第3話 少女と錬金術師1
シェルリが牢獄から脱出した日の昼前に、アリアを裁く裁判が行われていた。アリアに対しては弁護人は愚か証人の一人もなく、ただ不当な証言が繰り返された。
城下町にある裁判所には入りきれない程人が集まり、多くの聴衆がいる中で、薬師アリアは完全な晒し者になっていた。この裁判の名目は、違法な薬を売った薬師への捌きを決めるというもので、違法と言われた薬が噴血症の特効薬である事を知らない人々は、アリアを麻薬か毒薬でも作った重罪人と見なしていた。
「次に証人の証言に移ります」
王国側の役人が言うと、アリアの近くに中年の農民風の男が出てきた。記憶力の良いアリアは、その男に特効薬を売った事を覚えていた。
「この男はアリア・フェローナの売った薬により、家族が被害にあっております」
役人に証言をするように促されると、男は体を小刻みに震わせながら言った。
「へぇ、この女が病が治ると言って売っていた薬で、家内がずいぶんと苦しみました。頭が痛いとか、幻覚が見えるとか言い出しまして、ついこの間死にました……」
男は泣きながら言った。アリアはその姿を見て、胸を裂かれるような悲しみを覚えた。男はアリアを恨んでなどいなかった、ただ何かを必死に目で訴えていた。アリアにはすぐに分かった。男は特効薬を取り上げられ、噴血症の妻を助ける事ができなかったのだ。その上、妻の死にかこつけてアリアを不利にする偽の証言を言わされている。証言を拒否すれば、どんなひどい目に合わされるかも分からないのだ。証言台に立った殆どの人間が、そんな状況であった。アリアは不当な証言を強要される人々に胸を痛めていた。裁判長はアリアに反論の機会を与えずに判決を言い渡した。判決は当然のように死刑であった。
アリアの裁判が終わった直後、レイスレイは薬王局の局長室でディオニスと密談を交わしていた。
「お前の望むようにしてやったぞ」
「……わたしは、アリアの死刑など求めてはいませんよ」
レイスレイが険しい顔で言うと、ディオニスは悪態をついた。
「心にもない事を言うな、どのみち邪魔者は消さねばなるまい」
レイスレイは何も言わずに無表情で黙っていた。それに向かってディオニスは不敵な笑みを浮べた。
「ここまで力添えをしたのだ、こちらの要件も飲んでもらうぞ」
「要件とは?」
「あの女を処刑した後、あの女から奪った薬の手順書を使い、薬王局で特効薬を作ってもらうぞ」
レイスレイはそれを聞くと、相手を殺したいような顔をした。睨まれたディオニスの方は平然としたものだった。
「お前にとっては屈辱的だろうが、薬王局の名誉は守られる。何の問題もないはずだ。墳血症はかなり広範囲に広がっておる、今の状況で薬王局から特効薬を出せば、莫大な利益を得られるぞ」
それが、宰相ディオニスの本当に狙いだった。アリアの命を奪い、レシピを横取りして、それを国益に転じようというのだ。
「レイスレイ、お前に断わる権利はないぞ、必ず言う通りにやってもらう」
「……わかった」
レイスレイは目の前の男を軽蔑しながらも、その権威の前に従うしかなかった。ディオニスはいつまでも邪悪でいやらしい笑みを浮べていた。
「いててて、くそ、こっちが弱いのをいいことに、思い切り殴りやがって……」
レクサスは湖の水面に映った自分の顔を見ながら言った。頬が腫れ、口元には青あざがあり、彼は患部を触っては痛そうな顔をしていた。
夜中から昼過ぎまで馬で走ってきたシェルリとレクサスは、森の中の湖で一息ついていのだった。
シェルリは水鏡と睨めっこしているレクサスには構わずに、その辺の草むらで何かを探していた。
「あった!」
シェルリは草を取ってレクサスのところに戻ってきた。
「うん? 何があったんだ?」
「キリエ草です。傷薬の原料になる薬草なんですけど、このままでもよく効くんですよ」
シェルリは緑色の葉っぱを手の中で揉み込むと、薬草の汁を指でレクサスの傷に付けた。
「女の子に薬を塗ってもらうっていうのは、中々幸せな気分だね」
「もう、何言ってるんですか」
レクサスは道中から冗談等を言ってシェルリを笑わせたり呆れさせたりしていた。そのお蔭でシェルリは、普段通りの明るさを取り戻していた。
それから二人は馬に乗って再び走り出した。北の森の錬金術師の館までの道のりはまだ長かった。その道程で、シェルリはずっと気になっていた事をレクサスに聞いた。
「あの、どうして王子様は、その何て言うか」
「どうして馬鹿のふりをしているのか、だろ」
「はい、とても気になるんですけど」
「ルナ隊長と俺だけは、王子から直接事情を聞いている。シェルリには話しておいた方がいいだろう」
王子エリオが愚か者の片鱗を見せ始めたのは今から十年前、つまりエリオが8歳のときだった。
「王子が馬鹿になったのは王妃様が亡くなった直後からだって話だ。その時の王子は賢い子どもで、急におかしくなって周りに衝撃を与えたが、王妃が亡くなったショックでおかしくなったんだろうって言われている。真実は、王妃様が王子に望んだんだ、決して賢くも勇敢でもあってはいけない、時が来るまでは愚か者であるようにとな」
王妃が亡くなった時、シェルリはまだ小さかったが、母を始め周りの人々の王妃に対する悲しみ様は良く覚えていた。特に母のアリアは涙を流して王妃の死を悼んでいたので、それほどに大切な人なのだと小さいながらに理解していた。
「どうして王妃様はそんな事を望んだんですか?」
「ここからは王子から直接聞いた話だ」
レクサスは王子から聞いたことを一つも隠さずに話した。
彼がルナリオンの副官となったのは、ルナリオンが隊長に任命されるのと同時だった。その直後にエリオは二人を自室に呼んで言った。
「僕には味方が必要なのだ。君たちは信用できる人間だ、だからすべてを話そうと思う。もし、君たちのどちらかが、僕を裏切るのならば、僕はこの国とともに破滅するだろう。そうなった時は、運がなかったと諦めよう」
ルナリオンとレクサスは、その時まで王子を噂通りの愚か者と思っていたので、非常な驚きと共に、真の王子の姿に感動してその場で違える事のない忠誠を誓った。エリオは二人の忠誠を受け取ってから話し始めた。
その当時、王妃エルザはあまり頼りにならないロディス王の代わりに王国の全権を担っていた。エルザは長いブロンドの聡明な女性であった。王妃は常に民の事を第一に考えた政治により、民衆から絶大な支持を得ていた。その裏で、税金等を糧にして私腹を肥やす高官等からは疎まれていた。エルザはそれを理解していたが、高官共の恨みつらみなど微塵も恐れずに、民を出汁にする輩には厳しい鉄槌を下した。それにより国は豊かさを増し、民衆は安定した暮らしと安寧を手にする事が出来た。しかし、それも長くは続かなかった。王妃が謎の病にやられて、日増しに衰弱していったのだ。医者もどんな病気か全くわからず、手の施しようがなかった。エリオは側に居て母が弱っていく様子を見ていたので、その時の絶望と悲しみが心に永遠に消えない深い傷となって残っていた。
もう命が幾許も無いという時に、王妃はまだ幼いエリオを呼んで言った。
「いいですかエリオ、良く聞きなさい。貴方は賢くあってはいけません、勇敢であってもいけません、これから愚か者のふりをしなさい」
「母上、言っている事が良く分かりません……」
「今言った通りよ。この国を救う方法はこれしかないのです。今は何も分からないでしょう、けれどいつか真実が分かる時が来ます。それまでの道のりはとても辛く苦しいものです。貴方はこれから、屈辱に耐える日々を送らなければなりません。今は唯、お母さんの言う通りにするのです」
八歳のエリオにはあまりにも理解し難く、残酷な言葉でもあった。エルザは戸惑うエリオの姿を見て涙を抑える事が出来なかった。母が思うのはエリオに生き続けて欲しいという一つの願いだけだった。
「エリオ、お願いだからお母さんの言う事を聞いておくれ」
涙ながらに言う母の姿は、少年エリオの心を深く抉った。
「わかりました、何があっても母上の言う通りにします! 必ずお約束いたします!」
「ありがとう、エリオ」
エリオが誓いを立てたその瞬間から、エルザは急に力をなくし、すぐに昏睡状態になり、翌日の朝には亡くなっていた。
そこまでの話を聞いたルナリオンとレクサスは、目頭を熱くした。エリオは話を続けた。
「僕は愚か者のふりをしながら、母上の言った事の真意を探っていた。勉強と剣の修行は、誰にも見られないように夜中に起きてやった。そうして成長していくうちに、母上の言う真実が見えてきた。そして僕は確信した、母上は病気で亡くなったのではない、殺されたのだ。恐らく毒殺だろう」
エリオが言うと、その場を一瞬で凍らせるような、寒気のする緊張が走った。ルナリオンとレクサスはどういうことなのかと、何とも言いようのない顔をしていた。
「あの時、誰にとって母上が最も邪魔な存在だったのか、そう考えると答えを見つけるのは簡単だった。今現在、この国を支配している宰相のディオニスだ!」
それを聞いたルナリオンとレクサスは、王子と共に怒りを露わにした。ディオニスの素行から考えても、王子の言う事は間違いないと、二人とも確信した。
「母上が僕に愚か者のふりを強要したのは、僕を生かす為だったのだ。そうでなければ、僕もディオニスの手にかかって今生きてはいなかっただろう。母上がどれ程に僕を愛してくれていたのか、今になってようやく分かった」
その時にエリオが浮べた涙が、レクサスの中に深い印象となって残っていた。
王子から聞いた事を話した後に、レクサスはシェルリに言った。
「十年だ、十年もの間あの聡明な王子が馬鹿のふりを続けてきた。その苦しみがどれ程のものなのか、俺には到底理解する事は出来ない」
シェルリはレクサスの話の途中から泣き出していた。王妃の悲愴な運命、王妃のエリオに対する愛の深さ、母の言う事をどこまでも信じて苦しみに耐えてきたエリオの姿、様々なものに心を揺り動かされ、シェルリは涙が止まらなかった。そしてシェルリは、一時にエリオの事が好きになった。
シェルリ達は、北の森に住む錬金術師の館に、何事もなく着くことが出来た。森の中ではあるが、館の近くにはレインブルグという小さな街があり、利便性はそれほど悪くない場所だった。館に住むのはローデンという翁で、ロディスでは有名な錬金術師だった。
シェルリはレクサスの手を借りて馬から降りると、鉄門の向こうにある館を見つめた。まるで貴族が住むような佇まいの、3階建ての小奇麗な館で、一人で住むにはあまりにも大きかった。
「ローデンという爺さんは、困っている人がいたら助けてくれるって話だぜ」
「優しい人なんですね」
「王子がここに行けって言ったくらいだからな、それなりの大人物なんだろ」
鉄門は開いていたので、シェルリはレクサスと一緒に中庭に入り、館の扉に付いている銅の轡で戸板を叩いた。するとすぐにメイドが出てきて、錬金術師ローデンの所まで通してくれた。客間に案内され長い廊下を歩いている時に、レクサスは妙な違和感を覚えながら言った。
「さすがは王国一の錬金術師だ、良い暮らしをしているな」
客間でシェルリたちを出迎えたローデンは、白髪に白ひげを伸ばした人のよさそうな老人だった。頭には鍔のない丸くて赤い帽子を被り、体を包み込むような白いコープの内側には、金糸や銀糸で技巧を凝らした刺繍の施されたローブが見えていた。
「これはこれは、よういらっしゃいました。旅のお方、このような場所に何の用ですかな?」
シェルリの身の上は隠すにしても、墳血症の特効薬については詳しく話をしなければならなかった。レクサスから特効薬作成の協力を求めると、ローデンは顎髭を触りながら言った。
「確か王宮からお触れがありましたな、墳血症の特効薬と偽って違法な薬を売る輩がいるとか」
「偽ってなんていません! 本物の特効薬です!」
シェルリが息まいて言うと、レクサスは渋い顔をした。シェルリは相手の誘導に引っかかった事に気づいていなかった。それからレクサスは、ローデンを注意深く見つめていた。
――この爺さんは本当に錬金術師なのか? 錬金術師ってのは地位や名誉よりも、研究や実験での成果を求める。しかしこの爺さんは、地位と名誉を重んじている、この貴族被れの生活からもそれは明らかだ。嫌な予感がするぜ……。
老人はレクサスの怖いような視線には気づかずに、髭をいじりつつ人のよさそうな微笑を浮べながら言った。
「ふぅむ、分かりました。墳血症の苦しみから人々を救う事ができるのであれば、協力は惜しみません。例え法を犯す事になったとしてもね」
「ありがとうございます!」
その時、嬉しそうに言うシェルリを見る老人の目に嫌なものが光っていた。それはほんの一瞬、普通の人間には到底分かりえないものだが、レクサスはローデンの心の底を鋭く見抜いた。
「これは失礼、まだお茶も出していませんでしたな。今すぐに用意させますからお待ち下され」
ローデンが席を立って部屋を出ると、レクサスはシェルリの手を強く握って言った。
「逃げるぞ」
「え? どうしたんですか?」
レクサスはシェルリの手を無理やり引っ張って、少女を引きずり出すようにして客間を出た。
「きゃっ!? レクサスさん、何なの!?」
「走れ、シェルリ! あいつはディオニスと繋がってる!」
「どうしてそんな事が分かるんですか!?」
「勘だ! 俺の勘は良く当たるんだ!」
レクサスの言葉にも表情にも鬼気迫るものがあった。シェルリはそれ以上は何も言わず、素直にレクサスに従って逃げた。
二人乗りの馬が錬金術師の館から離れていくと、街の方から馬に乗った騎士が三人現れて、シェルリたちの後を追った。
「くそ、追手に見つかったか。この馬なら二人乗りでもある程度は引き離せるが……」
それにも限界がある、とレクサスは思った。二人乗りのままでは馬がすぐにばてるのは自明の理だ。レクサスは一度追手を振り切ると、丘の上に古びた屋敷が見える場所で止まってシェルリに言った。
「シェルリ、このままでは逃げ切れない。お前は降りて、あの丘の上にある屋敷に向かえ、あそこにもそれなりに名の知れた錬金術師がいる、そいつはきっと特効薬を作るのを手伝ってくれる」
「どうして分かるんですか?」
「勘さ」
レクサスは当たり前のように、そして自信たっぷりに言った。何の根拠もない言葉だが、レクサスの勘の良さは先ほど証明されているので、シェルリは無条件に信用できた。
「レクサスさんはどうするの?」
「俺は戻って、追手をお前から遠ざける」
「帰ってきてくれるんですよね?」
シェルリが不安に満ちた気持ちで、胸の前で祈るように手を組んで言うと、レクサスは余裕のある笑みを浮べて言った。
「帰ると約束はできないな。そんな顔をするなよ、王子がいつでもシェルリの事を見守っている、それを忘れるな」
「はい……」
「早く行けシェルリ、あの屋敷に向かうんだ」
シェルリは丘の上の屋敷に向かって走った。時々、心配そうにレクサスの方を振り返る、その少女の姿は森の木々の中に消えていった。
「さて、いつまでも雑魚のふりはしていられねぇな」
レクサスは馬首を巡らせると、元来た道を辿って疾駆していった。