第55話 扉を開けて
研究室の扉は、半分だけ開いていた。閉じこもっている、というほどでもない。かといって、外へ出る気配もない。
ロイドは、窓際の机に腰掛けたまま、魔法陣の記録紙を一枚ずつめくっていた。
紙の端は少し黄ばんでいる。書かれているのは、完成形ではない式ばかりだ。途中で止まり、線が途切れ、書き直された痕跡が重なっている。
授業には、ほとんど出ていない。今に始まったことではなかった。天才だから。ウィステリアだから。もともとそういう生徒だ、という認識が、周囲にはできあがっている。
誰も、不思議に思わない。
ロイド自身も、理由を説明するつもりはなかった。説明すれば、言葉にしなければならない。言葉にすれば、輪郭がはっきりしてしまうからだ。
ギルバートがいなくなる未来。
ルイが過剰に忠実になっていく過程。
アイリスが「選ばない」選択を重ねていく軌道。
すべて、見えていた。すべて、当たっている。
(……だから、黙った)
介入すれば、もっと悪い未来が分岐する。希望を与えれば、その分だけ失われるものが増える。ロイドは、それを知っている。誰よりも。だから、観測者でいることを選んだ。動かないことを、責任だと思ってきた。
何度も見た未来。修正しても、回避しても、形を変えて辿り着く終点。淡々とした確認だった。
恐怖も、絶望も、もう湧かない。
ただ、ひとつだけ。
その未来に、アイリスの姿がない。
最初は、ただの「興味」だった。
彼女は世界の中心じゃない。けれど、彼女が動くと未来の輪郭がわずかに揺れる。決定していたはずの些細な結果が、ほんの数拍、遅れる。
その「ノイズ」が、退屈な世界の中で、妙に目を引いた。だから、少しだけ手を出した。
観測対象への、ほんの気まぐれな干渉。
街へ連れ出してみたり、思わせぶりな言葉でからかってみたり。彼女が戸惑い、怒り、笑うたびに、予測できない反応が返ってくるのが面白かった。「デート」の真似事をして、彼女の心がどう揺れるかを試すのは、実験のような娯楽だったはずだ。
それでも、“問題にならなかった”。
行き着く終わりは変わらない。自分が飽きれば、また元の距離に戻れる。観測者として、安全圏から眺めていればいい。
――そう、思っていた。
けれど、あの事故が起きた。あれは、本来起きないはずだった。被害は出ない。軽微な暴発。誰も傷つかず、問題にならずに終わる。そういう未来だった。
(……君が、いた)
記録にはなかった。未来の中にも、なかった。
あの時間、あの場所に、アイリスが立っている未来だけが、抜け落ちていた。
だから――間に合わなかった。
魔法を展開する判断は、最速だった。陣の構造も、反転も、封じ方も、完璧だった。それでも、衝撃の先に、彼女がいた。
(君は、ここにいるはずじゃなかった)
あのとき初めて、未来じゃなく、「現在」に恐怖した。
もし、もう一歩遅れていたら。
もし、あの衝撃が少し強かったら。
――未来を見る前に、失っていた。
荒野。世界が続いているか分からない場所。自分だけが立っている光景。いつもと同じはずなのに。最近、その中に「最初から、誰もいない」違和感が混じる。
(……君がいない未来は、こんなだったか?)
違う。これまで見てきた未来では、彼女はもっと曖昧だった。輪郭がぼやけていて、選択の先にいるのか、いないのか、分からない存在だった。それが今は、はっきりと「不在」になっている。
(予測できない存在が、消える未来)
その可能性だけが、未来視の手前で、重く引っかかっている。
その存在は、未来を変えたわけじゃない。
ただ、「予測できないまま、そこにいた」。
それだけで、未来は一度、壊れかけた。
観測者でいる限り、介入は“例外”であるべきだ。そうしなければ、より悪い未来に枝分かれする可能性を、嫌というほど知っている。優しさで踏み込めば、取り返しのつかない結果になることもある。
それなのに、自分は今は、 “未来を壊すこと”よりも、“未来の前で彼女を失うこと”を恐れている。
知ってしまったのだ。
予測できない存在を、予測の外側で、失う恐怖を。
気まぐれな実験対象だったはずの相手が、いつの間にか、観測者の心を揺さぶる唯一の変数になっていたことを。
ロイドは、ゆっくりと息を吐く。
研究室の扉は、まだ開かない。
彼は、まだ動かない。
観測者でい続けることに、ほんのわずかな亀裂が入ったことだけは、もう誤魔化せなくなっていた。




