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第52話 たとえ君が、世界の敵になったとしても




 冬の寒さは、少しずつ角を丸めていた。


 吐く息はまだ白いが、凍るほどではない。朝の空気に、ほんのわずか、春の水気が混じっている。


 季節は、確実に前へ進んでいる。

 それでも、学園の日常は、静かに停滞していた。


 ギルバート・ラカル・ルクレールの姿は、もう見かけない。理由を口にする者も、詮索する者もいない。


 人は、意外と早く慣れる。いない人の話題は、少しずつ減っていき、空いた席は「そういうもの」として受け入れられていく。それが「日常」になりつつあるのが、かえって不気味だった。


 アイリスは、中庭を横切りながら、そのことを考えていた。


「お嬢様」


 すぐ横から、落ち着いた声がかかる。


「足元、お気をつけください。昨日、霜が残っていた場所です」

「ありがとう、ルイ」


 言われる前に気づいていたつもりだったが、素直に礼を言う。ルイはそれだけで満足したように、一歩だけ前に出た。


 いつからだろう。彼の立ち位置が、少しずつ前に寄ってきたのは。


 それは、むしろ、完璧だった。時間割。移動経路。人の流れ。アイリスが立ち止まりそうな場所、考えごとをしやすい瞬間。すべてを、先回りして整えてくれる。


 そのときだった。


 向かいから、数人の生徒が駆けてくる。談笑しながら、注意が散っている様子だった。


「――あ」


 アイリスが声を上げるより早く。ルイが、動いた。彼女の肩に触れる寸前だった生徒の腕を、強く制する。乱暴ではない。だが、はっきりとした拒絶の力だった。


「……っ、な、なんだよ」


 相手は平民の生徒だった。戸惑いと反発が混じった視線が、ルイに向けられる。


「前を見て歩いてください」


 声は低く、冷たい。温度のない刃物のような響き。


「あなたが触れていい存在ではありません」


 場の空気が、ぴたりと止まった。


「は……?」

「もし、お嬢様が怪我をされたら?」


 淡々とした口調だった。責めているわけでも、怒鳴っているわけでもない。ただ、事実を列挙するみたいに。


「軽い接触でも、打撲や転倒に繋がる可能性はあります。あなたは、その責任を取れますか」


 生徒は、言葉を失ったまま後ずさる。従者の分際で、と言い返す隙さえ与えない威圧感があった。


「……す、すみません」


 逃げるように、彼らはその場を離れていった。残された中庭に、冷たい風が吹き抜ける。


「ルイ?」


 アイリスが、戸惑い混じりに名を呼ぶ。彼は、すぐに振り向いた。さっきまでの氷のような表情が嘘のように、柔らかく緩む。


「大丈夫ですか、お嬢様。どこか、触れられてはいませんか」

「う、うん。大丈夫だよ」

「……それは、何よりです」


 安堵の息をつく彼を見て、アイリスは言葉を飲み込む。

 誰も叱らない。誰も問題にしない。ルイの行動は、正しかった。彼は、主を守っただけだ。


 ルイは、彼女の一歩後ろに立つ。いつもより、少しだけ近い距離で。忠実で、優しくて、非の打ちどころがない。

 だからこそ、誰も気づかない。


 彼が世界を遠ざけ、アイリスのための鳥籠を狭めていることに。そして、その忠実さが、いつか彼自身を縛り殺す鎖になるかもしれないことに。



 昼下がりの談話室は、まだ少し寒かった。


 暖炉の火は落とされ、窓際に射し込む光も柔らかい。春には遠いけれど、冬が終わりに向かっている気配だけが、空気の中に残っている。


「アイリスは、卒業後どうするの?」


 何気ない問いだった。茶器を片づけながら、同級生の一人が振り返る。


「進学? それとも結婚?」

「私は……侯爵家の仕事を勉強しなきゃ」


 そう答えながら、アイリスは自分でも少し不思議に思った。考えていない、というより——考えないで済んでしまっている。今の生活が、守られすぎているからだ。


「でも、婚約とかは?」

「噂くらいはあるでしょう?」


 くすくすと笑い声が混じる。他意のない、年相応の会話だ。


「……私、多分、結婚するかな」


 言ったのは、窓際に座る友人だった。特別に大きな声でもなく、照れた様子でもない。決心というより、報告に近い。


「え、ほんと?」

「相手は?」

「家同士の話?」


 いくつかの声が重なる。彼女は肩をすくめて笑った。


「すぐじゃないよ。でも、たぶんね」

「おめでとう」

「結婚かぁ、いいなぁ」


 その言葉は軽くて、でも祝福として十分だった。

 アイリスは少し遅れて、同じ言葉を口にする。


「おめでとう。……結婚式、呼んでね」


 視線が合う。相手は、ほんの一瞬だけ考える顔をしてから、頷いた。


「うん」


 会話はそれきり、別の話題に移ろうとする。けれど、アイリスはその流れを止めてしまった。


「ねえ」


 自分でも意外なほど、声は静かだった。


「結婚するって……どういう気持ち?」


 一拍、間が空く。問いが、少しだけずれていることに、全員が気づいた顔をする。


「気持ちって?」

「うん……なんて言えばいいんだろう……」


 アイリスは必死に考えながら、首を傾げる。


「うん。恋心って、難しいでしょ。顔に気持ちが書いてあるわけじゃないし、教科書みたいに答えを教えてくれるものでもないし」


 自分で言いながら、少しだけ笑う。うまく言えていないのは、分かっていた。


 ただ、今の自分とルイの関係に、名前をつけられないことへの焦りがあったのかもしれない。ギルバートとの関係も。そして顔を見せなくなった彼のことも。


 結婚すると言った彼女は、しばらく黙っていた。

 窓の外に視線を投げてから、ぽつりと言う。


「最初はね、恋かどうか分からなかったよ。親同士が決めていた結婚だったから」


 暖炉の火が、ほんの少し遠のく。


「でも……段々と、関係は変わっていって」


 言葉を探すみたいに、間を置く。


「いつのまにか味方が増えた、って感じかな」

「味方?」

「うん」


 彼女は、まっすぐにアイリスを見た。


「たとえ君が、世界の敵になったとしても」


 強い言葉だった。

 まるで、物語の一節のような。


「私は彼を信じるし、彼も私を守ってくれる。世界中を敵に回しても、二人なら大丈夫だって思えるの」


 アイリスは、その言葉をゆっくり受け取る。

 胸の奥で、何かが小さく、けれど確実に軋んだ。


 世界から守ることと、世界を敵に回しても隣にいること。

 似ているようで、それは決定的に違う。


「……なるほど」


 そう答えた自分の声が、どこか他人事みたいに聞こえた。

 会話はまた、別の話題へ戻っていく。笑い声も、机を叩く音も、いつも通りだ。


 けれどアイリスの中では、さっきの言葉だけが残っていた。


 隣にいること。対等な味方であること。

 それは、今の自分がルイとしていることとは、違う。


 ルイは「私」を守ろうとしているけれど、「私と世界」に向き合ってはいない。答えは、まだ出ない。


 ただ、問いだけが、静かに残ったままだった。

 



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