わたしのことはお気になさらず、どうぞ、元の恋人とよりを戻してください。
「あたし、気付いたの。やっぱりリッキーしかいないって。リッキーだけを愛しているって」
人気のない校舎裏。熱っぽい双眸で訴えかけたのは、子爵令嬢のパティだ。正面には、伯爵令息のリッキーがいる。
「い、いまさらそんなことを言われたって……」
リッキーが困ったように視線をさ迷わせる。
「……あたしのこと、もう嫌いになった? 学園に通う前までは、あんなにあたしのこと、好きだって言ってくれていたのに」
涙ぐむパティに、リッキーが慌てつつ、反論する。
「き、嫌いとかじゃなくて……そもそも、学園に通う前まではって言い方、しないでほしいな。学園に通いはじめてすぐに他の令息に熱をあげて、ぼくを捨てたのは、きみじゃないか」
「捨てたなんて……だって、子爵令嬢のあたしが、侯爵令息様に逆らえるはずないじゃない……だから、あたし」
一歩近付くパティに、リッキーが一歩、後退る。明らかな動揺が見えた。
「そ、そんな顔しても無駄だよ。きみから侯爵令息に言い寄っていたことも、その侯爵令息に最近婚約者ができたことも、ぼくだってちゃんと知ってるんだからな。あてがはずれて、仕方なくぼくのところに戻って来たんだろ?!」
「……そんな、ひどい」
しくしくと、パティは泣き出した。リッキーが、うっと怯む。
「ど、どちらにせよ、もう遅いよ。ぼくには婚約者がいる。きみだって知ってるだろ?」
「あたしが好きなら、そんなもの、解消すればいいじゃない!」
パティが叫ぶ。無茶苦茶だわ、と胸中で呟いたのは、二人からは死角になるところで聞き耳を立てていた伯爵令嬢のシャノン──リッキーの婚約者だった。
たまたま廊下で二人を見かけ、後を追ってきたら、これだ。昔からパティは自信家のわがままだったが、どうやらそれは、いまだに健在のようだ。
昔からパティが大好きだったリッキーもさすがに呆れているのでは、と考えていたシャノンだったが──。
「……そんなにぼくのこと、好きなの?」
予想もしないリッキーの質問に、シャノンは目を丸くした。対してパティは、目を輝かせた。
「好き! 大好き!」
リッキーは「そ、そっか……」と、満更でもない様子だ。それは、パティも感じたのだろう。
「リッキー。ねえ、どうなの? 返事は?」
パティが詰め寄る。悩んだすえのリッキーの答えは、
「……少し、考える時間がほしい」
だった。
つまりは、答えを、保留にしたのだ。
シャノンは失望と、少しの哀しみをこらえながら、二人に気付かれないように、そっとその場を後にした。
グリエフ伯爵の娘であるシャノンには、二人の幼馴染みがいた。父親の友人の息子のリッキーと、母親の友人の娘のパティだ。
先に出会ったのは、シャノンとリッキー。けれどその半年後に会ったパティに、リッキーが一目惚れしたのだ。パティもベタぼれされていることが嬉しかったのか、やがて二人は付き合いはじめた。
リッキーの父親であるチェルニー伯爵は、伯爵令嬢であるシャノンとの付き合いを望んでいたが、あまりにリッキーがパティに惚れ込んでいたため、一時はそれを諦めていた。けれど付き合いは認めても、婚約はまだ早いと認めず。
リッキーが三男だったこともあり、学園を卒業するまで付き合いが続いていたら、認めてやる。その言葉に歓喜したリッキーだったが──。
王立学園に同じ年の三人が同時に入学してから二ヶ月ほど経ったころ。パティは運命の出会いをした──と、本人は思っている。
一つ年上の侯爵令息と、廊下の曲がり角でぶつかったとき、よろけたパティを、侯爵令息が支えたそうだ。端正なその顔に、パティは一目惚れした。おまけに侯爵令息なうえ、長男ときている。
小さなころから可愛いともてはやされて育ったパティは、自分ならきっとおとせる、と考えた。そのためにはリッキーと付き合っているという事実が邪魔だった。侯爵令息に知られる前に別れなければと、パティはあっさりとリッキーを捨てた。
あまりに突然にフラれたリッキーは、数日のあいだ、茫然自失状態だった。けれどチェルニー伯爵はこれ幸いと、グルエフ伯爵に話を持ちかけた。
むろん、シャノンとリッキーの婚約話だ。
最初は渋っていたグルエフ伯爵も、土下座せんばかりのチェルニー伯爵の勢いにおされ、シャノンにその旨をしたためた手紙を送ってきた。
シャノンにはまだ好いた相手もいなかったし、優柔不断なところもあるが優しい気遣いができるリッキーのことは嫌いではなかったので、構わないと思った。同時期にチェルニー伯爵からの手紙を受け取っていたリッキーに「どうする?」と聞くと、リッキーは戸惑いながらも口を開いた。
「……まだ、パティとのこと、気持ちの整理がついてないけど、それでシャノンがいいのなら……」
シャノンはグルエフ伯爵家の長女だ。下に二人の妹がいるだけで、兄も弟もいない。つまりシャノンと結婚するということは、グルエフ伯爵家の婿養子となる。成績もあまりよくない。とりたてて取り柄もないリッキーにとっては、そう悪くない条件だったろう。
愛するパティを失ったいま、そんな話を蹴ってまで、わたしとの婚約を拒絶する意味はないはず──と、シャノンは心の中で冷静に思っていた。
(わたしは勉学が好きだし、伯爵の仕事も、わたしが手伝えば何とかなるわよね)
婚約者探しに時間を費やすよりも、もっと勉学に励みたい。知識を得たい。そんな思いがあったから、シャノンにとっても都合は良かった。
そして間もなく、二人は正式に婚約した。
「シャノンは、全然ぼくに甘えてくれないね」
学園の帰りの馬車で、ふとリッキーが呟いた。シャノンは、思わず苦笑した。
「わたしはパティじゃないから。甘えられても、嬉しくないでしょう?」
「そ、そんなことないよ。パティのことはもう、忘れるって決めたんだ。これからは、シャノンのことだけを思うよ」
「無理しなくていいのに」
「してない! だから、もっと甘えてよ。服が欲しいとか、課題やってとか。人気のスイーツの店にだって、きみが望むなら何時間でも並ぶよ!」
「……そんなことしてたの?」
「? うん」
「それは甘えとかじゃなくて、わがままって言わない?」
リッキーは、え、と目を丸くしたあと、そっか、と小さく呟いた。
「……わがまま、か。そっか。いま思えば、そうだったかも」
「でも、愛するパティのためなら、何だって苦じゃなかったんじゃない?」
少しの嫌味を言ってみる。怒るかな。それとも素直に肯定するかしら。そう考えていたシャノンだったが、リッキーは、そうでもないよ、と薄く笑った。
「実を言うと、よくへこんでいたんだ。デートプランも、いつも一生懸命考えるんだけど、ほとんどがセンスないって呆れられたり、怒られたりしてね。お肉が食べたいっていうから、お肉を出す店に行ったのに、気が変わったとかいってすぐに帰りたがったり……」
いま思い返すと、本当にわがままだね。リッキーは、はは、と笑った。
そこまでとは思っていなかったシャノンは目を見張ったが、パティのことについてはもう、何も口には出さなかった。
「──明日、お休みね」
シャノンの言葉に、リッキーが「うん、そうだね」と返す。
「二人で、何処かに行きましょうか」
婚約してからひと月経つが、実はまだ、二人で出掛けたことはない。お互いに、自分とデートなどしたくないだろうと思っていたから。
「……ぼくでよければ、喜んで」
リッキーの答えに、シャノンは小さく微笑んで見せた。
互いの了承があったとはいえ、親が決めた婚約者にかわりはない。けれど、幼いころから気心が知れた二人は、少しずつ、少しずつ、婚約者としての距離を縮めていった。
──と、思っていたのだが。
(……そう思っていたのは、わたしだけだったみたいね)
少しの胸の痛みを自覚しながら、思う。一方的に別れを告げられ、パティはわがままだったと言いながらも、きっぱりと拒絶をしなかったリッキーの考えが、シャノンにはまるで理解できなかった。
(それだけ好きだったってことなんでしょうけど……もしリッキーがパティと付き合うためにわたしとの婚約をやめるなら、婚約破棄……慰謝料は免れないわね)
もともと、パティとの付き合いをよく思っていなかったチェルニー伯爵がそれを許すとはとても思えない。流石にそれぐらいのこと、リッキーだって承知しているはずだ。
──やっぱり無理だと断る? それとも、例えチェルニー伯爵家から除籍されようとも、愛を貫く?
シャノンは、はあとため息をついた。何だか考えるのも馬鹿らしくなってきたからだ。
「……帰りましょ」
一人呟き、シャノンは学園の外に出た。待機していたグルエフ伯爵家の従者が「お帰りなさいませ」と、腰を折りながら、小さく小首を傾げた。
「リッキー様は、ご一緒ではないのですか?」
「ええ。とても大事な用があるとかで」
従者は「さようでございますか」とあっさりそれを信じ、馬車の扉を開けた。最近の登下校はリッキーと一緒のことが多かったから、一人で帰るのは久しぶりだった。
外の景色をぼんやり見送りながら、自身の胸に手を当てる。
(もうあまり痛くないわね)
それよりも、リッキーに対する呆れの方が強くて。
芽生えかけていた恋心のようなものはもう、ほとんどなくなっていた。
「あ、良かった。先に帰ってたんだね。シャノンの姿が教室になくて、焦ったよ」
夕刻。
シャノンの屋敷まで訪ねてきたリッキーが、ほっとしたようにそう言った。玄関ホールで対応しながら、シャノンは少し迷っていた。
(パティの告白を保留にしたこと、知っているって、ここで告げるべきかしら……)
「どうしたの? 何だか、元気がないみたいだけど……」
「それは平気よ」
「そ、そう? えと、それで、今日はどうして先に帰ったのか、聞いてもいい?」
シャノンはぴくりと片眉を動かしたにとどめ、やんわりと口を開いた。
「いつもよりも迎えが遅かったから、何か急用ができたのかと思って。あなたの教室にも行ってみたけど、いなかったから」
「そ、そっか。ごめん。先生に、急に用を頼まれてしまって……」
目線を泳がし、明らかな嘘を吐くリッキー。その様子に、ますますリッキーへの情が薄れていくのに気付いたが、とりあえず今日のところは、パティのことについて、何も追及しないことにした。
リッキーがパティを選んでも、選ばなくても。もはやどうでもいいような気がしてきたからだ。
(どうせ貴族の結婚なんて、政略的なものがほとんどだもの。なら相手が誰でも、もういいわ)
例えその相手に愛する人がいても。
シャノンは、早々にそう割りきることにした──のだが。
「シャノンて、本当にいじわるよね。まるで悪女だわ」
朝の教室で、席について授業の準備をするシャノンの前につかつかと誰かが寄ってきた。かと思えば机に両手をつき、何の前触れもなく、相手はそう言った。
シャノンは頭痛がした。
「……パティ。朝から何の用?」
「ほら、またそうやってあたしを見下す。身分をひけらかして、楽しい?」
「……そんなこと、した覚えはないわ」
「よく言うわ。まあ、それについては許してあげる。けど、リッキーのことについては別よ」
「……リッキー?」
もしや、きっぱりとパティからの告白を断ったのだろうか。と思ったが、昨日の様子から、それはないとシャノンは判断した。案の定──。
「いい? リッキーが愛しているのは、あたし。あたしもリッキーを愛している。でも、あなたがそれを邪魔しているの」
教室内がざわつくのがわかった。ストーカーまがいのことをしていたパティは、悪い意味で学園ではちょっとした有名人だった。そんなパティを、フラれてからもしばらく追いかけていたリッキーも、パティほどではないにしても、知る人は多い。
親の命とはいえ、リッキーと婚約すると知ったときの学友たちは、シャノンのことをとても心配してくれた。
けれどシャノンと付き合うようになってからは、パティのことはきっぱりと諦めたかのように近付かなくなったし、本来のリッキーの気性の優しさが全面に出てきたおかげで、まわりの見る目も、変わってきていた。
──なのに。
「……え、どういうこと?」
「ほら、あの子がつきまとっていた侯爵令息様に、婚約者ができたから、それで……」
「うそ! それで元の恋人とよりを戻そうとしているの?!」
「けれど、もう婚約者もいますし……そもそもそんな身勝手な女、相手にする男性がいまして?」
教室内の令嬢たちが集まり、こそこそと会話する。こそこそ、と言っても丸聞こえなのだが。
現にその令嬢たちに向けられるパティの目は、怒りのために血走っている。
「ふん。あいにく、リッキーはあたしにベタ惚れなのよ。シャノンなんかよりあたしのことを愛しているけど、婚約解消にシャノンが応じてくれないから困ってるって、言ってたわ!」
教室内のほとんどの生徒たちが、パティの妄想だと笑う。でもシャノンは、そんな気にはなれなかった。昨日の二人の会話を聞いていたから、あり得る話かもしれない、と思った。
「そうなの? それは初耳だけど──いいわよ」
シャノンの科白に、パティが、え、と目を丸くした。
「婚約解消の件、わたしは応じるわ。けどね、パティ。あなたも知っていると思うけど、いくらわたしが応じても、駄目なのよ。わたしのお父様と、チェルニー伯爵の同意がないと」
「そ、そんなこと知っているわ。馬鹿にしないで」
「それは良かったわ。頑張って、説得してね」
「あなたも手伝いなさいよ! 幼馴染みでしょ?!」
「もちろん、わたしの考えはお父様にお伝えするわ。あとはあなたとリッキー次第ね」
まだ何か言いたそうなパティだったが、タイミングよく鐘が鳴り、舌打ちしながら教室を出ていった。
「ちょ、ちょっとシャノン! いいの?」
誰より先に話しかけてきたのは、学園に入学してから仲良くなった、クラスメイトのセルマだった。
まわりを見れば、当然のようにクラス中の者がこちらに注目していて、シャノンはため息をつきたくなった。
リッキーとどうなるにせよ、まわりにこれらのいざこざを知られずにすませたかった。むろん、今後のために。変な噂が立てば、次の婚約者を探すのが、絶望的になるからだ。
(……王都にくるまで、パティもあそこまでわがままではなかったはずなのに。これもリッキーが甘やかしたせいね)
こうなってしまえば、真実を話してしまうしかない。シャノンは昨日聞いてしまった、リッキーとパティとの会話を、ざっとセルマに──結果的にはクラス中に、説明した。
「は? なにそれ。考える時間がほしいって……婚約者のあなたがいるのに、そんな返事をしたの?!」
セルマが怒る。教室の扉が開き、教師が入ってきたので、セルマはそれ以上の追及を一旦やめ、シャノンの隣に腰を落とした。
「……続きは授業が終わったら聞かせてもらうからね!」
こそっとセルマが囁く。続きも何も、それが全てだったが、シャノンはひとまず、わかったわ、と答えた。
一時間目の授業が終わる鐘が鳴った。さあ、続きを聞かせてもらいましょうか。とセルマが意気込むとほとんど同時に、シャノンの名を叫ぶ者がいた。
リッキーだった。
顔色を青くしながら、教室内に入ってくる。隣のクラスなのに、少し息が荒い。よほど慌てて来たのだろう。
「授業がはじまる一瞬前に、パティが教室に来たんだ。シャノンが、ぼくと婚約解消するって言ってたって……ど、どういうこと?」
シャノンが答えるより前に、セルマが口を開いた。
「自分の胸に聞いてみたらいかが?」
「わ、わからないからこうして聞きにきているんだよ!」
シャノンは、セルマの肩にぽんと手を置き、小さく笑った。
「セルマ、ありがとう。わたしから言うわ」
シャノンはとりあえず、人気のないところにと、リッキーを連れ出した。これ以上、恥をさらすのはごめんだったから。
「先に謝っておくわね。わたし、嘘をついたの」
「嘘?」
「ええ。昨日、先に帰ったのは、あなたを見つけられなかったからじゃないの。あなたがパティと校舎裏にいるところを、見てしまったからなのよ」
リッキーが分かりやすく動揺するのが見てとれた。構わずに、シャノンは続けた。
「パティの告白を、保留にしていたわよね。答えはもう、決まった?」
顔面蒼白になったリッキーが、絶句する。それほど気温は高くないのに、だらだらと汗を流している。
「……パ、パティの告白なんて受けない。ちょっと仕返ししてやろうかと、思った、だけで……」
途切れ途切れの言葉に、シャノンは大きく息を吐いた。
「──本当にいいの?」
「……え?」
「今を逃せば、パティは永遠に手に入らなくなるかもしれないのよ?」
「そ、それは……」
リッキーがあからさまに迷う。これでは、パティに未練があると言っているようなものだ。
「──リッキー。あなたは、わたしに婚約を破棄されることを怖れているのよね?」
「ち、違う! ぼくは、きみを愛しているから……だから、純粋に別れたくないって思って」
これでは駄目だ、とシャノンは思った。婚約を破棄される恐れがある以上、リッキーは決して、パティへの想いを認めないだろう。
「なら、パティにはっきり言うの? きみとは付き合えないって」
「い、言うさ。言うよ!」
「……そう。どちらにせよ、これからは、登下校も、昼食も、別々にしましょう。もちろん、もう休日に会うこともしないわ」
「ど、どうして?」
どうして。
その質問は、怒りよりも、哀しみが少しだけ勝った。
「……あなたがわたしを選んだのは、単に、自分の居場所を守りたかったに過ぎないからよ。わたしを愛しているからじゃない」
図星をつかれたように、リッキーは固まった。鐘の音が鳴り響く中、シャノンは一人、教室へと足を向けた。
その日の昼休み。
「シャノン・グリエフ。話があるので、この後、職員室に来るように」
「? はい、わかりました」
授業が終わったあと、担任にそう告げられたシャノンは、真っ直ぐに職員室へと向かった。クラスを騒がせてしまったことを咎められるのかもしれない。そんな心配をしつつ、職員室の扉をノックした。
「失礼します」
シャノンの声に、担任が「ああ、来たね」と言い、奥の小さな部屋へと招き入れた。
勧められるまま、椅子に腰かけるシャノン。担任はテーブルを挟んで向かい側に座ると、さっそくだが、と口火を切った。
それは、全く思いもしない話で。
シャノンは一時、リッキーとパティのことを忘れ、心からの笑みを浮かべた。
「シャノン。大丈夫? 叱られたりしなかった?」
不安を口にしていたシャノンを心配して、セルマが職員室の前で待ってくれていた。シャノンは、大丈夫、と言ってから、興奮気味に報告した。
「それより、聞いて! わたし、交換留学生に選ばれたの!」
「交換留学って……隣国との? でもあれ、何ヵ月も前に決まっていたはずじゃなかった?」
「そうだったんだけど、一人が家庭の事情で辞退することになって。繰り上げで、わたしが選ばれたの!」
「! すごいじゃない。あれって、希望したとしても、成績上位者しか選ばれないんでしょ?」
「そうなの。隣国の言葉や文化にとても興味があって、希望は出してたんだけど、落ちてしまって……だから、すごく嬉しい。神様が、落ち着いて考える時間をくれたかのようだわ」
その言葉に、セルマは目を細め、シャノンを優しく見つめた。
「……そうね。本当にそうかもしれないわね。期間は、どれぐらい?」
「三ヶ月よ」
「そう……私たちが二年生になるときに、帰ってくるのね。寂しいけど、あの二人としばらく顔を合わせずにすむのなら、絶対にその方がいいと思うわ」
「ありがとう、セルマ。出立はひと月後だから、これから忙しくなるの。あの二人に構っている余裕は、もうないわ。ありがたいことにね」
そうね、と笑い合う二人を、陰から見つめる双眸が一つあった。
その人物が後ろから、肩をぽんと叩かれ、飛び上がらん勢いで、勢いよく振り向いた。
そこに立っていたのは──。
「……パティ」
「やっと見つけた、リッキー。さあ、早く答えをちょうだい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。ここじゃ、誰に聞かれるか……」
「誰もいないわよ。それに、別に聞かれてもいいじゃない」
パティが腰に手をあてる。リッキーはぐっとこぶしを握ると、パティの手を引き、歩きだした。
「な、なに?」
「いいから。ちゃんと返事はするから、お願いだから今は黙ってついてきて」
パティは渋々といったように、大人しくついてきた。リッキーは前を向きながらも、その事実に、ごくりと生唾を呑んでいた。
一階の一番端にある、今は使用されていない教室前の廊下で足を止めるリッキー。きょろきょろとあたりを見回し、誰もいないことを確認したリッキーは、パティの手を離した。
「……パティ。ぼくはね、まだ子どもだったんだ」
くるりと振り返り、不思議そうな顔をするパティに向かって、リッキーは続けた。
「ぼくは長男じゃないから、爵位は継げない。約束された未来なんかない。でもシャノンと結婚すれば、その不安もなくなる」
パティが不快そうに眉を寄せる。
「何が言いたいの? まさか、あたしをふるつもりじゃないわよね?」
「……きみと付き合うためにシャノンと別れるなんて言ったら、父上からどんな罰を与えられるかわからない」
「……っ。信じられない。あなたのあたしへの愛って、その程度のものだったの?!」
「そうは言うけど、考えてもみてよ。ぼくがチェルニー伯爵家から除籍されたら、どうする? ぼくは伯爵令息じゃなくなるんだよ? それでもいいの?」
パティが言葉に詰まる。それは困ると、顔に書いてあった。
「だから、ぼくはシャノンとは別れない。別れられない、と言った方が正しいのかな……わかってくれるよね?」
パティのこぶしが震える。目尻が下がり、目に涙を浮かべはじめた。
「……じゃあ、あたしはどうしたらいいの? 女どころか、男すら、あたしを避けるの。ストーカー女って……あたしそんなんじゃないのに……みんなひどいの……っ」
しくしくと泣きはじめたパティに、リッキーはこそっと笑みを浮かべ、手を差し伸べた。
「あのね、パティ。一つ、提案があるんだけど──」
──四ヶ月後。
シャノンたちが二年生にあがる、一日前のこと。晴れ渡る朝空のもと、リッキーはシャノンの屋敷の前に立っていた。
シャノンが家族と離れて住むこの屋敷には、現在、誰もいない。使用人も、シャノンが帰国するまではグルエフ伯爵家の元に戻っているため、無人だ。
本来の帰国日は、十日前のはずだった。学園は休みのため、それからずっとリッキーは、毎朝シャノンの屋敷を訪れている。何かあったのだろうか。学園に尋ねてみたが、そんな報告はないとのことだった。
もしかしたら、帰国した足で、グルエフ伯爵領に戻ったのかもしれない。だとすれば、明日から学園がはじまるのだから、少なくとも今日、帰ってくるはず。
そんな思いから粘っていると、見覚えのある馬車が、こちらに向かって走ってきた。
「! シャノン! シャノン!」
手をふり、嬉しそうに叫ぶリッキー。馬車の馭者席に座る、見覚えのある馭者と侍女が気付き、馬車の中に声をかける。馬車が止まり、扉が開いた。中から、何やら妙な顔をしたシャノンが出てきた。リッキーが急いで駆け寄る。
「シャノン。ああ、良かった。帰国日になっても帰ってこないから、心配したよ。でも、無事で良かった」
「リッキー……? どうしてここにいるの?」
「どうしてって、きみに早く会いたかったからさ。きみが出立する前にも伝えたけど、ぼくはきっぱりと、パティの告白を断った。だから、もう一度考え直してほしいんだ。また前みたいに、一緒に登下校したり、休日にはデートもしようよ。ね?」
シャノンが、目をまん丸にする。リッキーはそれを、嬉しくて驚いているのかなと考えた。
──でも。
「……驚いた。あなた、まだ何も知らないの?」
心底驚愕しているシャノンに、今度はリッキーが、目を丸くした。
「何の話?」
リッキーが質問する。シャノンに「……チェルニー伯爵から、手紙は届いてない?」と逆に問いかけられたリッキーは、首を傾げた。
「届いてない、けど……」
「そう……じゃあ、学園の友達からは? 何か聞いてない?」
リッキーは言い辛そうに、ぼそぼそと小さく答えた。
「……パティがきみのクラスで妙なことを言った日から、みんなに避けられるようになってしまって……」
シャノンは、はあ、とため息をついた。
「ええと──どこから説明したらいいのかしら」
「な、何? ぼくの知らないとこで、何か起きてたの?」
あたふたしながら、リッキーが足を前に出し、シャノンに近付こうとしてきた。それを、シャノンが手で拒絶した。
「──近付かないで」
「ど、どうして?」
「わたしとあなたはもう、他人だからよ。幼馴染みですらない。話しかけるのも、今日で最後にしてね」
リッキーが驚愕に目を見開く。
「……じょ、冗談、だよね?」
「──やっぱり、あなたを交えて話し合うべきだったのかしら。でも、もうあなたの顔を見るのも嫌だと思ったから」
一人ごちるシャノン。リッキーは訳がわからず、首を捻るばかりだ。
「けれど、思っていたより平気みたい。あなた、本当に何も知らないみたいなんだもの。憐みすら、覚えてきちゃったわ」
「……シャノン?」
「あのね、リッキー。わたしの留学が決定したときのセルマとの会話、聞いていたでしょ?」
リッキーの肩が、ぴくりと揺れた。
「そのあと、パティと二人、人気のないところに行ったのよね?」
リッキーの身体が、小刻みに震えはじめた。
「……ま、まさか……また、盗み聞き、してたの……?」
盗み聞き、ね。
シャノンは呟き「違うわ」と苦笑した。
「年頃の、特に令嬢たちは、他人の恋愛に興味深々なのよ。泥沼であればあるほどね。だからみんな、わたしたち三人に注目していた。そんな中、たまたまリッキーがパティの手を引きながら歩いているところを見かけた令嬢がいた。二人を尾行するのは、とても緊張したけとワクワクしたと言っていたわ」
リッキーはごくりと生唾を呑んだ。背中に冷たい汗がだらだらと流れはじめた。
「見知らぬ令嬢が、わざわざわたしに教えにきてくれたのよ。あなたとパティとの会話をね。そのあと、いったいどれだけの人に言いふらしたのかは知らないけれど……わたしと別れたいけど、将来のため、チェルニー伯爵から罰を与えられないために、別れられない。そう言っていたとか」
「……し、知らない……」
「パティがわたしを悪女だと言っていたけれど、あなたもそう思っていたのね。もしかして、ずっとそう思っていたの? だとしたら、一緒に登下校するのも、デートも、さぞや苦痛だったでしょう? 気付かなくて、ごめんなさい」
「……ち、違う! 違うよ!! ぼくはきみと一緒にいるのは、心から楽しかった。それは本当なんだ……信じてくれ……っ」
リッキーが涙を浮かべ、訴える。
だが──。
「──そんなこと、どうだっていいのよ」
ふっ。
シャノンから、一切の作り笑いが消えた。
「……シャノン?」
「何が問題か。あなたが一番、わかっているはずでしょう?」
リッキーの顔から一気に血の気が引いていく。考えないようにしていた事実が、頭を駆け巡る。
『あのね、パティ。一つ、提案があるんだけど──』
「パティに一つ、提案を出したでしょう?」
「…………そ、それも、聞かれて、いた……?」
「あなたたち二人があの場から立ち去るまで、ずっと聞き耳を立てていたそうよ」
リッキーの膝が、がくがくと震え出した。それは、立っているのが不思議なぐらいだった。
「ぼくの愛人にならない……?」
リッキーの提案に、パティは最初、思っていた通りの反応を示した。
「ふざけてるの? 喧嘩を売っているの?」
「ふざけてなんかないよ。ぼくは、確かにきみを愛している。でも、さっきも言った通り、シャノンとは別れられない」
「だから?」
「──お金をあげる」
リッキーの言葉に、パティはキョトンとした。
「……お金?」
「そう。ぼくの愛人になってくれるなら、お金をあげる。きみは魅力的だから、可能性は低いかもしれないけど、もし誰とも結婚できなくても、一生、ぼくが養ってあげる。ぼくがグルエフ伯爵家を継げば、可能な限り、望むだけお金をあげられるよ」
「で、でも……それじゃシャノンに負けた気がするし……」
パティの心が揺れるのが見てとれ、リッキーは畳み掛けた。
「貴族の妻は、そんなに楽なものじゃない。母上を見ていればわかるけど、礼儀作法は完璧を求められるし、貴族同士の交流にも、常に気を張っていなければならない。ただ着飾って立っていればいいってものじゃないんだ」
「そ、そんなことあたしだって知ってるわよ!」
「うん、そうだよね。でも愛人なら、誰に気を遣うことなく、好きな人生を送れるんだよ?」
「……そ、れはそうかもしれないけど」
「もしきみに、他に好きな人が出来たら、すぐに愛人をやめればいい。ぼくはそれを許すから」
「…………」
リッキーは明らかに迷っているパティの腕を掴み、抱き寄せた。
「ち、ちょっと。あたしはまだ……」
「──ひと月後に、シャノンは隣国に留学する。三ヶ月間、帰ってこない」
「へ? そう、なの?」
「うん。だからその三ヶ月間だけ、ぼくは自由になれるんだ」
パティは、ふうん、と口角をあげた。
「その間、リッキーの屋敷にも行き放題ってわけ?」
「……その通りだよ。ねえ、パティ。愛人の意味、わかってるよね?」
「デートでもしてあげたら満足?」
「それだけじゃ、お金は渡せない」
「さいってい」
「……何とでも言っていいよ。でも、こうするしかないんだ。シャノンに万が一にでも不貞行為がばれたら、終わりだ。だからどうしてもきみを、シャノンがいないときに、抱きたい」
「へえ。シャノンが帰国すれば、何もしなくても、お金をくれるんだ」
「……頻繁には無理でも、隙を見つけて、抱くよ」
パティは愉快そうにクスクスと笑い出した。
「愛する人に抱かれるだけで遊んで暮らしていけるなら、悪くないかもね。それに本当に惨めなのは、シャノンな気がしてきたわ」
だろう?
リッキーは答え、二人はしばらく笑い続けた。
「…………でたらめだっっ!!」
掠れた声で、リッキーは叫んだ。
「ぼくはそんなこと言ってない! だいたい、見知らぬ令嬢と、婚約者のぼく。どちらを信じるべきかなんて、考えなくてもわかるだろ!?」
「──そうね。その令嬢の証言だけでは、確かに不十分だったわ。だからわたしは、留学の許可証の書類にサインをしてもらいにいくため、実家に帰省したとき、お父様たちに全てを話し、後を託したの。わたしには時間がなかったから」
「は、なした……? 全て?」
「ええ。お父様は、力強く了承してくださった。だからわたしは、留学に集中することができたのよ」
シャノンは目を細め、穏やかに微笑んだ。どうしていま、そんな表情をするのか。リッキーにはまるでわからなかった。
「帰国して真っ直ぐに、わたしはお父様たちの元に向かった。お父様は、はっきりおっしゃってくださったわ──全て、終わったと」
「……な、にが」
「何だと思う? 心当たりはない?」
「…………」
リッキーはとうとう、口を閉ざしてしまった。シャノンは、淡々と続けた。
「お父様はまず、チェルニー伯爵にあなたのことを伝えた。チェルニー伯爵は最初、息子がそんなことを言うはずがないと信じなかったそうよ。なら、あなたの潔白を証明するためにも、こちらの使用人をリッキーの屋敷に潜りこませること。そして第三者の目として、探偵にあなたを見張らせること。これを了承してもらった──結果、あなたと婚約破棄できる証拠が出そろったの」
シャノンはうつ向いてしまったリッキーを、呆れた双眸で見つめた。
「……あなたとの婚約が正式に破棄されたことを知って喜んだと同時に、忙しくもなって。学園がはじまる前にやれることはやっておこうと思って、屋敷に戻ってくるのが今日になってしまったの。だからとっくに、チェルニー伯爵から婚約破棄のこと、知らされているものだと思っていたわ。それに、パティとの密談が学園中に知れわたっていることも、まさかいまだに当事者のあなたが知らないなんて、思いもしなかった」
そうか。と、ようやくリッキーは少し思考を動かすことができた。シャノンの屋敷の前で待ち構え、あまつさえパティの告白は断った。またデートしよう、などと言った自分を、心底驚いた表情で見ていたのは、そういうわけだったのかと。
「……違う。本当に、違うんだ。ぼくはシャノンと付き合ってから、パティがいかにわがままだったか。どれだけ振り回されてきたか、思い知ったんだ……だから、今度は、ぼくが振り回してやろうと、思って……」
リッキーが、ぼろぼろと涙を流しはじめた。しゃくりあげながら、シャノンに必死に訴えかけてくる。
「……不貞行為は、した。でも、もうパティに愛情なんてない……愛しているのは、シャノンだけだ……っ」
リッキーが手を伸ばす。シャノンが嫌悪感から、一歩、後退った。
──そのとき。
「聞きしに勝る屑だな、貴様は」
馬車から出てきた人影が、シャノンに向かって伸ばされたリッキーの腕を掴んだ。
「……ハーヴィー! 出てこないでって、あれほどお願いしたのに……っ」
「充分、我慢した。それに、屑男が恋人に触れようとするのを、黙ってみていろと?」
シャノンと見つめ合う、はじめて見る長身の男を見上げ、リッキーは瞠目した。
「……だ、れだ?」
いや、そんなことよりも。
「……恋人? 誰が、誰の……?」
呆然とするリッキーの腕をぎりっと締めながら、ハーヴィーと呼ばれた男は「屑に加え、馬鹿とはな」と、吐き捨てた。
「い、いたっ……はなせっ! はなせよ!!」
喚くリッキーの腕を、ハーヴィーが、ぱっとはなした。蔑んだ目を向けながら。
「…………っ」
妙な圧を感じたリッキーは、息を呑んだ。
「あなたがこんな男とかかわる必要なんて、なかったのに……っ」
「何故? お前を傷付けた、お前の元婚約者だ。一言ぐらい、何か言ってもいいだろう?」
「……こんな男を一瞬でも、少しでも好意を抱いたってこと、知ってほしくなかった。わたし一人でリッキーと話し合って、ちゃんと縁を切るところを、あなたに見てほしかった」
こぶしを震わすシャノンを、ハーヴィーはそっと抱き寄せた。
「見てたさ。怒りを吐き出すことなく、冷静だったな。こちらが我慢できなくなったよ」
その言葉にほっとしたのか。シャノンは知らずに入れていた全身から力を抜き、ハーヴィーの胸に顔を埋めた。
まるで、甘えているかのように。
その光景に、リッキーは愕然としていた。
どうしてか。シャノンに、自分以外の恋人ができる可能性を、一度も考えたことがなかったから。
パティとのことを知っててもなお、シャノンは婚約してくれた。親の命ではあったかもしれないけど、それでもシャノンは優しかった。好かれていると、確信していた。それに、シャノンにはぼくしかいない。そんな風にもいつしか自惚れるようになっていて。
「……本当に、その男は、きみの恋人なのか……?」
独り言のように呟かれたリッキーの言葉に、シャノンはハーヴィーと目線を交差させ、頷いたあと、リッキーに向き直った。
「そうよ。彼は、ネメック伯爵の息子。ハーヴィー・ネメック。両家へのあいさつはすませ、交際も無事に認めてもらったわ」
そう言って微笑んだシャノンは、見たことがないほどに、輝いて見えた。
「同じね、交換留学生として、隣国に行ってたのよ。ハーヴィーはいつも、学年一位だったから。前から名前と存在だけは知っていて」
「わたしも、同じだったよ。令嬢の中では、きみが学年ではトップだったしね」
「勉学に男女の差は関係ないわ」
ムッとするシャノン。
はは。ハーヴィーが愉快そうに笑う。
「そう。こういうところに惹かれたんだ──お前は、違ったのかな?」
ハーヴィーがリッキーに視線を移す。口角をあげてはいるが、目は少しも笑っていない。
「……ぼ、ぼくは」
「いいのよ、リッキー。無理に答えなくて」
「む、無理なんて……っ」
わたしも特に興味はないもの。突き放すように言い、シャノンは笑った。
「ね、もういいかしら。わたしたち、帰国してからずっと休みなく移動してたから、疲れているの」
「シャノンの実家も、わたしの実家も、ここから離れているからね」
「ええ。でも、学園がはじまる前日に戻れて良かったわ──そうだ、リッキー」
リッキーがぼんやりと「……え……?」と反応する。
「チェルニー伯爵が、あなたをどうするつもりかは知らないけど……今後、どこで会おうと決して話しかけたりしないでほしいの。実感はまだないかもしれないけど、あなたたちの評判はもう、最悪だから。わたしたちを絶対に巻き込まないでね」
それは、完全なる拒絶だった。リッキーの涙は止まらず、溢れてくる。
「……そんな……ひどい」
「でもね、リッキー。代わりにあなたは、自由を手に入れたのよ。期間限定なんかじゃなくてね」
『──ひと月後に、シャノンは隣国に留学する。三ヶ月間、帰ってこない』
『へ? そう、なの?』
『うん。だからその三ヶ月間だけ、ぼくは自由になれるんだ』
脳裏に浮かんだパティとの会話を、リッキーは、遠い過去の出来事のように、思い出していた。
グルエフ伯爵は、リッキーはもちろんのこと、パティにも慰謝料を請求した。両家の親たちはそれを代わりに支払ったものの、あくまでそれは立て替えただけだと。少しずつでも、働いて返していくようにと、それぞれの子どもにきつく命じた。
リッキーとパティは家族から縁を切られ、学園を辞めざるをえなくなり、街で働きはじめた。リッキーは小さな店の事務員として。パティも、シャノンどころかリッキーまで恨みながらも、仕方なく酒屋で働きはじめたのだが、長くは続かず。しばらくはリッキーがパティを養っていたのだが、只でさえ暮らしはきついのに、家事すらしてくれないパティ。加えて、浮気の現場を目撃したリッキーはついに怒りを爆発させ、パティを追い出したそうだ。
けれど、結局はパティを許してしまうリッキー。それから何度も、別れては付き合い、別れては付き合いを繰り返す二人。どうしてパティを見捨てることができないのか。悩んでも答えが出せないリッキーは、生涯、パティに振り回されることになる。
「そろそろ休憩にしましょう、ハーヴィー。コーヒーをいれてきたわ」
「ああ、ありがとう」
ハーヴィーが、机にある本をぱたんと閉じた。ここは、ハーヴィーの自室だ。机には閉じた本だけでなく、数十冊の本が重ね、置かれている。
「お父様から出された課題、どう? 難しい?」
将来、グルエフ伯爵家を継ぐハーヴィー。そんなハーヴィーに、シャノンの父親であるグルエフ伯爵は、定期的に課題を送りつけてくる。
「まあね。でも、やりがいはあるよ。それに、期待されている証拠だと思うしね」
シャノンは「それはその通りだと思うわ」と、苦笑した。少なくともリッキーに、父親が何か課題を送りつけてくるなんてこと、一度もなかった。
もしあのままリッキーが婚約者のままだったら。リッキーがグルエフ伯爵家を継いでいたら。グルエフ伯爵家は、どうなっていたのだろうか。
今さらながら、わたしが支えればいい、なんて。我ながら恐ろしくも短絡的に、楽観的に考えていたものだ。
「どうした?」
「え?」
「コーヒー、くれないのか?」
「え、ああ。ごめんなさい」
手に持ったままのシルバートレイを机に置いた──とたんに腕を引っ張られ、シャノンはハーヴィーの膝の上に座らされた。シャノンが目を丸くしていると、ハーヴィーはいたずらっぽく笑った。
「今日はまだ、構ってあげてなかったから、拗ねてしまったかと思ったよ」
「──ち、違……」
う、とは、言い切れなかった。考えていたことは違ったけれど、課題ばかりに集中するハーヴィーの背中に、つまらないと思っていたのは本当だったから。
「……コーヒー。わたしがいれたの」
「ありがとう。いい匂いだ」
「……飲んで、美味しくいれられてたら、褒めて」
ハーヴィーの首に腕をまわす。これじゃ飲めないな、とハーヴィーが笑う。
そっか。きっとこれが、甘えるってことなのね。リッキーのときは、よくわからなかったけれど。
「──愛しているわ、ハーヴィー」
耳元で囁くと、ハーヴィーは、わたしもだよ、と返してくれた。それがくすぐったくて、でも泣きたいほどに嬉しくて。
ああ。これがきっと、本当の──。
─おわり─




