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フロスブルグの薬売り  作者: 李音
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    フロスブルグの白き乙女2

 街は怖気に満ちていた。歩いているだけで背骨の芯を震わせるような恐怖が突き上げてくる。まるで恐ろしい魔物がそこかしこに潜んでいるような、そんな空気だった。シェルリは歩きながら、フロスブルグを襲った恐怖を思い知った。街の人々が苦しみ、逃げ惑う姿が目に映るように思える。

 街を縦横無尽に走る通路に人気はなくどこまでも閑散としていた。そんな中を歩いていたシェルリは、急に嫌な臭いに鼻を突かれて立ち止まった。路地と言うよりも、建物と建物の間にできた人一人が通れるかどうかの隙間からその臭いは流れてきていた。今では嗅ぎ慣れた異臭でもある。シェルリはその暗く深い隙間にあるものに恐れと予感を抱いて近づく。僅かな隙間から刺す陽光にその一部が照らし出されていた。それを見てシェルリは息が止まった。隙間に隠されるようにして死体が折り重なっていた。誰かが処理しきれない遺体を詰め込んだのだ。街としての機能を失っているフロスブルグでは、死体を人目に付かないようにするのが精一杯だったのだろう。シェルリはそれから目を背けてその場から逃げるように駈け出した。それから水路の前で止まり、清涼な水面に自分の顔を映して見た。自分の顔は青ざめていて体は震えていた。ふと、シェルリの脳裏に母アリアの姿が浮かんだ。いつかの母は酷い惨状の死体を冷静に見つめていた。そんな母の姿を思い出し、シェルリは思った。これではいけない、わたしはこの惨劇から目をそむけてはいけない。お母さん、わたしに勇気を下さい。シェルリは自分を奮い立たせ、再び歩き出した。

 静寂の街にシェルリの足音だけが響く。どこか遠くの方から呻き声のようなものが聞こえるような気がした。シェルリはそれに向かって歩を進める。恐ろしい敵に敢然と向かっていくように、少女の足は強く大地を踏みしめていた。

 細い路地に入ると、そこは左右に古びた小屋が並列する貧民街だった。シェルリがそこを進んでいくと、視界の隅に何かが過ぎった。立ち止まり視線を後ろに戻すと、一つの小屋の窓が開け放たれていた。シェルリはその窓から中を覗いた。奥にベッドが見えていて、誰かが寝ているようだった。奇妙な事に、そのベッドの主以外に誰もいない。出入り口のドアも開けっ放しだった。

「あの、どなたかいませんか?」

 堪える者はない。シェルリは中に入ってベッドに近づいた。そこに寝ている者を見た時、シェルリは余りに酷い光景に目を覆った。ベッドには腐乱して半分ミイラのようになった子供が寝ていた。赤黒く乾いた血がベッドの下まで広く深く沁み込んでいる。

「ああ……あ……エ…レーナ……」

 それは確かに人の呻き声だった。隣の家から聞こえてくるようだ。シェルリははっとして振り返り、今度は隣の家のドアを叩いた。誰も出てくる様子はないが、半分腐りかけた木板の向こうから誰かの声が聞こえていた。シェルリは躊躇せずに中に入って声のする方に足を運んだ。奥の方で先ほどの子供と同じように墳血症にかかった老人がベッドに寝ていた。今度は生きているが、生きているだけに惨状は先ほどの子供よりも酷かった。頭部にある穴と言う穴から血が溢れ出て流れ放題になっていた。枕はもう血で真っ赤に濡れているし、口の中の出血が酷くてまともに喋る事もできなかった。

「あ……が……」

「おじいさん、今血をふき取ります」

 ベッドの下に新しい布切れが用意してあった。シェルリはそれを使って老人の口の中の血を吸出し、それから顔中の血をふき取り鼻や耳の中まで綺麗に血を吸いだした。その作業だけで小一時間もかかった。

「エレーナ、ありがとよ」

 老人はもう目が見えていないようで、シェルリをエレーナと言う人と勘違いしていた。シェルリはあえて何も言わずに老人が出した手を握った。

「もういい、この街を出ろ、お前達まで死ぬことはない」

「……薬があるんです。おじいさんの病気は治ります」

「薬? もうそんなものはいらん、わしは助からん」

「大丈夫、助かりますよ」

 シェルリが鞄から特効薬を取り出すのとほぼ同時に老人が身体を仰け反らせて猛烈な呻き声をあげた。

「むおお!? おおおっ!!」

「おじいさん!?」

 むせ返るような生臭さが唐突に鼻腔を刺激する。老人のベッドの下から赤い物が広がりつつあった。シェルリは老人の掛布をまくると戦慄した。老人の尻の下に夥しい量の赤が溜まっていた。それは血便などではなく、純然たる血の赤だった。

「おうおう……エ……レナ……」

 最後の力で上げた皺だらけの手をシェルリが握ると、老いた体から力が失われた。老人は血を下して死んだ。シェルリは老人を助けられなかった悔恨と、目の前にある(むご)い光景に体が震えた。墳血症での死の瞬間を目の当たりにするのは初めてだった。話には聞いていたが、見るのと聞くのとでは全く違う。こんなにひどい死に方があるなんて、そう思わずにはいられなかった。

「……エレーナさんと言う人を探さなきゃ」

 シェルリは老人を置いて外に走り出た。その瞬間に何者かとすれ違う。シェルリが止まって振り返ると、相手も全く同じ事をした。腰まである長いブロンドを三つ編みにしていてるその女性は、純白の衣服を身にまとい輝く優しげな碧眼でシェルリの事を見つめていた。シェルリにはその人が修道女だとすぐに分かった。

「どなたですか? おじいさんの知り合いの方かしら?」

「もしかして、エレーナさん?」

 女性は頷くと言った。

「おじいさんから聞いたのね。貴方はおじいさんの家族の方?」

「いえ、違います。たまたま通りかかっただけなんです。あの、おじいさんは……」

「おじいさんがどうかして?」

「……さっき亡くなりました」

 それを聞いたエレーナは少しだけ目を見開き衝撃を表した後に、今度は微笑を浮べて静かに言葉を紡いだ。

「そうですか、貴方が看取ってくれたのね」

「もう少し早く来ることが出来れば助けられたのに……」

 シェルリが呟くように言うと、エレーナはとても不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに平静に戻って老人の家に入り、シェルリもその後をついていった。

 エレーナは亡くなった老人の手を胸の上に乗せてから、両手を組んで祈りを捧げた。

「おじいさん、ようやく苦しみから解放されたのですね」

 エレーナの目じりから涙が零れ落ちた。

「さようなら、おじいさん」

「あの、このままにして行くんですか?」

 シェルリが言うと、エレーナは悲しそうな眼をして頷いた。

「人手がないので、ここに置いていくしかないの。男性は墳血症を恐れて皆逃げてしまいました。フロスブルグに残っているのは、数十人の墳血症の患者と、それを世話する女達だけですから」

「そんな、どうしてそんな事に……」

 シェルリは想像を越えたフロスブルグの状況に絶句してしまった。

「貴方は何も知らないのですね。王宮からフロスブルグの外に墳血症の患者を出してはならないという勅命が下っているのです。墳血症の疑いのある人が外に出てその場で騎士に斬殺された事もありました。ですから外に治療を求める事も出来ません。この街の薬師もみんな逃げてしまったので、薬すらないんです。墳血症にかかった人の殆どが家族にも見捨てられて置き去りにされました。この街は墳血症の患者にとって、死を待つだけの監獄です」

「酷い……」

「もう行かなくてはなりません」

「エレーナさんは墳血症の人達の世話をしているんでしょう、わたしも手伝わせて下さい! わたし墳血症を治す薬を持っているんです!」

 エレーナは疑わしいような目でシェルリを見つめていた。

「貴方は先ほども気になることを言っていましたね、おじいさんを助ける事が出来たとか。本当にあの恐ろしい病を治す事が出来るのですか?」

「これが墳血症の特効薬です」

 シェルリが鞄から青い薬の入った瓶を出すと、エレーナはそれを見ると言った。

「貴方の言っている事が真実なら、一緒に来てください。病院に案内します」

「病院ですか?」

 フロスブルグに病院と言う程の施設は存在しない。シェルリどう言う事かと考えると、エレーナがそれを見透かすように言った。

「正確には教会を病院として使っているのです」

 シェルリとエレーナは、並んで誰もいない街を協会に向かって歩いていく。

「貴方の名前を伺ってもよろしいですか?」

「シェルリです、シェルリ・フェローナ」

「シェルリさんですね。病院は言語に絶するほど酷い状態です。今から覚悟をしておいて下さい」

 先ほどの老人の死からも、墳血症の患者が集まる病院の状況が悲惨であることは想像に難くない。シェルリはそんな病院で患者の世話をする女達や、街が廃墟と化した時の状況など、気になる事を歩きながら話した。

「わたし一月位前にフロスブルグに住んでいました。帰ってきたらこんな状態で、何て言っていいのか……」

「驚きますよね、一月で街が廃墟になっているんですから。墳血症が急激に街に広がり始めて、人々は混乱し始めました。最初に貴族たちが次々と他の街に逃げだして、それからフロスブルグは悪魔に魅入られているという噂が流れるようになりました。根も葉もない下らない噂ですけど、それは人々が墳血症という恐怖の対象に原因を求めた結果なんです。そして王宮からの勅命があり、それが決定的な打撃となりました。悪魔の棲む街にはいられない、人々は口ぐちのそう囁きながら街から逃げて行きました。そうして墳血症の患者だけが街に取り残されたのです。酷い話だ思うでしょうけど、患者の家族の方だって見捨てたくはなかった。でも、誰だって死にたくはありません、生きていたいと思うのが当然です。わたしには患者を見捨てていった人たちを責める事はできない」

 突然エレーナは立ち止まり、通り沿いにあるパン屋のガラス窓をなでた。店舗の向こう側は荒れていて、もちろんパンなど一つもなかった。

「このお店にも墳血症の女性がいました。一家の母親だったのです。彼女は家族に言いました、自分を置いて逃げるようにと。父親は嫌がる息子と娘を無理やり引きずって、街から出ていきました。お母さんは先日亡くなりました。墳血症の恐怖と戦い続け、最後まで生き残った家族を希望にして生きていた」

 エレーナが振り返ると、シェルリは胸が締め付けられた。本当に胸をぎゅっと鷲掴みにされたような、そんな痛みだ。エレーナの瞳が涙で潤みを帯びていた。その瞳とエレーナの姿から、彼女の底にあるものの大きさが伝わった。この人はどれ程の悲しみと苦しみを背負ってきているのだろう。シェルリには想像も出来なかった。

「わたしはこの街で多くのものを見てきました。人間の悲しみも、苦しみも、そして醜さ、美しさ、尊さまで。この街で起こったことは、わたしにとっては悪い事ばかりではありません。人間という存在は素晴らしいと、心の底から思えるようになりました」

「すごい、エレーナさんはすごい人なんですね。だから、逃げないで皆のお世話をしているんですね」

 シェルリが尊敬を込めて言うと、エレーナは首を横に振った。

「教会の神父様が墳血症には神の威光も届かないと言って、共に逃げようと言いました。わたしも一緒に逃げようと思いました。死にたくない、もっと生きていたいって。でも、このパン屋さんのお母さんを見て、動けなくなってしまったのです。ああ、わたしにはこの人達を見捨てて行く事は出来ないって思いました。そう思うと、死ぬことが怖くなくなりました。そういう女性が何人もいて、この街に残って墳血症の患者のお世話をしています」

 エレーナは、逃げずに街に残ると言ったときの神父の顔を思い出していた。神父は無言で訴えていた、お前が逃げなければ、わたしも逃げられないではないか! お前と共に死ねと言うのか! そういう言葉が表情を通してエレーナにぶつけられた。その時にエレーナは微笑して言った。『神父様には神の御威光を伝えると言う尊き使命があります。だから、わたしの事は気にせずに行って下さい』、神の為にと言われれば、神父は安心し、いかにもやむなしという呈を作って逃げていった。それも含めてエレーナは人間の様々な部分を垣間見てきた。

 シェルリは急に言い様もない気持ちに襲われると、涙がこみあげて顔を覆って泣き出した。

「どうしました?」

「わかりません、エレーナさんのお話を聞いていたら、急に涙が……」

 本当に訳が分からない涙だった。咽びあげ零れるシェルリの涙は、感涙とか悲哀とか、そういったものとは次元が違う。エレーナの中に太陽のように温かく眩しいものを感じた。それはシェルリの知らなかった、人間の根源を成す部分、死から逃げようとしていた人間が、苦しむ人を見て次の瞬間には死を超越する。それは崇高であるとか尊敬できるとか、そんな言葉では言い表し様のないものだった。シェルリは泣きながら、さっきエレーナの事をすごい等と簡単な言葉で褒めた事を後悔した。

 エレーナは泣いているシェルリに白いハンカチを差し出した。

「シェルリさんなら、墳血症の患者と向き合う事ができるでしょう。今の貴方の姿を見て、それを確信しました。共に行きましょう」

 シェルリはエレーナからハンカチを受け取り、涙を拭きながら頷いた。


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