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第8話 それは、心配の裏返し




 中庭の結界が揺れたあの一件から、一ヶ月が過ぎていた。学園の景色はすっかり夏めき、木々は重なり合うような濃い緑を湛え、降り注ぐ陽光も日に日にその鋭さを増している。


 本来なら、活動的な季節の到来を喜ぶべき時期なのだが――どうにも、アイリスの身体の調子がおかしかった。


 暑い。それなのに、寒い。


 じっとしていると、制服の奥で芯が凍えるように指先がひんやりとするのに、額にはじわりとうっすら脂汗が滲む。内側から沸騰しているような熱さと、外側から浸食してくる冷気が、アイリスの体内でせめぎ合っているようだった。


(魔法薬学の試験勉強、少し根を詰めすぎたかしら……)


 重い頭を振り、無理やり身体を起こして寮の部屋を出る。しかし、そこで彼女は足を止めた。


 廊下の先、いつもならそこに在るはずの影がない。朝の迎えは、ルイの欠かさない仕事だ。彼は几帳面の権化のような少年で、滅多に寝坊などしないし、仮に体調を崩したとしても、這ってでも顔を出すような危うい責任感を持っている。


 代わりに、扉の前に小さなメモが置かれていた。


『本日、健診のため従者の務めをお休みさせていただきます』


 ルイは時折、学園の医務室や外部の施設へ定期的な魔力検診に行っている。そして、ルイの魔力が少しだけ珍しいという話をお父様から聞いたことがあった。


(しっかりしてるけど、あの子、意外と無理しがちだし。たまには休んでくれないとこっちの気が気じゃないわ)


 そう自分に言い聞かせ、一人で廊下を歩き出す。身の回りのことくらい自分でもできる。普段と変わらない朝のはずだった。それなのに――。


(静かすぎる……)


 隣で衣擦れの音をさせて歩く存在がいないだけで、学園の喧騒がやけに耳に障る。胸の奥に、澱のような小さな違和感が残った。

 

 午前の講義が終わり、重たい筆を置いてノートを閉じたときだった。隣の席の友人が、心配そうに身を乗り出してきた。


「ねえアイリス、さっきの講義の最後の方なんだけど」

「ん……? なあに」

「魔力循環の第三段階の減衰率について。あれ、結局どういう計算になるんだっけ?」


 いつもなら、教科書を開かずとも即答できる基本事項だ。アイリスは特別優れた魔術師ではないが、座学だけは真面目に取り組んでいる自負があった。


「えっと、それは……」


 口を開いたまま、思考が空転する。頭の中の引き出しが、錆びついたように動かない。先生の声も、黒板に並んだ術式も、まるで水底から眺めているようにぼんやりと霞んでしまっている。


「……ごめん。先生、そんなこと話してたっけ?」


 自分の口から出た枯れた声に、アイリス自身が内心でぎょっとした。


「えっ? 話してたわよ、十五分くらいかけてたっぷり。……ねえ、今日のアイリス、なんだか変よ?」

「そうかな……ちょっと、考え事してただけ」

「静かだし、冗談も言わないし。顔色、真っ白よ? 保健室行ったら?」

「大丈夫よ、ただの寝不足。昨日の夜、ちょっと魔術書に熱中しちゃって」


 にこりと笑って誤魔化したつもりだったが、頬の筋肉がうまく動かない。友人は納得いかないように首を傾げたが、次の講義の準備のためにそれ以上は追及してこなかった。

 

 一人になった瞬間、肺の奥まで冷たい空気が入り込む。ノートを鞄に仕舞おうとする指先に、力が入らない。


(……おかしいわね。本当に、どうしちゃったのかしら)


 理由もなく、ふと視線を上げた。誰に呼ばれたわけでもない。ただ、本能が「見られている」と告げていた。


 廊下の向こう。人の流れが途切れたその場所で、ギルバート・ラカル・ルクレールが腕を組み、彫像のように立っていた。目が合った――と、アイリスは思った。


 しかし次の瞬間には、彼は何事もなかったかのように視線を外す。その一瞬の赤い瞳の鋭さが、胸の奥をざわつかせた。


 午後。廊下を移動する際、不意に視界の端を淡い藤色がかすめた。ロイド・ウィステリア。授業への出席率が低い彼は、教室ではもういないものとされていた。

 

 ロイドは窓辺に腰掛け、いつもと違って長い髪を後ろで一つに括っていた。そのせいで露出した細い首元で、左耳の深緑の耳飾りが揺れている。窓から差し込む光を受けて、その石が一瞬、生き物のように妖しく瞬いた。


 ロイドと視線がぶつかる。彼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ細められた瞳が、アイリスの全身を「透視」するかのように嘗め回した。

 

 耳元の石が、チリ、と小さく鳴った気がした。彼もまた、すぐに興味を失ったように空へと顔を逸らしていった。


 終業の鐘が鳴る頃、アイリスの体調はもはや無視できない限界に達していた。


 頭が、割れるように痛い。こめかみの奥を、熱した杭で打ち続けられているような拍動。黒板の文字は完全に混ざり合い、指先は氷のように冷たくなっている。


(……やばい。これは、本当にまずいかも)


 がたがたと震える肩を抱き、なんとか椅子を引いて立ち上がった。その瞬間だった。


 視界が、ぐにゃりと大きく歪んだ。

 床が吸い込まれるように遠ざかり、天井が恐ろしい速さで迫ってくる。三半規管が機能を停止し、自分の身体がどこを向いているのかさえ分からなくなる。


「――おい」


 低い、硬質な声がすぐ傍で響いた。

 顔を上げると、ギルバートが目の前に立っていた。いつもの不遜な距離感ではない。手が届くほどの、あまりに近すぎる距離。


「顔色が最悪だ。立てるのか」

「大丈夫、です……。ちょっと、立ちくらみで……」


 強がって一歩踏み出そうとした。だが、膝から下が、他人の身体のように感覚を失っていた。


「……っ!」


 崩れ落ちるアイリスの身体。床に叩きつけられると思ったその直前、風を切るような鋭い動きで、強靭な腕が彼女の腰と肩を支えた。


「無理を……するなと言っただろうが!」


 切迫した、怒鳴りつけるような声。普段の冷徹な彼からは想像もつかない、剥き出しの感情。


「おい、アイリス! アイリス・ヴァレリア!」


 王族が。あの完璧を地で行く第二皇太子が、公衆の面前で一人の令嬢の名前をなりふり構わず叫んでいる。


 その必死な顔。その必死な声。


(ああ……あんな、子供みたいな顔もするんだ……)


 そんな場違いな感想を最後に、アイリスの意識は、底なしの暗闇へと沈み込んでいった。


 どれくらい眠っていたのだろう。

 夢の中で、誰かにずっと名前を呼ばれていた。


 その声は酷く痛切で、何かを乞うように震えていて。けれど、アイリスにはそれが誰の声なのか思い出せなかった。


 不意に、鼻先をふわりと甘い香りがくすぐった。甘くて、少しだけツンとする刺激。喉の奥がじんわりと温まるような、記憶の奥底に眠っている匂い。


 重い瞼をゆっくりと持ち上げる。


 視界に飛び込んできたのは、見慣れた寮の自室の天井だった。夕陽がカーテンの隙間から差し込み、部屋を橙色に染めている。


「……お嬢様」


 掠れた声に反応して、枕元から静かな呼び声がした。

 そこにいたのは、ルイだった。


 いつもの制服を脱ぎ、部屋着に近い柔らかな装いで、彼は湯気の立つカップを大切そうに両手で包んでいた。


「……ルイ? ここは……」

「寮の自室です。殿下がここまでお運びになりました」


 ルイの声は、表面上は穏やかだった。けれど、その指先がカップを握りしめる強さは、尋常ではなかった。


「ハニージンジャーです。蜂蜜は少し多めです」


 一口含むと、熱い液体が食道を通り、凍えていた内臓に生命を吹き込んでいくようだった。


「……りんごの匂いもする」

「コンポートも作ってあります。もう少し動けるようになったら、召し上がってください」


 熱と、甘さと、愛着。この匂いは、アイリスが幼い頃に熱を出したとき、いつもルイが作ってくれた「特別」な匂い。


「……ありがとう。やっぱり、ルイがいないと駄目ね」


 アイリスがふらつく手で彼の袖を少しだけ掴むと、ルイはほんの一瞬、呼吸を止めた。


「……ええ。お嬢様は、すぐ無理をなさる」


 その声は優しかった。けれど、彼がアイリスの顔を覗き込んだとき、その黄色い瞳の奥に揺らめいたのは、深い、底の見えない闇のようだった。布団の端に、温もりが伝わり、瞼が自然と重くなる。


「……ルイ」


 呼んだのは、たぶん寝言だ。


 返事はない。けれど、すぐそばに、確かな気配がある。その耳元で、低く、静かな声が落ちた。


「いつまでも、あなたのそばにいますよ」


 優しい声だった。


「……あなたが、離れようとしなければ」


 その言葉の真意を量る間もなく、アイリスは再び、深い眠りの淵へと誘われていった。


 アイリスは知らなかった。その日、ルイが健診を中途で切り上げ、彼女を運んできたギルバートをどれほどの殺気で追い出したか。そして、彼女が眠る間、その髪を一房ずつ、祈るようにずっと撫で続けていたことを。


 

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