第10話 神父様と女神の像
その日、夜中にも関わらず一人の少女が教会の門を叩いた。季節は春から初夏に移り、少し蒸し暑い夜の事だった。教会には若い神父がいて、彼は何事かと教会の扉を開けた。
「こんな夜更けにすみません、お祈りをさせて下さい」
教会を訪ねた少女はシェルリだった。
「よろしいですよ。迷える人がいれば、教会はいついかなる時も門を開きます」
「ありがとうございます」
神父は教会に蝋燭の火を灯してくれた。そうすると、闇が払われて神父の姿が露となった。どう見ても二〇代で、短めの金髪に優しい光を湛える青い瞳の聡明そうな青年だった。ダルマティカと呼ばれる長袖の服を着て、腰に青い帯を撒き、白の外套で体を包んでいた。ダルマティカの胸と外套の背中の所には、飛翔する妖精のシルエットが大きく描かれていた。
教会の奥には女神像が見えた。それは目を閉じて両手を広げる女性で、その傍らには背中に鳥や蜻蛉のような翅を持った妖精の像が置いてあり、妖精たちは女神を見上げていた。その様子には女神を崇める妖精と言うよりも、母を求める幼子というような趣があった。女神はエリアノと言い、エリアノ教会は妖精信仰である。エリアノの使いと言われる妖精は、人間と同等の存在とされる。この女神エリアノは数十年前に実在した人物で、彼女は錬金術よりも高次の練命術を完成させ、人工的に妖精を生み出す事に成功した。ロディスから遠く離れたエリアノの故郷の国では、妖精と人間が共存しているという。エリアノの妖精に対する愛は非常に深く、その愛は人間にも結び付いた。エリアノの慈愛に満ちた教えは人々の心を捉え、瞬く間に信仰にまで昇華したのである。
シェルリは女神像の前で跪いて祈った。
――エリアノ様、この世界で墳血症に苦しんでいる人々の為に、どうか貴方の力を御貸し下さい。
シェルリはエリアノに祈りを捧げた後、勇気を奮い起こして言った。
「神父様、エリアノ様は病気で苦しんでいる人々を助けて下さるのでしょうか?」
「もちろんですとも、エリアノ様は弱きものを見捨てはしません。病に苦しむ人々もお救い下さいます」
「それでは、エリアノ様を信じる神父様も、病で苦しむ人々をお救い下さいますよね」
「それはもちろん、何故そのような事を?」
「わたしは墳血症の特効薬を配っている薬売りです。今は騎士団の妨害で薬を配る事ができなくなってしまいました。どうか神父様の知恵を御貸し下さい」
シェルリは告発されても構わないという覚悟で言っていた。若い神父は少し大きく開いた目に驚きを示し、そのまましばらくシェルリを見つめていた。
「……悪魔の病の特効薬があるという話は本当だったのですね」
「これが特効薬です」
シェルリは神父に青い液体の入った薬瓶を見せた。すると神父は言った。
「わかりました、あなたを助けましょう」
「あの、詳しく話を聞いたりしないんですか?」
神父があまりにもあっさり承諾するので、シェルリは逆に心配になって言った。
「僕はこれでも聖職者ですからね、貴方の方が正しい事をしていると分かりますよ。それに、騎士団のあまりに酷いやり方にも憤っていたところです」
「ありがとうございます」
シェルリが安堵と共に深く頭を下げると、神父は微笑のまま頷いた。
「僕はニコルと言います、最近この街に赴任してきたばかりの神父ですよ」
「わたしはシェルリと申します」
「さて、シェルリ、その特効薬をどうやって皆に配るかですが、わたしに考えがあります」
神父は女神像の後ろに行くと、シェルリを手招きした。シェルリが来ると神父は言った。
「実は女神像の中は空洞になっていて、中に物を隠す事が出来るのです」
女神像の後ろ側に小さな扉のようなものが付いていて、神父がそれを開くと中は確かに空洞になっていた。
「ここに貴方の持っている特効薬を隠して下さい」
シェルリが言う通りにして持っている特効薬を鞄ごと女神像の中に入れた。
「これでエリアノ様の直接の加護の元に、特効薬を配る事が出来ますよ」
その時のシェルリには神父が何をしようとしているのか見当も付かなかった。
その翌日から、教会では全ての行事を変更して悪魔の病の平癒を願う会が開かれるようになった。騎士団の妨害によって特効薬を得られない人々は、もはや神に祈るしかなかった。神父はそういう状況になる事を予見していたのだ。そこにちょうどシェルリが飛び込んできた形になった。
悪魔の病に対する祈りは夜通し行われた。騎士団は教会のやる事にまでは介入してこなかった。薬師たちも街に姿を現さなくなり、騎士団の目からは薬師たちが特効薬の配布を諦めたかのように見えた。
ルインは何故か騎士団を動かさずに、ずっと思考していた。ガンドルフ隊が凶行を演じる間も、ルイン隊の騎士達は延々と待機を命じられていた。このような状況ではルインの部下たちが気炎を上げるのも仕方がない。そんな時、副官の初老の騎士がルインの執務室を訪ねた。
「失礼いたします」
彼は机の前で足を組んで考え込んでいるルインに近づいて言った。
「ルイン様、部下たちはもう限界ですぞ」
「……わかっている。今考えがまとまったところだ」
ルインは副官に向かって言った。
「薬師たちはどこかに潜伏している。どこかの地下室か屋根裏にでも隠れているだろうと思ったが、そう簡単ではないだろう。奴らの中には恐らく切れ者がいる。そうでなければ、今まで騎士団の手から逃れてこの街にまで辿り着くことは出来なかった。そんな奴なら簡単に見つかるような場所には隠れまい。普通に探しては絶対に見つけられない、そんな場所にいるはずだ」
ルインは立ち上がると副官に言った。
「この街にいる大工などの建築に関わる者に違法建築の申告をさせろ。申告してきた者には、その罪を赦免とし、褒美を取らせるのだ」
「な、なんですと!? 違法建築の告発ならまだしも、申告してきた者の罪を許して褒美までとらせるとは……」
副官には唖然とした。ルインが何をしようとしているのか、まったく訳が分からなかった。
「告発では駄目だ、褒美を目当てに虚偽を言うものや無関係な情報を持ってくる者が殺到するだろう。赦免と褒美とを引き換えにすれば、申告してくる者もあろう。我々が動くのはそれからだ」
「それで薬師共が見つかるのですか?」
「そうだ」
副官にはまだ訳が分からなかったが、とにかくルインの命令通りに街中の建築関係者にルインの意向を通達した。
その通達を受けた街の大工や土地商人は、最初は罠に違いないと警戒していたが、金に困っていた一人の大工が思い切って違法建築を騎士団に申告すると、本当に赦免と褒美をもらう事が出来た。それを皮切りに、騎士団に次々と違法建築の申告が入って来た。ルインは随時上がってくる報告書に逐一目を通し、時々、これは違う、などと独り言をいっていた。
国王アルラスの病状は悪化のするばかりであったが、思いの外体力があり、血に塗れながらもまだ何とか持ちこたえている状態だった。それには大臣のディオニスは業を煮やした。
「くそ、さっさと死にやがれ、くたばりぞこないの王めが」
ディオニスは自室の窓から街を見下しながら苦虫を噛んだ。国王は医者からもう駄目だと何度か言われていたが、まだ生きている。ディオニスは国王が死んだら、さっさと阿呆の王子を戴冠させて、裏から操ってやろうと考えていた。
「まあ、王が間もなく死ぬことは確実だ。こちらは今後の為にも特効薬に対する締め付けを強くしておくとしよう。これは王宮からのお触れとして通達するのだ、王宮からというのが大切なところだ」
ディオニスは歪んだ笑みを浮べつつ言った。彼から発する空気には、悪意の化身ともいうべき邪悪さがあった。
教会では絶えずエリアノに祈りが捧げられていた。朝から昼になり、夜になり、夜中になっても人々は入れ代わり立ち代わり祈り続けた。その殆どが墳血症の患者と関わりのある者だった。家族の回復を信じて必死に祈る者もいれば、殆ど諦めて患者の安らかな最後を祈る者もいた。夜中になると、シェルリが教会に姿を見せた。シェルリの姿を見つけたニコル神父が頷くと、シェルリは彼に近づいた。
「皆さん、聞いて下さい!」
祈り人を覆う静寂が、神父の声によって断たれた。人々は反射的に顔を上げて神父を見つめた。視線の集まる中、ニコルは言った。
「エリアノ様が皆さんに御恵みを下さいました。ただし、この恵みを受けられるのは勇気あるものだけです。家族の為、愛する者の為にその命を賭けられる勇気のある者には、エリアノ様は救いの手を差し伸べて下さいます」
「おお、神父様、息子の為ならばこの命などいりません、どうか御恵みを下さいまし」
一人の婦人が前に出てきて言うと、シェルリが急いで女神像の後ろにいって特効薬を持ってきた。
「これは墳血症の特効薬です。これを持っていると騎士団に狙われます、それでお持ちになりますか?」
夫人は何も言わずに救われたというような微笑を浮べると、特効薬を手に取ってそれをエリアノの像に向かって高くあげて感謝の祈りを捧げた。そこにいた誰もが、騎士団に屈するよりも、誰かを助ける勇気を選んだ。
貧民街の方でも新たな動きが起こっていた。
ミースは夜中になると街に出て、かつてロディと共に逃げ込んだ廃屋に行っていた。そこにはロディを始め、貧民街から来た人々が密かに集まっていた。そこでミースから薬を幾つか受け取り、更に散った人々が薬を配っていく。全てが夜中から朝方にかけて行われるので、騎士団に見つかる事はなかった。ロディが貧民街の人々に声をかける事によってこのコミュニティが始まった。騎士団の弾圧が激しい程に、人々は知恵を持って更に特効薬を広めていった。
リリナだけは安全な貴族街で特効薬を配る事が出来た。しかし、リリナ自身はシェルリとミースに対して申し訳ない気持ちで一杯だった。二人が身を危険にさらしながら薬を配っているのに、自分だけが安全な所にいるのがもどかしかった。しかし、貴族たちの中にも特効薬を求める人が多く、それを放っておくわけにもいかない。そのうちにリリナは、貴族であった自分にしかできない事をしようと心に決めた。そう思うと示しを合わせたように、一人の少女がリリナの前に現れた。それはある大貴族の邸宅に特効薬を持って行った時だった。ミースが特効薬を渡してから外に出ると、誰かがそれを待っていた。
「薬売りが特効薬を持ってくると聞いて待っていましたの」
腰に細剣を差したブロンドの少女、その凛々しい姿をリリナは知っていた。前にシェルリも会っているルーテシアだった。
「貴方は……」
リリナは思わず顔を伏せた。ルーテシアはそれを何か難しいような顔をして見つめていた。
「貴方、どこかでお会いした事がありません?」
「いえ、わたしには貴族の方に知り合いなんて……」
「ちゃんと顔をお上げになって」
その時リリナは、心に閃くものがあって顔を上げた。すると、リリナを見つめるルーテシアの顔に驚きが広がっていく。
「……あなたはグラニド将軍のご息女では?」
「ルーテシア様、良く覚えていらっしゃいましたね、一度舞踏会でお会いしただけなのに」
「そうなのですね、貴方が薬売りだったなんて驚きましたわ。貴方のお父様の事でも色々と腑に落ちない所があります、良かったら詳しく話を聞かせて頂けないかしら?」
リリナが承知すると、ルーテシアは自分の屋敷にリリナを招いた。ヴァ―ミリオンの邸宅は貴族街で最も大きく、外には何十人という騎士が見張っていて王城さながらの景観だった。リリナは客間に案内された。そこでルーテシアはリリナの向かいに座って、お茶もまだ来ないうちに言った。
「グラニド将軍が王国を裏切ったというのが未だに信じられないのですが、本当なのですか?」
「それは本当です。お父様はわたしの命を助けてくれた方の為に戦って亡くなりました」
「貴方の命を助けてくれた人って?」
「その方はシェルリと言います。ルーテシア様も一度お会いしているはずです、シェルリお姉様からそういうお話を聞きましたから」
それを聞いて、ルーテシアは驚愕した。
「シェルリ!? あのシェルリがグラニド将軍の死と関わっていたなんて!?」
「騎士団がシェルリお姉様を追って来たんです、お姉様を逃がす為にお父様は闘いました。シェルリお姉様は、ずっと騎士団に追われながら特効薬を配り続けてきたのです。たくさん悲しい思いをして、今だって苦しんでいます。どうして薬王局は特効薬を認めてくれないのでしょうか!? どうして騎士団は特効薬を摘発するのですか!? 誰が何のためにこんな酷い事をするのか訳が分かりません! 大貴族のルーテシア様なら、何か知っているのではありませんか!?」
リリナは我知らず語気を強くしていた。
「残念ながら、わたくしは何も知りませんわ」
「そう、ですか……」
リリナが失望して俯いた時に、ルーテシアが怒りを含んで言った。
「何も知りませんが、何がシェルリを邪魔しているのかは想像がつきます。この件に関しては、わたくしが調査しましょう。妹の命を助けてくれたシェルリへのお礼も兼ねてね」
「妹様、助かったのですね!」
「ええ、シェルリにありがとうと伝えておいて下さい」
「はい、きっとお姉様喜びます」
それからリリナは、お茶も飲まずに屋敷を後にした。まだ薬を配っている途中だったので急がなければならなかったのだ。リリナがいなくなると、後に残ったルーテシアは言った。
「闇に潜んで特効薬を握りつぶそうとしている者たちは叩かなければ、今に見ていらっしゃい」
この頃、王宮からさらなるお触れがあった。特効薬を持つ者や薬師の居場所を告発した者に褒美を取らせるという内容であった。これにより、善意と悪意のせめぎ合いはより激しさを増す事になった。
王宮からの新たなお触れによって、ロディスの城下街は混迷の度合いをより一層深めた。特効薬を持っていないのに墳血症の患者がいるというだけで告発されたり、特効薬と全く無関係の薬師が告発されたりもした。騎士団は騎士団で、ろくに調査もせずに告発された者たちを一方的に捕まえ、抵抗する者は容赦なしに叩き伏せた。
教会での特効薬の配布は続いていた。教会で特効薬が貰えると言う噂は密かに人々の間に広がり、夜中には多くの人々が教会に集まってきた。そういう日が何日か続き、これで皆が安心して特効薬を手に出来るとシェルリは思っていた。
それは、満月の日の夜、闇深き街を心安らぐような淡い光が包み込んでいた。真夜中の教会も、まるで女神に祝福されているかのように優しい光に満ち溢れていた。シェルリはそんな教会の中で希望する者に特効薬を配っていた。その外で不吉な気配がしている事には、誰も気づくことが出来なかった。何人かが特効薬を貰って、その感謝の気持ちを女神像に向けて祈りとして捧げていたその時、教会の扉が必要以上に大きな音を立てて開いた。その瞬間、教会の中にいた人々は何が起こったのか理解できなかった。騎士達が教会に雪崩れ込んできてきて、特効薬を求めてやってきた人々はたちまち混乱した。
「貴様ら動くな!」
一人の騎士が発した怒号に反して、ニコル神父は一人一人に鋭く突き刺さるような鋭さを持って叫んだ。
「王国騎士団です! 皆さんどこからでも良いから逃げて下さい!!」
人々は騎士の静止よりも神父の指示に従った。特効薬を持つ者は殺されてもおかしくはないのだ、人々は教会の裏口に向かったり、近くの窓を割ってそこから逃げ出したりと、何とか騎士団から逃れようと必死にあがいた。騎士達は近くにいる民衆を片っ端から捕えていく。中には逃げ惑う人々を斬殺する騎士もあった。
シェルリは混乱の渦と化した教会内を呆然と立ち尽くして見ていた。
「どうして騎士団がここに……」
「シェルリさん、貴方も早く逃げるのです!」
「神父様、どうして騎士団がここに来るんですか……?」
ニコル神父は未だに呆然としているシェルリの肩を強く掴んで言った。
「告発されたのですよ。報酬欲しさに、誰かがここで特効薬を配っている事を騎士団に言ったのです」
「そんな、人の命よりも報酬の方が大切だって言うんですか……そんな人がいるなんて……」
愕然とするシェルリの目に涙が溢れた。ニコルはそんな少女に優しく語りかけた。
「光もあれば闇もある、それが人間というものなのです。シェルリさん、貴方は光だ。だから、こんな所で捕まってはいけません。さあ、早く裏口へ!」
「神父様は!?」
「わたしの事は気にしないで、シェルリさんは必ず生き延びて下さい!」
裏口から逃げようとする人の流れが押し寄せてきて、シェルリはその流れに巻き込まれて神父と離れ離れになった。それからの事は必死で周りを見る余裕などなかった。シェルリはどこをどうやって逃げてきたのか自分でも分からなかったが、いつの間にか隠れ家に辿り着いていた。ニイナは奥で特効薬作りに没頭していて、リリナとミースは先に帰っていて既に眠っていた。シェルリは教会で起こった事の整理がつかず、ニイナに話をしようという気になれなかった。疲れも深かったので、シェルリはベッドの上に倒れ込んでいた。それから眠りに落ちる直前に、ニコル神父がどうなったのかが気になった。今のシェルリには、神父や教会にいた人々の無事を祈る事しか出来なかった。




