第56話 それでも、君を愛している
窓の外は、もう春だった。
冬の名残を引きずった冷たい風は去り、日差しだけが先に柔らかくなっている。中庭の木々には、まだ芽吹ききらない緑が滲み、空気には、どこか落ち着かない軽さが混じっていた。
教室も、同じだった。
「ねえ、もう卒業だよ?」
「信じられないよね」
「卒業パーティー、どうする?」
あちこちで、そんな声が飛び交っている。進路、家の話、舞踏会の噂。いつもより少し高い声。少し早い笑い声。
アイリスは、机に頬杖をついたまま、それをぼんやりと聞いていた。
「アイリスはどうするの?」
隣の席の友人が、何気なく聞いてくる。
「ギルバート殿下を待ってるんでしょ? 王家も、少しずつ落ち着いてきてるって聞いたよ」
その言葉に悪意はない。けれど、その一言で、教室の視線が一瞬だけこちらに集まった。冗談めかした言葉に、アイリスは曖昧に笑った。
「どうだろうね」
制服で出席する、なんて言えば、きっと全力で止められる。卒業パーティーでは、ペア同士が“互いの色”を身につけるのが伝統だ。それは祝福であり、選択の表明でもある。
笑いが起きる。アイリスも、つられるように小さく笑った。
「まだ、何も決めてないよ」
本当のことだった。
教室の窓から差し込む光は、暖かいのに、どこか頼りない。卒業まで、あと少し。
騒がしい話題の中に身を置きながら、アイリスの意識はいつも一歩だけ遅れていた。
あの日――ギルバートが言葉を置いていった日のこと。返事を求められなかった告白。卒業式には戻ってくる、という約束とも宣言ともつかない声。
意味は、分かっている。重さも、覚悟も、彼が抱えているものも。だからこそ、決められない。
ルイの様子は、少しずつ落ち着いてきていた。
以前のような張りつめた忠実さは影を潜め、必要以上に先回りすることも減っている。それでも――時折、視線を感じる。
直接は見てこない。けれど、隠れるように、待っている。私の選択を。
全力で恋をしなさい。
あの夢の中の言葉が、ふと胸をよぎる。
家柄も、立場も、関係も、全部無視して。ただ、自分の気持ちだけを見る。それができたら、どれほど楽だっただろう。
そんなことを考えていた放課後。部屋に戻ると、ふたつの大きな箱が届いていた。丁寧に封がされ、差出人の名はない。
蓋を開けた瞬間、息をのむ。
柔らかな光を含んだ、シャンパン色のドレス。
胸元には、深い赤――ルビーの装飾が控えめにあしらわれている。視線を奪うのに、主張しすぎない華やかさ。王族の隣に立つにふさわしい一着。
そして、その下。対照的な、漆黒のドレス。
装飾は最小限で、線も色も静かだ。ただ立っているだけで、場を引き締めるような存在感。侯爵家の格式と、揺るぎない従者の色。
どちらも、卒業パーティーのためのものだと分かる。
そして――どちらが、誰の選択肢なのかも。
ギルバートを選べば、生活は大きく変わるだろう。華やかな生活の裏での王族の責任。重圧。判断。それを、隣で受け止める未来。
ルイを選べば、今の延長線にいられる。穏やかな日々も、侯爵令嬢としての立場も、日常も、大きくは変わらない。
でも、私は本当に、それでいいの?
問いは、まだ形にならない。二着のドレスは、静かに並んだまま、何も答えない。春は、もうすぐそこまで来ている。答えはまだ見つからない。
部屋の中にいると、考えが同じところをぐるぐる回ってしまう気がして、アイリスは上着を手に取った。
夜は、もう深くない。冬の名残はまだ空気に残っているけれど、日没は確実に遅くなっていた。
校舎の外に出ると、空は紫がかった色をしている。昼と夜の境目が、曖昧なまま引き伸ばされたみたいな時間だった。
「……久しぶりだね」
ロイド・ウィステリアは、そこにいた。
相変わらず、制服はどこかだらしなく見えるのに、不思議と崩れていない。
秋を迎えた頃から以前にもまして、研究室に籠もっているという噂通り、少し痩せたようにも見えた。
「久しぶり」
アイリスはそう返した。言葉は自然に出たけれど、胸の奥で、小さく波紋が広がる。あの日以来、魔法陣の事故のあとから、彼とまともに言葉を交わすのは、これが初めてだった。
ロイドは、視線を彼女から外さない。探るようでも、確かめるようでもない。ただ、静かに見ている。
「……君、悩んでるでしょ」
断定でも、問いでもない。
いつものような天気の話をするみたいに。
「どうして、分かるの?」
アイリスは首を傾げる。
「未来が見えるから、って言ったら信じる?」
冗談めかした言い方なのに、妙に否定できなかった。アイリスは、ほんの一瞬だけ考えてから聞き返す。
「じゃあ……世界が終わることも?」
「知ってるよ」
即答だった。その軽さに、逆に息を詰める。ロイドは、空を見上げる。紫色の空は、どこまでも静かだ。
「でもね」
視線を戻し、アイリスを見る。
「君の未来は、予想外だった」
責める調子ではない。むしろ、どこか困ったような、でも穏やかな声音だった。
「君は何度も選択して、いくつもの未来を変えてきた。そんな自覚はないだろうけど」
風が、二人の間を抜ける。ロイドの外套が、わずかに揺れた。
「ずっと君を見ていたんだ」
苦しむ植物の前で無茶をしたこと。学園祭で受け入れ、後夜祭で距離を置いたこと。誰かが期待して、誰かが選ばれるはずだった場面。アイリスは学園での日々を思い出、はっとする。
「……見てたの?」
「うん、見ていた」
即答だった。誇らしげでもなく、特別でもない調子で。
「君が何を選ばなかったかも、全部」
夜風が、制服の裾を揺らし、バラバラだった記憶の欠片が、ロイドという一つの軸に向かって収束していく。
いつも絶妙なタイミングで差し伸べられた手。ふとした瞬間に感じていた、射抜くような、けれど祈るように静かな視線。あの時の不可解な助言も、突き放すような態度の裏にあった微かな震えも。彼はいつだって、アイリスが選ぶ未来のすぐ傍に、影のように寄り添っていた。
「全てが正しかったかどうかは、分からない。でも、その選択で救われた未来が、確かにあった」
ロイドは、そこで一度言葉を切った。
「逆に言うとね」
こちらを見る。
「君の選択だけは、最後まで見えなかった」
責める響きはない。困惑とも、諦めとも違う。
「だから、怖かった」
その一言だけが、静かに落ちた。
未来でも、世界でもなく。“今”の感情として。
「僕の気持ちを聞いてくれる? アイリス」
ただ真っ直ぐに見つめる色素の薄い瞳。その瞳は月の光を反射して、淡く煌めく。アイリスは、胸の奥で小さく息を詰める。
「たとえ君の答えが間違っていたとしても」
少しだけ言葉を選んで、ロイドはアイリスを見つめる。
「たとえ、その先で世界が壊れるとしても」
声は低く、静かだった。
「僕は、君を愛しているよ」
告白だった。でも、縋る響きはない。答えを迫る気配も、未来を縛る意志もなかった。
「それが君が選んだ世界の結果なら、僕は喜んで受け入れるよ」
アイリスは、すぐに何も言えなかった。
胸の奥が、静かに揺れている。それは、これまで誰に向けた感情とも違う、深く、確かな温度だった。
「……ロイドは、ずっと見守っていたんだね」
ようやく、そう言うと、彼は少し困った顔をした。
「見守るっていうより……君から目が離せなかっただけ」
そう言って、彼は少しだけ距離を詰め、触れるか触れないかの距離でアイリスの指先に手を添えた。夕暮れと夜の境目、曖昧な光の中で、ただ、二人は並んで立っていた。
未来は、まだ確定していない。
でも、この時間だけは、確かにここにあった。




