第54話 全力で、恋をしなさい
それは、何かが起きる夢ではなかった。
目を開けると、いつもの場所だった。境界のない空間。空とも水面ともつかない、輪郭の曖昧な世界。
「やあやあ」
どこからか、気の抜けた声がした。
「また会ったね。――って言うほど、久しぶりでもないか」
振り向くと、神様は相変わらずだった。楽しそうでもなく、深刻そうでもなく、ただ当然のように“そこにいる”。
「世界の終わり、だいぶ近づいてきたよ」
今日の天気の話でもするように、あっさりと言う。
「どう? 恋、してる?」
「……いきなりですね」
「だって、君が考えてることって、だいたいそれでしょ」
肩をすくめて、覗き込むように顔を寄せてくる。
「気になる人はいる。でも、それが恋なのか、同情なのか、責任感なのか……自分でも分からなくなってる。最近の君、ちょっと暗いよ。君らしくない」
図星だった。
その気持ちは言葉にしてみると、余計に曖昧になる。守りたい気持ちも、離れたくない気持ちも、全部同じ形をしている気がして。これが恋なのか、まだ名前がつかない。
「まあ、無理もないか」
神様はあぐらをかいて、空を見上げる。
「だってさ。君の選択ひとつで、国同士が戦争を始めるかもしれないし、誰かの力が抑えきれなくなって、暴走するかもしれない」
軽い調子なのに、言葉の意味だけが重くのしかかる。
「あるいは、孤独のまま、世界の続きを否定しちゃう人もいるかもしれない」
神様は、こちらを見る。その瞳は、すべてを見通しているようで、何も映していないようでもあった。
「――でもね」
わざとらしく腕を組んで、一言。
「それ、君のせいじゃないよ」
断言じゃない。慰めでもない。
ただ、事実を淡々と整理するみたいな口調。
「世界を壊すのは魔王だ。君じゃない」
はっきりと、告げる。
「君がどんな選択をしても、それが“正しい”かどうかなんて、誰にも分からない。結果的に世界が壊れたとしても、それはトリガーを引いた奴の責任だ。君が背負う必要なんて、これっぽっちもないんだよ」
くすっと、笑った。
「正しい選択なんて、最初から存在しないんだ」
責任を押しつけるみたいな言い方じゃない。
むしろ、重すぎる荷物を降ろさせるための言葉だった。
「君はただの十八歳の女の子だ。救世主でも、調整者でもない。だから間違えてもいい。例え世界が壊れても、そのときはその時」
軽い調子で、とんでもないことを言う。
けれど、その無責任さが、今のアイリスには一番の救いだった。
「もう一度言うよ。全力で、恋をしなさい」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「いっぱい考えて、悩んで、それでも自分で選んだ結果なら――後悔しないでしょ?」
アイリスは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
正しさではなく、想いで選んでいいのだと、許された気がした。
そして、最後に神様は悪戯っぽく笑った。
「なにせ僕、恋の神様だからね。君が素直になれば、もしかしたら……いいことあるかもよ?」
その言葉が冗談なのか本気なのか、分からないまま。
夢は、ふっと途切れた。
目が覚めたあとも、あの言葉だけは残っていた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。昨日までと同じ景色なのに、見え方が少しだけ違っていた。
正解はない。選んだ結果が、世界になる。
それでも、自分の気持ちを、選んでもいい。
アイリスは、胸の奥に灯った小さな熱を、そっと手で確かめる。
――全力で、恋をする。
それは、世界を救うことよりも、ずっと怖くて、ずっと人間らしい選択だった。けれどもう、迷いはなかった。




