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第53話 それは、君の幸せな未来




  季節は、確実に巡っていた。窓辺に差し込む日差しは柔らかく、吐く息の白さももう消えている。


 学園の廊下を歩いていると、ふと、教室の中から弾んだ声が聞こえてきた。


「ねえ、この前の論文読んだ?」

「ああ、『魔力特性の再定義』だろ? あれ面白かったな」


 男子生徒たちが、興奮気味に話している。


「闇属性の安定化理論、すごかったよな」

「今まで不安定だと思われてたけど、実は一番繊細な制御ができるって話だろ?」

「そうそう。あれが実用化されれば、医療とか建築の結界技術がガラッと変わるぜ」


 そこに、忌避感や恐怖はない。あるのは純粋な知的好奇心と、新しい可能性への期待だけだった。


 アイリスは足を止め、その会話に耳を傾けた。


 世界は、少しずつ変わっている。かつて「悪しきもの」とされた力が、理解され、受け入れられようとしている。


 ふと、隣を見る。ルイは、表情一つ変えていなかった。

 聞こえていないはずがない。彼自身の力はに関わる、希望に満ちた話だ。けれど彼は、興味を示す素振りさえ見せず、ただアイリスの足元に視線を向けていた。


「……お嬢様? どうかなさいましたか」


 不思議そうに首を傾げるその姿に、アイリスは胸の奥が冷えるのを感じた。――見えていない。


 世界はもう、彼を拒絶していないのに。彼自身が、世界を見ることをやめてしまっている。


「……ううん、なんでもない」


 アイリスは歩き出す。ルイは恭しくそれに従う。その完璧な従者の仮面の下で、彼が自らを守るために「鳥籠」の鍵を閉め続けていることに、アイリスだけが気づいていた。



 その日の午後、屋敷に戻ったアイリスは、自室の机で一通の手紙を開いていた。


 封を切ったばかりの便箋の横には、丁寧に包まれていた写真が一枚。


 ――お見合い写真。


 格式張った服装。少し緊張した表情の青年。家名と経歴が、きっちりと添えられている。


「……ついに、来たかぁ」


 言葉だけ聞けば大仰だけれど、声の調子はどこか軽い。

 十八歳。貴族としては、遅すぎるわけでも、早すぎるわけでもない。


 アイリスは写真を眺めながら、どこか他人事のように考えていた。


 もしあの夢を見ず、世界の行く末も何も知らなかったら。自分もいつかはこうして、誰かを「選ぶ側」になるのだろうか。ぱたんと、写真を閉じた、その音は小さかった。


「……お嬢様」


 背後から聞こえた声に、アイリスは振り返る。いつの間にか、ルイが立っていた。扉のすぐ内側。その距離より、いつもよりも近い。


「なに?」


 軽く返す。からかうつもりも、隠すつもりもない。


「ちょうどね、実家からお手紙。ほら、ついに私にも回ってきたみたい」


 冗談めかして言いながら、閉じた写真を軽く持ち上げる。その瞬間。ルイの表情が、はっきりと崩れた。


 ――言葉が、抜け落ちたみたいに。


 目が見開かれ、呼吸が一拍遅れる。驚き、というより――世界が足元から崩れ落ちたような衝撃。


「どうしたの? そんな顔して。私がいなくなっちゃうの、寂しい?」


 笑って言ったはずだった。いつもの調子で。けれども、返ってきたのは沈黙で、やっと絞り出された声はかすれていた。


「……いなく、なるんですか」


 疑問形なのに、問いかけになっていない。答えを求めているというより、絶望を確認しようとする声。


 その響きに、アイリスの確信は決定的なものになった。


「ちがうちがう。まだ話が来ただけ。決まったわけじゃないよ?」

「……そう、ですか」


 言葉は丁寧なのに、どこか上の空。そして、何も言わずにふらふらと部屋を立ち去っていく。


 その背中を見送りながら、アイリスは拳を握りしめた。


 ルイの世界は、いつの間にか、とても小さくなっている。


 世界は優しくなっているのに、彼はまだ「傷つけられる自分」という過去に閉じこもり、アイリスという「聖域」に依存することでしか息をしていない。


 気がついてしまった事実に背筋が凍る。


(……これ、間違ってる)


 自分が隣にいて、「守ってあげる」ことで、彼が世界へ踏み出す機会を奪っているのだとしたら。


 もしこのまま、自分が彼の世界のすべてになってしまったら。


 それは、幸せじゃない。それは、共倒れだ。この選択は、彼を傷つけるかもしれない。彼が、絶望するかもしれない。


 それでも、彼の未来のために、私が「聖域」であることをやめなきゃいけない。


 選ぶのは、拒絶ではない。彼の世界を、もう一度広げること。そのために――突き放すという覚悟が、胸の奥で静かに芽を出した。



 最初からあからさまに距離を置こう、と決めたわけではない。


 ただ、少しだけ。歩く速度を合わせるのをやめた。声をかける回数を減らした。いつも隣にあったはずの気配を、「当たり前」だと思わないようにした。


 それだけだった。ルイは、すぐに気づいた。


 問い詰めることはしない。理由を聞こうともしない。

 けれど、視線だけが、以前よりも長くアイリスを追うようになる。判断が、わずかに遅れる。先回りしていたはずの動きが、時折、止まる。


 不安そうな顔をしていることに、本人だけが気づいていない。


 アイリスは、それを見ないふりをした。


 慰めれば、また世界を狭めてしまう。手を伸ばせば、彼はそこに留まってしまう。だから、選ばない。今は、選択しない。


 その代わり、少しずつ。別の生徒と話す時間が増えた。

 学園祭で闇属性の研究をしていた生徒に、わざと声をかける。


「その研究、面白いね」

「本当ですか? でも、まだ実用性は……」

「ううん、きっと役に立つよ。ねえ、ルイもそう思うでしょ?」


 無理やりにでも、彼を会話に巻き込む。ルイは戸惑いながら、それでも主の言葉に従って短く頷く。


「……ええ。理論としては、興味深いです」


 それだけの会話。


 けれど、ルイの言葉を聞いた生徒の顔が、ぱあっと輝くのを、アイリスは見逃さなかった。


 世界の色が加わり、少しずつ広がっていく。

 特別な変化ではない。誰かにとっては、取るに足らない日常の一部だ。


 冬の冷えは、もう緩んでいる。空気は軽くなり、光の色が変わり始めた。どこか遠くで、誰かが呟いた気がした。


「……やっぱりね」


 その声は、祝福のようにも、確認のようにも聞こえた。


「君の選択は、世界を変える」


 それが誰の声だったのか、アイリスはまだ知らない。

 ただ、季節は春へ向かっていた。


 何かを選ばないままでも、時間だけは、確実に「卒業」へと進んでいく。

 



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