき取った。

「こんなの酷すぎる、こんな病気あっていいはずがない」

 シェルリはピンセットで掴んだ綿で、ミースの口腔内に溜まった血を吸出しながら言った。その目には涙が浮かんでいた。

「どんなことをしても、この病気だけは無くさなきゃ」

 この時に、シェルリの中に墳血症に対する強い怒りが刻まれた。


 リドが工房に入ってから数時間が経った。シェルリが病に蝕まれる体に鞭打ちながら看病を続けていると、いきなりミースが蚊の鳴くような声で言った。

「お姉ちゃん……ミース、死ぬの……」

 ミースは薄目を開けて、血の滲む瞳でシェルリを見ていた。混濁していた意識が奇跡的に回復したのだ。それに対して、シェルリは悲しそうな顔など見せない。それどころか、憎い何者かに怒りをぶつける様な強い態度で言った。

「ミースは死なないわ! 貴方は病気を治してお父さんとお母さんの所に帰るのよ! わたしが連れて行ってあげるから!」

 シェルリが言うと、ミースは微笑して目を閉じて、再び昏睡した。

 一方、工房の方では錬金術師の孤独な戦いが続いていた。リドは極小の耳かきのようなスプーンで少しずつ量を減らしながらエリスグリのエキスを特効薬に加えていた。

「年寄には堪える作業じゃわい」

 もうこれ以下は不可能という微小な量のエリスグリを特効薬に加えた時、薬は綺麗な青色に変色した。

「おお、出来たか!?」

 しかし、ピアスの中の薬と見比べてみると、明らかに色が濃い。リドは肩を落とした。

「もう一歩か。これ以上はエリスグリを減らす事はできん、どうするか……」

 老人は少し考えた後、そうか、と言って、未完成の特効薬を試験管に今までの二倍の量を取った。それから先ほどと同じ量のエリスグリをそれに加える。薄緑色の薬の色が、さっとアクアマリンブルーに変わる。まるで南国の海の南を見るような美しい色だ。そしてそれは、ピアスの中の薬と全く違わない姿でもあった。それを見たリドは思わず立ち上がった。

「出来た!? 出来たぞーーーーっ!!!」

 リドは抑えきれない高揚から顔を上げて天に吠えるように叫んでいた。


 シェルリは高熱で霞む目と、容赦なく襲ってくる眠気に耐えながら極限の看護を続けていた。そこに、リドが嬉々とした姿で入って来る。

「うはは、シェルリ、特効薬が出来たぞい!」

 リドは小瓶に入れた青い薬を見せつけた。その瞬間に、シェルリは疲れ切った表情を消し去り、代わりに希望と喜びの笑顔が現れる。

「リドさんなら必ずやってくれるって信じてました」

 純真な少女の思いを受けて、リドは恥ずかしそうに苦いような笑みを浮べた。

「早くミースに薬を飲ませるんじゃ、その後はわしとお前さんも薬を飲まねばならん」

「はい」

 しかし、それからミースをいくら呼んでも意識が戻らなかった。シェルリはミースの各所から血を拭いながら懸命に呼びかけた。

「無理やり飲ませるしかないかのう」

「それは危険です。薬が気管支にでも入ったら、今のミースじゃ吐き出すことが出来ずに死んでしまいます」

「ではどうする?」

「もう一度、呼んでみます」

 シェルリはミースの耳に唇を近づけて言った。

「ミース、薬を飲んで、病気を治してお父さんとお母さんに会いに行こう」

 すると、ミースが口を開けた。父と母への思いから、ミースは意識を取り戻した。シェルリは素早く口の中の血をふき取ってから、スポイトで特効薬を喉奥に流し込む。ミースは喉を鳴らして薬を飲んだ。

「良かった、飲んでくれた」

「これでミースが治らなければ、わしらも仲良く昇天じゃな」

「治りますよ。だって、わたしとリドさんの力を合わせて作った薬ですもの」

 それから二人も特効薬を飲み、それからはミースの看病を続けた。数時間後にはミースの口内と鼻腔、外耳、目蓋裏からの出血が止まり、今までの苦しむ呻き声はなくなり、それが安らかに眠る吐息に変わっていた。もうミースは大丈夫と安心した途端に、リドとシェルリはその場に倒れて眠っていた。


 ルインは自室にいて、ルナリオンの事を考えていた。彼女が只者ではないと分かった時から、その背後に何があるのかと思いを巡らせているのだった。

 ――ルナリオンの事から考えると、副官のレクサスが逃げ出したというのは怪しいな。恐らく、アリアの娘を逃がしたのがレクサスだろう。しかし、何の為にそんな事をする? アリアの娘を逃がして得をする者がいるとは思えん。

 ルインは更に考えを巡らせ、グラニド将軍の事を思った。

 ――将軍が裏で動いているのは分かっている。これもアリアの娘と関係があるのか? その背後に何がある? 考え得るのは国王くらいのものだが、どう考えてもそれはあり得ない。だとすれば、ルナリオンが独断で行ったことか? あの女ならば、憐憫から少女を逃がすという事も考えられなくもないが……。

 ルインはそこまで考えたが、どうもしっくりこなかった。さらにルインは、近衛騎士団がアリアを確保した点についても考えたが、ルナリオンが王子を利用して行った事だと結論していた。彼は王子が首謀者などとは塵ほども考えなかった。エリオが愚か者を装ってきた十年という歳月は、どんな智者をも欺く程に重かった。


 ミースが気づいた時、シェルリとリドが床に倒れていたので驚いてしまった。ミースはまだふらつく体でベッドから降りて二人を起こした。

 それから一週間が経った。シェルリ達は特効薬によって命は救われたが、残念な事にエリスグリの分量は分らず仕舞いだった。リドは特効薬を作る事に必死になるあまり、エリスグリの正しい分量を記すのを忘れていた。薬を一から作り直すにしても、もう材料もなかった。それが分かるとリドは泣きそうな顔で申し訳ないと頭を下げ、シェルリはそれを笑って許し、逆にミースの命を救ってくれた事に深く感謝した。


 シェルリはすっかり良くなったミースと一緒に、錬金術師の館を探検していた。

「この地下倉庫には、錬金術の材料が沢山詰まっているんだよ」

「何があるの? 見てもいい?」

「いいけど、触ったりしちゃ駄目だよ」

 二人が倉庫の中に入ると、中には何もなかった。シェルリは首を傾げた。少し前までは、数多くの高価で珍しい品があったのだ。

「倉庫の材料は全部ニイナに送ったぞ、特効薬の作成を手伝ってくれた礼としてな」

 たまたま通りかかったリドが、倉庫の入り口のところに立っていた。

「ニイナさんがいなかったら、わたし達は生きていませんでしたものね」

「まったくじゃ、出来の良い孫娘でよかったわい。それよりもシェルリ、お前当てにこんなものが届いておったぞ」

 倉庫から出たシェルリは、そこでリドからポケットに入るくらいの小さな本を受け取った。開いてみると、そこには特効薬の作成法が一から細かく書き記してあった。

「ああ! これ、お母さんの字です!!」

 もちろん、最後のページにはエリスグリの分量も書いてあった。そしてさらにページを(めく)ると、本の裏表紙に書いてある言伝が目に入った。

『どんなに辛くても、どんなに悲しくても、勇気を持って前に進んでいきなさい。勇気は貴方の進む道を照らすものです』

 最後に、アリア・フェローナの名が刻まれていた。シェルリは胸がいっぱいになり、本を抱きしめた。母の無事を確信し、特効薬の調合法も分かった。曇り空を割って太陽が顔を出して世界を照らすように、シェルリの心は歓喜に満ちていった。

 この日の昼前には、シェルリはバスケットにサンドイッチを入れ、大きな籠も持ってミースと一緒に旧ロディス城に向かった。ミースはニイナのお下がりを貰っていた。襟の所に小さな黄色いリボンの付いた長袖ブラウスに、橙色のスカート、肩には向日葵の絵が入ったストールを巻いた。ミースはブラウスの袖の所の膨らみがお姫様みたいだと言って上機嫌だった。

 二人は手を繋いで川沿いを歩きながら、鼻歌交じりに進んだ。はたから見ると、姉妹のようだった。

「古いお城の近くに、木苺が沢山あったの。今頃熟してると思うから、山ほど採ってジャムを作ろうね」

「うん! ミース、頑張って木苺採るよ!」

 ミースは久しぶりのお出かけが楽しくてたまらないという様子だった。その上、明日はシェルリと一緒に村に帰る事になっていた。それがミースを余計にうきうきさせた。

 夕方近くになると雲が出てきた。赤く大地を焦がす夕日の代わりに、黒い雲が大地に闇を落とした。リドは外の様子を見て、シェルリたちが帰ってこないので心配したが、少女たちは間もなくして館に入って来た。シェルリの持つ籠には赤く熟した木苺が山となっていた。

「一雨来そうなので心配しておったぞ」

「だから急いで帰ってきました」

「見て、木苺いっぱい取れたよ」

 ミースが木苺を両手で救い上げて見せると、リドは顔をほころばせてミースの頭をなでた。

「すごいのう」

「これで木苺のジャムをうんと作りますね」

「それは楽しみな事じゃ」

 シェルリとミースは二人で協力してジャムを作り、その間に外では雨が降り始めた。春には珍しい激しい雨で、大粒の水滴が館を打って小太鼓の連打のように騒がしい音を室内に響かせる。雨音の響く中で、三人はテーブルを囲んで夕食を取った。その時にミースは父と母の事をしきりに話し、明日には村に帰れる事を喜んでいた。

 食後には紅茶とラズベリーパイが出た。

「ほっほ、これは美味そうじゃのう」

「わたしとミースで協力して作ったんです。紅茶にラズベリーのジャムもいかがですか?」

 ミースはスプーンでラズベリーのジャムをたっぷり取って、紅茶の中に入れていた。その様子を見て、リドは満足気に言った。

「おぬし等を見ていると、昔のニイナを思い出すのう。孫が一気に二人も出来たようじゃな」

「わたし、リドさんの孫にしてもらえたら、とても嬉しいです」

「じゃ、ミースもおじいちゃんの孫になる!」

 リドは皺だらけの顔に満面の笑みと湛えた。

「それは嬉しいことじゃ」

 さらに雨が強くなり、大粒の雨が窓を打った。冷たい雨と強風にさらされる外の厳しさとは真逆に、リドの屋敷の中は温かい雰囲気に包まれて談笑が絶えなかった。そんな楽しいひと時に水を差すように、誰かが入り口の扉を強く叩いた。何かを叫んでいるようだが、雨の音でかき消されて良く聞こえなかった。それを聞いたリドは黙り、ミースはあからさまに不機嫌な顔をした。

「わたしが出ます」

 シェルリが急いで行って入り口の鍵を外して開けた。すると雨風が吹き込むのと同時に、鎧兜に大斧を持った異様な姿の男が立っていたので、シェルリは胸に両手を置いて身を縮めた。

「逃げろシェルリ、もうすぐここに王国騎士団がやってくる」

「あなたは、将軍様!」

「俺が奴らを食い止めて時間を稼ぐ、お前は出来るだけ遠くに逃げるんだ! 考えている暇はないぞ!」

 グラニドの厳しい表情にシェルリは息を飲んだが、その後すぐに表に強い意思を表した。

「分かりました。将軍様、どうか御無事で」

 シェルリはその言葉を置いて走り出した。シェルリは自分の事よりも、リドとミースを助けなければいけないと思った。

 リドはシェルリの話を聞いても驚きも慌てもしなかった。むしろ何時かこんな時が来ると分かっていたように、誰よりも冷静に事に対処した。

「二人ともついてくるんじゃ」

 シェルリ達はラズベリーパイ半分と飲みかけの紅茶を残して、急ぎ足で居間から出た。リドは少女たちを連れて工房に入ると、その最奥まで行った。

「道楽で作ったものじゃが、まさか役に立つ時が来るとは思わなかったわい」

 リドが壁に付いているスイッチを押すと、床が開いてその下に階段が現れる。

「どうじゃこのカラクリは、如何にも錬金術師の館という感じじゃろう」

「うわあ、すごい、すごーい!」

 状況が良く呑み込めていないミースは、床から秘密の抜け道が出てきたのを見て、単純に楽しんでいた。

「この地下道を抜けると、川の近くに出る。その川を伝ってずっと下って行けばレインブルグに辿り着くのだ。そこまで行ったニイナに匿ってもらえ。おぬしの事情は手紙で良く伝えてあるから大丈夫じゃ」

 リドはシェルリに紙切れを渡した。

「ここにニイナの家の住所が書いてある。おぬしは追われている身じゃ、訪ねるのは夜中にするんじゃ」

「あの、リドさんはどうするんですか?」

 シェルリが心配そうに言うと、リドは頷いた。

「もちろんわしも逃げるぞ。だがその前に、ここでやらねばならん事がある。シェルリはミースを連れて先に逃げろ、ニイナの家で落ち合おう」

「はい、わかりました。リドさんも出来るだけ早く逃げて下さいね」

「わしの事は心配いらん、はよう行きなさい」

 リドは地下道へ行く二人の少女を見送った。シェルリは振り返り、リドの姿を見た。工房は薄暗かったが、リドの笑顔がはっきりと見えて、シェルリも笑顔で返して、それ以降は振り向かずにミースの手を引いて地下道を走った。

 シェルリ達がいなくなると、リドはもう一度スイッチを押して地下道の入り口を閉じ、それから雨の打つ窓から外の闇を見つめた。

「この老いさらばえた身では、付いてゆくことはできんよ。シェルリ、無事に逃げるんじゃぞ。ニイナ、シェルリの事を頼んだよ」

 雨は更に強くなり、怒号のような雨音がリドの独り言をかき消した。


 シェルリが地下道から逃げ出していた頃、ルインを先頭にしてやってきた王国騎士数十人が、雨の中でリドの館を囲んでいた。入り口の前には大斧を前に置いて大柄な男が一人立つ。ルインが馬から降りて男に近づくと言った。

「ほう、王国騎士団の将軍が我らの前に立ちはだかるとは異なことだ」

「俺はもはや王国騎士ではない。今は一人の少女に忠誠を誓った一騎士にすぎん」

「少女とは、シェルリ・フェローナの事だな。貴方があの少女とどんな因果があるのかは興味はないが、そこは通してもらわねばならない」

「それはまかりならんな。何故なら、俺がお前たち全員を叩き伏せるからだ」

 グラニドは斧を持ち上げて地面に叩きつけた。それだけで周りを囲む騎士たちの地面が振動した。グラニドの剛力の前に、何人かの騎士は足が竦んだ。

「安心しろ、この斧はレプリカだ。あの子の行く道を血で汚す訳にはいかんからな」

 それからグラニドは斧を振り回して旋風を起こしながら武器の雨水を払い構える。

「レプリカでも骨位は砕けるぞ、かかって来るのなら覚悟をする事だ」

 ルインはかつての上官に対して、何の感情も抱かずに言った。

「グラニド・ベルク、王国への反逆罪により処断する」

 ルインはおもむろに手を上げてからグラニドを指した。

「かかれ」

 グラニドを取り囲んでいた騎士たちは、意を決して突撃していく。王国騎士たちは、もちろんグラニドが勇猛な騎士であることを知っている。持っている獲物が(なまくら)とは言え、狂気にでも駆られなければ向かってゆく事など出来なかった。

 グラニドは、前から獣のように叫んで向かってきた三人を、斧の一振りで纏めて吹き飛ばした。大の男が三人が一塊となって宙を飛び、地面に叩きつけられ散り散りになる。斧の一撃を脇腹にまともに受けた一人は悲惨で、鎧がひしゃげて肋が何本か砕けて苦しみの余りのたうった。他の二人は脳震盪を起こして気を失っていた。次の瞬間に、不意にグラニドの横から襲ってきた騎士は、横から顔に斧の一撃を受け、顎が砕けると同時にぶっ飛んだ。その騎士はルインの足元に倒れて、口から血を流しながら声にならない叫びをあげた。全ての声は、雨音にかき消された。

「つぎ、かかれ」

 ルインは足元で苦しむ同朋を気にもせずに命令した。その冷徹な声だけが鮮明に闇を伝い、騎士たちの耳に届いた。決死の突撃は続く。次に二人の騎士がグラニドの左右を挟み撃ちにした。そして、瞬きするような瞬間に、一人の肩に斧が食い込んで鎖骨を砕き、そこからグラニドは反転して斧を半円に振り、逆方向にいた騎士を側面から叩き伏せた。弾き飛ばされて泥の中に転がった騎士は、腕を砕かれて呻いた。ルインは当然のようにまた命令した。

「つぎ、かかれ」

 かかって行く騎士たちは次々とグラニドに打倒され、あっという間に二〇人以上も重傷者が転がった。騎士たちは冷たい雨の中で立ちすくみ、グラニドに対する恐怖と、自分は戦わずに命令しかしないルインに嫌気がさしてきていた。その時にルインが剣の柄に手を付けて、近くにいた三人の騎士に言った。

「お前たちはグラニドの後ろに回れ。隙があったら斬り込め、躊躇は許さん、これは命令だ」

 後ろから攻撃するなど騎士道精神に反するが、グラニドの化け物じみた強さを前にして、騎士たちに迷いはなかった。

 グラニドは数十人の騎士たちを相手にして体力を消耗し、肩で息をしていた。加えて冷たい雨も体に堪えてきている。そんな男の前にルインは近づき、剣を抜いた。それはまるで光だった。闇に銀の閃光が走ったと思った瞬間に、ルインは既に剣を構えていた。

 ――強い。

 グラニド程の男が、瞬間にそう思わされた。グラニドはルインとまともに立ち会うのは初めてだったが、まるで隙がなかった。ルインはグラニドを直視しながら静かに言った。

「貴方とわたしの実力は恐らく互角、まともに戦えば互いに殲滅するのみ。わたしはその様な愚を犯すつもりはない」

「確実に勝つために騎士どもをけしかけたのか。実力が同じなら、消耗している俺の方が分が悪い。冷静な判断だ」

 グラニドは、刺し違えてでもルインを倒さなければならないと思った。ルインがシェルリを追い詰め、苦しみを与える様が容易に想像できたからだ。

 グラニドとルインは豪雨の中で相対し、両者の間に一本の糸が張りきるような緊張が走る。それを見ていた騎士たちの緊張も極限に達し、彼らが今だと思った瞬間にルインの剣が閃いた。火花が散り一瞬闇を照らして消える。グラニドが前で構えた斧の側面に一文字の線が入っていた。ルインが斬り込んできた瞬間を捉える事が出来たのはグラニドだけで、傍で見ていた者には何が起こったのか分からなかった。

「そのような重鈍な武器で我が一撃を退けるとは見事」

 ルインは言うなり、怒涛のように斬撃を繰り出してきた。雨粒をも両断するその鋭さに、グラニドは斧を巧みに操って防ぐのが精一杯だった。

 ――刺し違えれば反撃できる、この男だけは始末しなければならん!

 グラニドは相打つと同時にルインの頭を砕くつもりだった。彼はなおも攻撃を耐え忍び、じわりじわりと後ろに下がる。そして遂に待ち望んだ瞬間がやってきた。ルインが体勢を低くして刺突の構えで突っ込んでくる。グラニドはわざと斧を振り上げて胸と腹を開けた。グラニドは胸を貫かれるのを覚悟して思い切り斧を振り下ろす。するとルインの剣が刺突から弧を描いて跳ね上がり、彼の脳天に迫っていた斧を側面から打ち、斧の刃と柄の付け根のところを剣の鍔で受け止めて横に流した。

「なに!!?」

 グラニドがルインの神憑った剣技に驚愕したその時、ルインは剣を水平に持ってグラニドの横を風のように通り過ぎた。グラニドがルインを振り返ると同時に、その腹が鎧ごと横一文字に切り裂かれて鮮血を噴いた。

「ぐお、何という男だ……」

 グラニドの背後で複数の絶叫が起こり、それに少し遅れてグラニドの背中から腹や胸に三本の剣が同時に突き通った。グラニドは大量の血を吐いて倒れそうになるのを斧で体を支えて耐えた。後ろから襲ってきた騎士たちは、反撃を恐れてグラニドに剣を突き刺したまま逃げるように距離を取った。グラニドの全身から流れ出た血が足元に溜まり、雨水がそれを攫っていく。彼は全身から刃の突き出た凄絶な様を見せつけながら、後退して錬金術の館の入り口に立った。

 ――すまんリリナ、お前はようやく元気になったというのに、俺は、俺は……。

 この瞬間、娘のリリナの笑顔が、グラニドの脳裏に過ぎった。それが彼に、最後の力を与えた。

「どうした!! 俺はまだ生きているぞ!! かかってこい!!!」

 激しい雨音をかき消して闇を震わす怒号が、騎士たちの足そすくませ思わず剣を構えさせた。そんな部下たちを見てルインは言った。

「慌てるな、もう死んでいる」

 グラニドは館の入り口を守るように立ちながら絶命していた。その姿は凄まじく、足元は血だまりとなっている。たった一人の少女を守るために死した男の見事さに、騎士たちは言葉もなかった。


 グラニドが倒れた時、リドは居間で紅茶を飲み、残りのラズベリーパイを旨そうに食べていた。

「ふうむ、そろそろかのう」

 そう言ってリドは居間を見渡す。シェルリが来る前は汚れ放題に汚れていて埃も堆積していた場所だったが、シェルリが掃除をしてどこもかしこも輝くように綺麗になっていた。シェルリとの思い出を惜しむように居間に佇むリドの耳に、何者かが扉を破ろうと叩く音と、どこかで窓ガラスが割れる音が聞こえた。リドは急いで廊下に出て地下室に向かうと、途中で王国騎士の一人に鉢合わせした。

「いたぞ!」

「こりゃいかん」

 リドは老体に鞭打ち、歩いているのか走っているのか分からないような動作で地下室に向かう。老人の後ろから人の声と気配が迫っていた。老人は地下室に跳び込み、入り口の扉を閉めて内側から鍵をかけた。その直後に、誰かが扉にぶつかってくる音が響いた。外では騎士の一人が扉を破ろうと突撃したが、扉は頑強でびくともしない。

 リドは何者かが外で喚くのを聞きながら、ベッドに座った。彼は最初からここに逃げ込むつもりで、(あらかじ)めランプに火を入れておいた。ここはシェルリと共に必死にミースを看護した場所だった。

「後は彼らがここに入って来るまでゆるりと待つとしよう」

 地下室の外にいる騎士たちは、老人と共にシェルリも隠れていると思い、やっきになって扉を破ろうとした。最初は何とか鍵を開けようとしていたが、やがてそれを断念して斧で扉を壊す強行策に出た。リドは眠るように目を閉じて、外で何度も斧を打ち込む音を聞いていた。しばらくして扉に穴が穿たれ、騎士たちの声が部屋に通った。それから扉が完全に打ち壊されて開け放たれるまで、もう少し時間がかかった。騎士たちが部屋になだれ込んで来た時には、リドがこの部屋に入ってから一時間以上が過ぎていた。中には老人の姿しかなかったので、騎士たちは面食らった。ベッドの下を調べるが当然シェルリはいない。

「シェルリ・フェローナはどこだ」

 ルインが詰問すると、リドはベッドに座ったまま言った。

「それは誰の事じゃ? 知らんのう」

「しらばっくれても無駄だ、シェルリがここに居たのは分かっている。貴方は彼女を逃がす為の時間稼ぎをし、我々はそれにまんまと引っかかってしまった訳だ。彼女はどこに向かった?」

 リドはベッドから立ち上がり、狭い部屋を何度か行き来しながら言った。

「おぬし等、それを教えた途端にばっさりやる気じゃろう」

「大人しく教えてくれれば、そんな事はしない」

 老人の言動にいらつきながら、近くにいた騎士が言った。

「いいや、信用ならん。わしに危害を加えないと言う確実な保証がなければ、シェルリの居場所は教えられん」

「教えてもらう必要はない」

 ルインは言うや否や、剣に手を付け、リドがあっと思ったときには、光が老人の前を斜めに横断していた。リドは左肩から右下の脾腹まで切り裂かれ、声も上げずに膝から崩れ落ちてうつ伏せに倒れた。それを見た騎士の一人が声をあげた。

「な、何と言う事を!?」

「シェルリ・フェローナに組する者は容赦なく断ぜよとの命令を守ったまで」

「この老人はシェルリ・フェローナの居場所を知る証人ではありませんか!!」

「時間の無駄だ。この老人は命を捨てるつもりで我らと相対していた。最初から喋る気などなかった」

 周りの騎士たちは老人の覚悟を見抜いたルインの機微に驚き黙していた。

「よく…わかったのう……恐ろしい男じゃ…………」

 リドは風前の灯となった命から、最後の声を絞り出した。痩せ細った体の下から夥しい量の血が広がってきていた。老人はシェルリの事を思った。

 ――逃げるんじゃシェルリ、この男にだけは捕まってはいかん…………。

 目を閉じたリドは、遠のく意識の中で人生を振り返った。思えば、無意味な実験ばかりで我ながら無駄な人生だったと思った。それでも自分は大錬金術師だと言って強がっていた。しかし悔いはなかった。最後に特効薬を作ってミースの命を救った。今はシェルリを守るためにその命が潰えようとしている。自分の長い人生は、二人の少女を守る為にあったのだと、素直に喜ぶ事が出来た。そう心から思えた時、リドは目蓋の向こう側に輝く物を見つけた。青く輝くそれは太陽のようでもあり、宝石のような鉱物にも見えた。リドはそれが何なのか悟ると、途切れかけた意識を取り戻して目を開けた。

 ――そうか、そうだったのか!! 賢者の石とは物質ではなく、己の中に存在するものだったのだ!!!

 再びリドの意識が深淵に落ちていく。

 ――ニイナ、お前はいつもわしを馬鹿にしておったが、ついに賢者の石を見つけたぞ、どんなもんじゃ…………。

 一人の少女の為に命を懸けた錬金術師は、最後に賢者の石を見つけて安らかに眠った。リドの七十余年に及ぶ人生はここに幕を閉じた。

 ルインは老人の死体を見つめながら思った。

 ――グラニド将軍といい、この老人といい、何故少女一人の為に命までかける? シェルリという少女には何があるというのだ?

 ルインがそのように考えたのは(わず)かな時間で、彼はすぐにシェルリの行方を探すように騎士団に命令を下した。


 翌朝には雨は止み、お日様が顔を出した。ずぶ濡れの少女たちは寒さに震えながら、森の中を走っていた。シェルリが向かっていたのはレインブルグではなくミースの村だった。逃げるにしても、ミースを両親の所に返さなければならない。

 ミースの案内で村に着いたシェルリは、すぐには帰らずにミースが両親の元に帰るのを見届けようと思っていた。

 村では朝早くから人々が外に出ていて、農作業に(いそ)しんでいた。ミースは知り合いを見つけると、それに駆け寄った。

「おじさーん!」

 畑で鍬を振っていた壮年の男が、ミースの姿を見て怪訝な顔をする。それから奇跡を目の当たりにした人間のように、劇的な驚きを顔に表した。

「ミルティース!!? お前、生きていたのか!!? 狼に食われた訳ではなかったのか!!?」

 男が妙な事を言うので、シェルリは首を傾げた。

「狼に食べられるって、どういうことですか?」

「いや、前に小屋に行ったら、ミルティースの死体がなかったから、獣にでも食べられたのかと……」

「わたしお薬飲んで元気になったんだよ」

「そうか……病気が治ったのか……」

 男は妙に挙動不審で、表情には悲愴が浮かんでいた。

「お母さーん、お父さーん」

 ミースは自分の家に駆け込み、すぐに不審な顔をして出てきた。

「あれれ、誰もいない。お母さんとお父さんはどこ?」

 そんなミースの前に、男は夢遊病者のように頼りない足取りで近づくと、いきなり両膝をついて頭を抱えて苦悶した。

「おお! ミルティース!! お前が生きて帰って来るとは、何という皮肉、何という残酷さか!! この世に神はないのかっ!!!」

 男は地面をかきむしりながら涙を流した。ミースもシェルリも呆然とその姿を見ていた。男は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて言った。

「ミルティース、落ち着いて聞いておくれ。お前のお父さんとお母さんは亡くなった。二人とも墳血症にかかって、あの小屋で亡くなったんだ…………」

 それを聞いたシェルリは体を震わせていた。こんな悲しい現実などとても考えられるものではなかった。ミースには男の言っている事が、夢か幻のようにしか聞こえなかった。


 それから、二人はミースの両親の墓所の前に立った。墓は大きな長方形の石盤一つで、その下に夫婦が眠っていた。ミースの父と母は、墳血症と分かった時、死んだミースに謝る事が出来ると絶望の中に喜びを見出していたと言う。それから二人は山小屋で残された時を過ごし、村人が遺体を確認した時には、夫婦は床に倒れていて、血だまりの中で手を繋いでいた。墳血症はとても苦しむ病気だが、二人の死相は安らかなものだった。

 ミースはぎゅっとシェルリと手を繋ぎ、父と母の墓を前にして口をへの字に曲げていた。涙は流していたが、声はあげなかった。だからシェルリも泣くのを堪えた。

「お母さんとお父さん、天国にわたしがいなくて寂しがってるかな」

「そんなことないよ、ミースが生きてるって分かって、二人とも喜んでるよ。ミースはお母さんとお父さんの分まで生きなきゃ駄目だよ」

 ミースは懐から小瓶を出した。その中にはラズベリーのジャムが入っていた。

「お母さん、お父さん、これ食べて、お姉ちゃんと一緒に作ったの」

 ミースは墓の前に小瓶を置いた。この時にシェルリは耐え切れずに泣いてしまった。

「ミース、一緒に生きていこうね」

「うん、お姉ちゃんと一緒なら、わたし寂しくない」

 ミースはシェルリの手をさらに強く握った。悲しい現実を前に、二人の少女は姉妹以上に強く結びついた。


シェルリと山小屋の少女…終わり


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