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第7話 昨日の後始末と、生乾きの問題




 翌朝の学園は、いつもと同じようで、少しだけ落ち着きがなかった。登校途中の回廊では、あちこちで女子生徒たちが身を寄せ合い、昨日の「事件」について声を潜めている。

 

「ねえ、聞いた? 昨日の放課後、中庭で魔力の暴発があったんですって」

「結界の警報が鳴ったらしいわよ。それに、ギルバート殿下が動いたって……」

「どこかの不届き者が、殿下にこっぴどく焼かれたっていう噂よ?」

 

 回廊を渡る風に乗って届くのは、尾ひれがつきすぎて原型を留めていない噂話ばかりだ。アイリスは、あくびを噛み殺しながらその横を通り過ぎる。

 

(不届き者は私か、それとも月光草かしら……。とりあえず、誰も焼かれてはないんだけどな)

 

 内心で盛大に突っ込みを入れるが、口に出せるはずもない。今の彼女にとっての懸案事項は、目の下のクマと、カバンの中で大切に、かつ厳重に保管されている「それ」だった。

 

「おはよ、アイリス。……って、うわ。何その顔、ひどい寝不足?」

 

 教室に入ると、友人たちがアイリスの顔を覗き込んで声を上げた。

 

「ちょっとね……。昨日の放課後から、ずっと『格闘』してたから」

「格闘? 何と? ……まさか、さっきの噂の魔力暴発に関係してるとか言わないわよね?」

 

 冗談めかした問いに、アイリスは一瞬だけ瞬きをして、それから力なく肩をすくめた。

 

「まさか。私がそんな大事件に関われるわけないじゃない。……昨日は、その、ちょっと『落ちない汚れ』と戦ってただけよ」

「汚れ? なにそれ、掃除当番でもないのに」

「……まあ、家庭の事情的な?」

 

 アイリスはにこっと笑って、それ以上は語らなかった。友人たちは「相変わらず変なことに凝ってるのね」と納得したように笑い、話題はすぐに別の流行りへと移っていった。

 

(家庭の事情っていうか、お財布の事情なんだけど……)

 

 アイリスはそっとカバンに触れた。

 

 昨夜、寮に戻ってから、彼女は震える手でハンカチを洗った。絹のような上質な生地を傷めないよう、けれど泥汚れは完璧に落とすべく、魔法学園の生徒とは思えないほど繊細に、慎重に。

 

 そんなことを正直に話したって、しょうがない。それなら笑いに変えた方がマシだ。そんな軽いやり取りの裏で、ひとつだけ確かなことがあった。


 今朝、いつも迎えに来るはずのルイが、寮の前に現れなかったのだ。

 

 几帳面で、時間に厳格なルイが遅れるなどあり得ない。

 深い事情があるのか、あるいは昨日、泥だらけでボロボロの制服のまま帰宅した主人の姿に腹を立てているのか。

 理由は分からないが、「そこにいるはずの存在がいない」という事実は、思った以上にアイリスの日常を揺らしていた。その影響は、少し遅れて、意外な形で現れた。

 

「……やっぱり、自分じゃだめかも」

 

 廊下の窓に映る自分の姿を見て、アイリスはため息をついた。

 

 指に絡む、癖のある長い髪。普段はルイが、引っ張る力も結び目の位置も完璧に整えてくれている。それを今朝は自分でやったのだが、ハーフアップは左右が揃わず、どことなく落ち着かない。昨夜の無理が、髪の毛先一歩にまで「締まりのなさ」として現れているようだった。

 

 その時、後ろから静かな、無駄のない足音が近づいてきた。

 

「……お嬢様」

 

 振り返ると、そこにルイが立っていた。視線が合った瞬間、彼はわずかに瞳を逸らす。その端正な顔立ちには、夜を徹して悩み抜いたような、暗い影が落ちていた。

 

「ルイ。今朝、来なかったじゃない」

 

 空気が重くなる前に、アイリスはあえて軽く、冗談めかして笑った。

 

「あなたが来てくれないから、髪をまとめるのが大変だったのよ? ……もしかして、私がボロボロで帰ってきたのが、そんなに心配だった?」

 

 ルイの肩が、目に見えて落ちた。

 

「……そういうことでは……いえ、そうなのかも、しれません」

 

 視線を床に落としたまま、彼は絞り出すように言った。

 昨日、泥だらけの姿で寮に帰ってきたアイリスを見て、ルイは酷く驚いた。いや、驚き以上に、彼は自分を責めたのだ。自分の見知らぬところで、彼女が一人で危険に飛び込ませてしまった。その事実が、従者としての彼の矜持をズタズタに引き裂いていた。

 

「……昨日は。ご無事で、本当によかったです」

 

 叱責も、言い訳もない。ただ、抑え込まれた懸念だけがそこにあった。言葉にできない「もしも」を、彼は一人で反芻していたのだろう。

 

「……心配かけて、ごめんね。ルイ」

 

 アイリスが静かに、取り繕わない声で返すと、ルイは一瞬目を見開いた。けれど、すぐに深く頭を下げ、主人の前から顔を隠す。

 

 言葉は続かなかったが、二人を隔てていた硬い膜が、少しだけ薄くなった気がした。

 

「……お直しします。あまりにも、見るに堪えませんので」

 

 沈黙を破ったルイの声は、いつもの冷静さを取り戻そうとして、少しだけ震えていた。彼はアイリスの背後に回り、慣れた手つきで不格好な結び目を解いていく。

 

 ルイの指先が、アイリスの髪を丁寧に梳いていく。

 その心地よさに身を委ねながら、カバンの中の「爆弾」を思い出し、アイリスは再び小さな溜息をついた。


 

 放課後、回廊を曲がったところで、ひょいと視界に藤色が入った。壁際に、一人分の影が落ちている。長い髪が肩にかかり、だぼだぼの制服を着崩した青年が、壁に寄りかかっていた。


 立ち方に、力みがない。まるで、最初からそこにいるのが当然だったかのようだ。


「ごきげんよう、アイリスちゃん」


 ロイド・ウィステリアだった。いつもの、何を考えているか分からない笑み。けれど、その色素の薄い瞳だけは、やけに静かにアイリスを見透かしていた。


「昨日の、あれ」

「……あれ?」


 思わず聞き返すと、ロイドは楽しそうに目を細めた。


「うん。あれ」


 軽く伸ばした指先が、床を指す。正確には、床そのものではなく――その向こう。


「見事だったね。根っこちゃん」

「な、なんですかそれ!」

 

 反射的な反応だったが、回廊に響いた声が、少しだけ浮いて聞こえた。ロイドは気にした様子もなく、首をわずかに傾ける。


「土壇場で、ああいう方法を選ぶところ」


 説明というより、確かめるような口調だった。さらりと続く言葉に、昨夜の光景が、そのまま脳裏をよぎる。判断する間もなく、手が動いた瞬間。


「君らしい選択だと思った」


 評価とも、分析ともつかない声。肯定とも否定とも取れる余地を残したまま、ロイドはそこで言葉を切る。そして、本当に何でもないことのように、付け加えた。


「君のそういう性格、僕は好きだよ」

 

 回廊の空気が、ほんの一拍、止まった。足元に落ちる光の位置が、わずかにずれる。心臓が、一度だけ、はっきりと脈を打った。


「……それ、褒めてます?」


 少し間を置いて、問い返す。


「褒めてるつもり」


 即答だった。言い直す様子もなく、言葉はそこで終わる。


「そもそも、どうして……それを……」

「アイリスちゃん、知らない方が楽なこともあるよ」


 そう言って、ロイドは色素の薄い瞳を細めた。笑みは残っているが、先ほどまでとはどこか違う。彼はそれ以上何も言わず、軽い足取りで去っていく。その背中は、誰の介入も許さないほど軽やかで、孤独で謎めいていた。


 

 穏やかなオレンジ色の光が廊下を染め始める。アイリスは意を決して、彼がいそうな場所へと向かった。回廊を渡り、中庭に出ると、ひときわ目立つ金色が視界に入った。

 

 その周囲には、自然と空白が生まれている。他の生徒たちは遠巻きに彼を眺めるだけで、近づこうとはしない。


 ギルバート・ラカル・ルクレール。

 

 夕暮れの下に立つ彼は、昨日の放課後とは印象がまるで違っていた。背筋はまっすぐに伸び、歩く人々との距離も、過不足なく保たれている。近づきがたいが、拒む気配はない。アイリスは足を止めたまま、その姿を見つめた。

 

(……昨日の人なのよね、やっぱり)

 

 昨日の光景が重なる。燃えるような炎と風を背負い、迷いなく前へ出た背中。同じ人物のはずなのに、そこにある空気はどこまでも「完璧な王」だった。

 

「……おい」

 

 低い声に呼び止められ、反射的に背筋が伸びる。視線を向けると、ギルバートがこちらを見ていた。彼の方からアイリスを認識し、歩み寄ってくる。

 

「昨日は、失言だった」

 

 言葉は短く、唐突だった。アイリスは一瞬、返す言葉を探して口をわずかに開く。

 

「普通の令嬢は、危険なことを怖がる。だから、守るべきだと思った……すまないことをした」

 

 ギルバートは中庭の先を見ながら、静かに言葉を継いだ。アイリスは驚いた。あのプライドの高い皇太子が、正面から謝罪を口にするなんて。

 

「……俺の認識を、押し付けていた」

 

 その声音に、昨日のような強引さはない。命令口調でも、断定でもない。代わりに、わずかな戸惑いを含んだ間が挟まっていた。

 

 ギルバートは言葉を続けず、一度視線を外す。その様子は王族というより、等身大の十六歳の少年のようにも見えて、アイリスは思わず口元を緩めた。

 

「ギルバート殿下……」

 

 思わず名を呼んだ、その時。

 

「お前は」

 

 一拍、間が落ちる。ギルバートの言葉の続きが来る前に、アイリスのほうが耐えきれずに動いてしまった。

 

「これ……昨日の……!」

 

 鞄を開き、中から大切に持ってきた布を取り出す。丁寧に畳まれた、刺繍入りのハンカチ。アイリスはそれを差し出しながら、申し訳なさに少しだけ視線を逸らす。

 

「……生乾きですけど」

「はぁ?」

 

 ギルバートの眉が、ぴくりと動いた。怒気というより、予想していなかった報告を受けたことへの困惑だ。

 

「だって、昨日帰るの遅かったし! 昨夜、一晩中頑張ったけど乾かなかったんだもん!」

 

 周囲の空気が、すっと静まる。

 

 彼は差し出されたハンカチを受け取り、しばらく無言で、まだ微かに湿り気を帯びた布地を見つめてから、深く息を吐いた。

 

「……気にするところが、そこか」

「だって高そうで! 変な匂いがしたら不敬罪になっちゃうと思って……!」

 

 必死な言い訳に、ギルバートはふっと、本当に微かにだけ口角を上げた。

 

「お前はやっぱり、他の令嬢とは違うらしいな」

 

 声は低く、淡々としている。そして。

 

「……ヴァレリア」

 

 初めて「おい」ではなく、家名で呼ばれた。その響きに、アイリスは心臓が跳ねるのを感じた。

 

「はい?」

「……いや。……明日は、乾かしてこい」

「それはもう、パリッパリにしてきます!」

 

 ギルバートは呆れたように首を振って歩き出す。

 

 昨日と同じ空、同じ学園。けれど、歩き出したアイリスの足裏に伝わる感触は、今朝よりもずっと、確かで力強いものに変わっていた。



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