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フロスブルグの薬売り  作者: 李音
1/32

プロローグ アリアの薬

 ロディス王国領フロスブルグで突然発症した流行病は墳血症と呼ばれ人々から恐れられた。その症状は、風邪に似た寒気と発熱から始まり、症状が進むと熱が高まり鼻から微量の出血が起こる。そこから坂を転げ落ちるように症状が悪化し、弱い粘膜の部分から次々と出血が起こるのだ。鼻、耳、歯ぐき、最後は目からも涙のように血が流れ、そして内臓での出血が致命傷になって最後は血を下して死ぬ。原因は分からず、健全な大人でも致死率は4割から5割、年寄と子供に至っては致死率は9割に近かった。ロディス王国には古来より薬王局という薬の研究と医療機関の運営を行う省庁が存在したが、薬王局が推奨する薬でも墳血症の治療は不可能であった。フロスブルグの人々は墳血症を悪魔の病と言って絶望し、家族や友人の悲惨な死を悲しみ涙に暮れながら見守る事しかできなかった。もはや成す術もなく、墳血症はフロスブルグ周辺の地域へと広がって行った。


 アリアはフロスブルグの郊外で娘と共に小さな薬屋を営む薬師であった。アリアは、娘と共にフロスブルグを歩いていた。酷い街の惨状に、娘の方は度々目をそむけた。

「酷いわ……」

 溜息と共に言うアリアの赤味を帯びたショートボブの銀の髪、一見すると桃色のようにも見えるそれが風に靡いた。潤みを帯びた碧眼と髪型のせいか若く見えるが、十四歳の娘を持つ母で、三十四歳になる。娘の方も母と同じ色の髪で、腰まである長い髪の一部を右の頭部だけ緑のリボンで結ぶ可愛らしいサイドテールを揺らしていた。二人とも旅装でコートを着ていた。季節は春の初めだったが、この日は寒くて親子が息を吐くたびに宙が白く曇った。

 アリアとその娘の視界に映るのは死者の園、死体が町中に転がって、酷い臭いを放っていた。流行病の侵攻のせいで、もはや行き倒れの死人を片付ける労力すらないのだ。

 アリアはすぐ近くに家の壁にもたれかかって死んでいる男に近づいた。彼女はかがみ込んで死体を良く検証した。

「シェルリ、貴方もこちらへきてよく見なさい。この方は病で亡くなったのよ、それを直視できないと言うのでは、薬師にはなれませんよ」

「……はい、お母さん」

 シェルリと呼ばれた少女は、恐る恐る男の死体に近づいて、母の隣にしゃがんだ。その時点ですでに腐臭が酷く吐きそうになって口を両手で押さえてしまった。アリアが死体の髪を上げると、その惨状が明らかになった。死後二週間というところだろうか、目、鼻、口、耳から流れた多量の血が固まって、流れた血の軌跡を克明に残していた。半開きになった目から白く濁った眼球が見えていて、股間から尻にかけて赤い染みが広がり、まだ血が流れ出ているのか、尻の下の衣類は濡れていた。シェルリが耐え切れずに立ち上がって後ずさると、アリアは厳しい目で言った。

「あなたは薬師になる気があるの?」

「そ、そんな事いったって、こんなの無理だよ、見れないよ」

 アリアは失望の混じった溜息をついて立ち上がる、その時に近くの家から女の泣き叫ぶ声が聞こえた。

「おお、どうしてこんな酷い事になるの!!? 息子がなにをしたと言うの!!? 神様、どうか息子を助けて下さい!!! 息子の代わりにわたしを殺してください!!!」

 悲痛な女の声が街の外にまで聞こえてくる。外を歩いていた人間は何人かいたが、皆が無気力になっていて誰も関心を示さなかった。その中でアリアは颯爽と歩いていく。シェルリは慌てて母の後を追った。アリアは女の声が聞こえた家のドアを叩いた。

「どなたですか……」

 ドアを少しだけ開けて、疲れ果て、泣きはらした顔の女が姿を見せた。

「わたしは薬師です。貴方のお子さんの病気が治せるかもしれません、お子さんを少し診せて頂けませんか?」

「本当ですか!?」

 女は藁にもすがる思いでアリアを中に入れた。一緒に入ったシェルリは、奥で寝ている少年の姿を見て息が止まるような思いがした。あまりにも痛々しい姿だった。血をふき取って赤く染まった白い布が何枚も床に落ちていた。ベッドも流れ落ちた血でかなり汚れている。母親はつきっきりで、少年の患部から流れる血をふき取っていた。

「墳血症の名の通りね、酷い病気だわ」

 アリアは少年の様子を見た後に、透明の青い液体の入った小さな瓶を出した。それはアリアが思考を重ね、寝る間を惜しんで作った集大成とも言える薬だった。

「この薬を一日に朝、昼、晩、三回飲ませて下さい。量は小匙一杯程度よ」

「これで、治るのですか?」

「分かりません、実を言うとまだ動物でしか臨床を行っていないのです。墳血症で死にかけた犬や猫には効きました、薬王庁の薬よりは遥かに希望があるわ」

「ありがとう、ありがとうございます、貴方のお名前を聞かせて下さい」

「わたしはアリア、田舎で小さな薬屋を営んでいるわ」

 そう言う母の姿が凛々しくて、シェルリは胸を高鳴らせた。少女は自分も母のような薬師になりたいと、心から思った。

 外に出ると、アリアは娘に言った。

「店を街に移しましょう、そうしなければ、街の人々を救う事は出来ないわ」

 シェルリはお日様の如く輝くような笑顔を見せた後に言った。

「お母さん、きっと、これから忙しくなるよね」

「そうね、忙しくなるわよ、シェルリ」


 流行病で多くの人が亡くなったフロスブルグでは、家族が病で全滅して空き家になっているような所も少なくなかった。そのせいでアリアはただ同然の家賃で薬屋の店舗として街の一軒家を借る事が出きた。その店舗では菓子などを販売していたが、流行病を恐れて一家で他の街に移住してしまったのだと言う。それは街の中央広場の真ん中にぽつんとある家で、目の前で噴水を見る事が出来た。この町では汲み上げた地下水を街の四肢に行き渡らており、この噴水はその中心部だった。普段はたくさんの出店と人で賑わう場所だが、今は閑散としていて、あるのは行き倒れになった数人の死体だけだった。辺りは酷い有様なのに、噴水だけが美しく穢れのない水の輝きを辺りにまき散らしていた。それは寒気のするような異様な光景だった。

 それから街で店を開くとすぐに一人の婦人が訪ねてきた。それは瀕死の息子の前で泣き叫んでいたあの夫人だった。

「ああ、あなた、お礼が言いたくてずっと探していたんです」

 夫人はアリアに会うなり言った。

「息子さんは元気になったのですね」

「はい、あの薬が悪魔の病を消し去ってくれました。もう血も出ません、食事も出来るようになりました、本当に何とお礼を言っていいか……」

 涙ながらに言う夫人を目の前にして、アリアの気持ちは燃え上がった。夫人の訪れは、悪魔の病との戦いを開始する狼煙となった。

 夫人が去ると、アリアは何を思ってか店を閉めた。

「シェルリ、街に出るわよ、薬をたくさん鞄に詰めなさい」

「はい!」

 シェルリは言われた通りに青い薬の入った小瓶を鞄に入れた。親子二人、街に出て悪魔に病に対して攻勢に出ようと言うのだ。

 アリアは薬師としての井手達で街に出た。彼女は頭に白い羽根飾りの付いた黒の丸帽子を被り、上着は肩に膨らみのある藍色の長袖のカートル、上着の胸の辺りが大きく開いていて、そこからボタン付きの白いブラウスが見えていた。スカートも上着と同じ藍色で、足首まで届く長いものだ。一方、シェルリの方は桃色の半袖のカートルに白のミニスカート、野に咲く花の模様が入った若草色のショートマントを背にし、足には白いひもの付いたブーツ、両の手首にはホットピンクの小さな花飾りの付いた薄緑色のカフスという、母とはまたったく対照的に明るく可愛らしい姿だった。そして親子二人同じ鞄を持っていた。

 アリアはまず、行き倒れになっている人々に薬を与えた。街中で倒れている人は大半が死んでいたが、まだ生きている人も少なくなかった。薬屋の周りにいる病人だけで、七人もいた。それからアリアは街中に出ると声を張り上げた。

「ここに悪魔の病を治す薬があります! ただで差し上げますから、どうぞいらして下さい!」

 シェルリはそんな母の姿を見て、心が震えた。シェルリは知っていた、この薬をただで配るということは、財産を投げ捨てるのと同じ事だった。薬の材料は多種多様であるが、その中には高価な材料がいくつもあった。アリアはそんな事には構わず、人々の命を救う事を最優先とした。

 アリアの元に人々が集まったのは言うまでもない。誰もが半信半疑であったが、少しでも希望があるならと、薬を手にしていった。さらにアリアは、シェルリと一緒に街中の家の扉を一件ずつ叩いて回った。そこに墳血症の人がいれば薬を置いていった。そうしてあっという間に一日が過ぎて言った。それから何日か経つと、驚くような事が起こった。


 朝、シェルリはアリアと共に早くから起き出して、店の掃除をしていた。まだ早朝だと言うのに、外が騒がしかった。何かと思ってシェルリが店のカーテンを開けてみると、外が人々で埋め尽くされていたので驚いて目を丸くした。

「お母さん、大変! 外に一杯人がいるよ!」

「そろそろ来る頃だと思っていたわ、薬を買いにきたのよ」

 アリアは腕まくりをすると言った。

「シェルリ、これからは戦いよ!」

 店を開けると、人々は口々に奇跡の薬を下さいと言ってきた。アリアの薬をもらった人たちは漏れなく墳血症を克服し、その噂が瞬く間に街中に広がったのであった。

「おかあさん、今度もただで薬を配るの?」

 薬を求める人々を目にしてシェルリが言うと、アリアは目を閉じて首を横に振った。その姿は辛そうで、薬を求める人たちに対して申し訳ないという気持ちが現れていた。

「薬を作る為には材料費が必要よ、それに最低限わたしたちの生活費は稼がなければならないわ」

 現実として、材料費と生活費を稼がなければ、薬を作り続けて人々を病から助ける事は出来なかった。生活費は大した額ではないが、薬の材料費が膨大だった。値段を生活費と材料費を稼ぐだけの最低限の値に設定しても、薬一つが一般的な街人の半月の生活費くらいの値段になってしまった。それでも並みの生活をしている人は無理をしてでも買った。しかし、誰もが薬を買える状況ではなかった。貧困に喘ぐ夫人の一人は、病に苦しむ娘への救いを目の前にして、泣きながら帰ろうとした。アリアがそれに素早く近づくと、絶望で深く沈んでいた夫人の顔が、反転して希望の溢れる笑顔になった。アリアは、貧乏で薬の買えない者には、密かに無償で薬を手渡していた。金を払ったり払わなかったりする人がいるのは差別的だが、アリアには救える命を見過ごす事など出来なかった。

 店で薬を売り始めてから三日、客足は途絶えることなく、隣街からも薬を買いに来たし、貴族等も姿を見せるようになった。そして、たった三日間、薬を売っただけで、アリアたちの周りに明るい兆しが見え始めていた。何となくだが店の周りに住む人々が明るくなり、活気づいてきたのだ。


 店を開いて四日目の朝、シェルリとアリアは店を開ける前に朝食を取っていた。サラダに丸パン一つと一杯の牛乳という質素な食事、薬を作る為に食費も出来るだけ切り詰めていた。シェルリには食事の質素さなど気にならなかった。憧れの母と食事をすること自体が楽しかった。

「お母さん、お薬一杯売れてよかったね」

「そうね、売れた薬の分だけ人の命が助かるという事だものね。あと一ヶ月も薬を売り続ければ、フロスブルグは大きく変わるでしょう、でも……」

「どうしたの?」

「薬の材料が足りないのよ、順当に薬を売ったとしても、あと一週間で材料が底を尽きるわ」

 本当であれば、そんな事はないはずであったが、薬の買えない人々に、アリアが無償で薬を与えた分が大きく響いていた。アリアとしては誰も見過ごすわけにいかないので、非常に悩ましい問題だった。

「薬が作れなくなったら大変だよ、どうしよう……」

「大丈夫よ、ちゃんと考えてあるから。薬王局に薬のレシピを渡して、代わりに薬を作ってもらうのよ」

「そうか! 薬王局なら絶対に協力してくれるよね!」

「ええ」

 アリアは喜ぶ娘に微笑して答えた。

「よ~し、今日も薬を一杯売るぞ~」

 シェルリは食事が終わると、拳を突き上げて言った。

 朝食を終えたシェルリが意気揚々と店のカーテンを開けると、外の光景を見て首を傾げた。昨日まで埋め尽くすほどにいた客は一人もいない。その代わり鎧兜に剣を持った騎士たちが店を囲んでいた。シェルリはその時、騎士たちが母を褒め称える為に来たと思った。沢山の命を助けたお母さんに、称号でもくれるのかもしれないと、胸を躍らせながら言った。

「お母さん、外にたくさんの騎士様がいるよ」

「騎士ですって? お客様の様子はどう?」

「お客さんは一人もいないよ、騎士様だけが外に並んでる」

 アリアはそれを聞くと、表情を硬くして、素早く店の窓辺に寄って、少しだけカーテンを開けて外の様子を見た。アリアの目には、物々しい様子の騎士たちが異様に恐ろしく見えた。それからアリアは窓から離れ、シェルリの手を取って小走りで家の奥へ連れて行った。

「お母さん、どうしたの?」

 この時になって、シェルリは不安になった。良くは分からないが、何か非常な事が起こりつつあることを肌で感じた。

「シェルリ、地下室に墳血症の特効薬を隠すのよ」

「どうしてそんな事するの?」

「念のためよ、お母さんの考えすぎならいいのだけれど」

 シェルリはそれ以上は何も聞かずに、黙って母を手伝った。地下室とは言っても、床下にある収納スペースなのだが、蓋の部分が床と同化するようになっていて、そこはシェルリとアリア以外には分かりえない場所だった。シェルリが薬を店からどんどん運んできて、アリアがそれを地下室に隠した。そうしているとすぐに、店の扉が激しく叩かれ、何者かがアリアの名を叫ぶ声が聞こえた。

「急いで、シェルリ」

「これで全部だよ」

 アリアは娘が息を切らして持ってきた数個に瓶を床下に詰めた。薬の入った小瓶が全部で百個程あった。

「それから、このイヤリングをあなたにあげるわ」

 アリアは自分の突けていたイヤリングの片方を取って、それをシェルリの右の耳に付けた。それには正三角八面体のクリスタルが付いていて、その中には青い液体が入っていた。

「このイヤリングには墳血症の特効薬が入っているわ、もしかしたら何かの役に立つかもしれないわ」

「どうして今そんな事を……」

 シェルリは訳が分からず母を見上げると、アリアは娘に愛を降り注ぐような眼差しで微笑した。

「そのイヤリング、良く似合っているわよ」

 その時、店の扉が外から叩き壊されて弾け飛んだ。その音は店の奥にいた親子を震わせた。

「シェルリ、貴方は物覚えが良いから、特効薬の材料は分かるわね」

 シェルリは怖くて声が出せなくなり、頷きだけで答えた。その間に、騎士たちが店になだれ込んできて、床を強く踏みしだく足音と一緒に人の気配が近づく。

「あと、薬の調合法はお母さんの書斎の本に書いてあるから」

 アリアがそこまで言った時に、騎士たちが現れた。アリアは無意識に娘を強く抱きしめて、自分たちを囲んでゆく騎士たちに鋭い視線を送った。

「何事ですか! 秩序を守る騎士たちがこのような乱暴な行為に及ぶなど、恥を知りなさい!」

「これは失礼いたしました。いくら呼んでも返事がなかったもので、少々無理に入らせて頂きました」

 一人の騎士が重厚で重みのある男の声で言いながら前に進み出た。彼は兜を脱いで素顔を見せた。銀の鎧を着た男は、シェルリの目からすると、山を見上げるような長身だった。いかつい顔に冷然とした青い目が母娘を見下ろしていた。

「わたしはロディス王国将軍のグラニド・ベルクと申します」

「将軍!? 何故そのような方がこんな無法な事を!?」

「あなたがそれだけ重大な罪を犯したということですよ」

 それからグラニドは抑揚のない低い声で言った。

「アリア・フェローナ、お前は薬王局で認められていない薬を違法に販売した、その罪によりお前を拘束する」

「そんなはずはありません! あの薬は薬王局に申請を出して、ちゃんと認められているわ!」

「確かに申請はされているようですが、認められてはいません。何らかの行き違いがあるのかもしれません、取り調べをすれば全ては明らかになるでしょう」

 冷たく機械的に言い放つ将軍の前で、アリアは黙った。彼女は将軍の後ろに恐ろしく邪悪で大きな黒い影を見たのだ。

「……わかりました、では取り調べをして下さい」

「お母さん……」

「大丈夫よシェルリ、すぐに帰ってくるから待っていなさい」

 アリアは騎士たちに引き立てられて店の外に出た。近くの家々の窓から、住人達が気の毒そうにアリアを見ていた。

「お母さん!」

 涙交じりの娘の声に、アリアは振り向いた。シェルリが壊されたドアの所に立って、連れて行かれる母を見ていた。少女は唐突襲ってきた悲しい出来事に、小さな体を震わせて涙を流していた。アリアはもう一度すぐに帰ると言おうとしたが、言葉に詰まった。すぐには帰れない、それどころかこれから自分がどうなるのかさえ分からない、そういう気持ちが現実となって押し寄せてきたからだった。小さな薬屋にいきなり一国の将軍がやってくるというのは、あまりにも異常すぎた。アリアには何か恐ろしい力が将軍を動かしている事が手に取るように分かった。アリアはこれからの自分の身の上よりも、たった一人残されるシェルリの方が心配でたまらなかった。


 その後アリアに待っていたのは取り調べではなく、薬王局の局長との対面だった。アリアは両手を後ろ手に縛られた状態で、薬王局の執務室に連れて行かれた。事前に命令があったのか、アリアを連行してきた騎士たちは執務室の外に立ち、部屋には局長とアリアの二人だけが残された。

「驚きましたね、罪人の名がアリアと言うのでまさかと思いましたが、やはり貴方でしたか」

「レイスレイ・キール……」

 アリアは怪訝な顔でかつての教え子の名を口にした。レイスレイは眼鏡をかけ、長い銀髪を後ろで結わえた優男で、ひ弱そうに見えるが眼鏡の奥の眼光は鋭く、体全体からあふれ出る彼の品性と知性が独特の雰囲気を作り上げていた。

「懐かしいですね、先生。わたしは貴方から多くの事を学び、若くして薬王局の局長にまで上り詰める事が出来た、感謝していますよ」

「墳血症の特効薬の申請を撤回したのは貴方ですね」

 アリアが厳しい口調で問い詰めると、レイスレイははぐらかすように言った。

「かつて薬学院の教員だった貴方が、退職した後に近郊で薬屋を営んでいるとは思いもよりませんでした。それにしても、貴方が違法な薬を売り歩いていたとは残念でなりません」

 薬学院とは薬王局が運営する薬師の養成学校の事だった。アリアは以前に薬学院の教員で、レイスレイは教え子であった。レイスレイはアリアが受け持った中で指折りに優秀な生徒で、薬学院を首席で卒業していた。その頃のレイスレイと今のレイスレイはまるで違っていた。アリアは教え子の変わり果てた姿を見て悲しくなった。

「あの特効薬で多くの命が助かるのですよ、どうしてこんな事をするのですか!?」

「薬王局の認めていない薬で、どうして命が助けられようか。流行病の駆逐は薬王局の役目です、貴方のような庶民がでしゃばる必要はない」

「今はそんな事を言っている時ではありません、墳血症の広まり方が加速しているのです。このままではフロスブルグだけではなく、ロディス王国全土に壊滅的な被害が出る恐れがあります」

「墳血症には薬王局で対応していきますので、ご心配なく」

「今から特効薬を一から作ろうとでも言うのですか! それでは遅すぎます! わたしの特効薬のレシピを薬王局に差し上げますから、それで病に苦しむ人々を助けてあげて下さい」

 レイスレイは酷く冷たい目をしてアリアに近づくと、手を振り上げた。

「図に乗るな!!」

 アリアは手の甲で横から殴られて大きな音をたてながら倒れた。そうなると、両手が後ろで縛られているので起き上がる事ができなかった。アリアは頬に熱と痛みを感じながらかつての教え子を見上げた。

「自分の地位と薬王局の名誉を守る為だけに、人の命を墳血症という悪魔に捧げようと言うのですね、貴方がそんな風になってしまった事が残念でなりません」

 レイスレイは悪意が深く刻まれた三日月のような笑みを浮べながらアリアの頭を踏みつける。

「この期に及んで教師気取りなど止めてもらえませんか、非常に苛つきます」

 アリアは諦めたように両目を閉じて黙った。レイスレイはアリアから離れると言った。

「違法な薬を売った貴方には、それなりの罰を受けてもらわねばなりません、覚悟をして頂きましょう」

 レイスレイがアリアに背を向けて指を高く鳴らすと、外に控えていた騎士たちが入ってきてアリアを連れ去った。執務室に一人残されたレイスレイは、忌々しげに言った。

「冗談ではない、薬王局が庶民などに出し抜かれては、良い笑いものではないか」

 その後、アリアは何の取り調べもなくいきなり城の地下牢に乱暴に放り込まれた。暗い牢屋の中で、アリアは娘の事を思って涙を堪えた。娘がこれからどんな悲しい目に合うのか、想像すると不憫でならなかった。

「ああ、シェルリ……」

 アリアの弱々しい声が牢獄の闇に微かに響いた。


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