第51話 等身大の君に、別れを告げる
それから数日が経っていた。突然の手紙とともに呼び出された場所は、人気の少ない回廊だった。
冬の低い光が格子状に差し込んで、冷たい床に細長い影を落としている。その影はまるで、彼を縛り付ける境界線のようだった。
ギルバートは、いつもより口数が少ない。
視線を合わせようとしないわけではないが、その瞳はどこか遠く、得体の知れない焦燥に焼かれているように見えた。
――また、何か考え込んでいるんだろうな。
アイリスはそう思った。深刻な話ではあるのだろう。そして、彼はいつも、誰にも分け与えられない孤独を一人で抱え込んでいる。
「どうしたの?」
声をかけると、ギルバートは一瞬だけ言葉に詰まった。喉元まで出かかった何かを飲み込むように、短く、熱を帯びた息を吐く。
「……最近、わからなくなる」
それだけだった。説明も、理由も続かない。
「そっか」
アイリスは、少し考えてから、ふっと微笑む。彼の心の苦しみを少しでも溶かしたくて、その隣に一歩踏み出した。
「じゃあさ」
ギルバートの手を、両手で包み込む。指先から伝わる彼の体温は、冬の空気の中で驚くほど熱い。
「これ、勇気が出るおまじない」
アイリスが両手で包み込んだ“それ”に、指先が触れる。それは、いつしかから、アイリスが身につけるようになった、胸元の小さな宝石。
「だから……ギル、ギルは大丈夫だよ」
無邪気な励ましだった。彼を信じ切り、その高潔さを疑わない、残酷なまでに純粋な声音。
「貴方なら、きっと間違えない」
――その色を見た瞬間。
ギルバートの胸に、焼けるような鈍い痛みが走った。無邪気な励ましだった。信じ切っている声音。
紫。あの男の色だ。
自分が、知らない場所で。知らない形で。
彼女が誰かに支えられている証。そして、彼女自身も無意識のうちに、その色に「勇気」を委ねているという事実。
それが、喉の奥に苦く沈んだ。刺さるような痛みではない。己の無力さと、取り返しのつかない遅れを突きつけられた、最悪の自覚だった。
――ああ。俺は、いつだって一歩遅い。
この手で彼女を掬い上げる資格さえ、もう残されていないのか。王族としての判断も、責任の取り方も、これまで真剣に考えてきた。そして、答えを出してきた。
それなのに、彼女の隣に立つ理由だけは、まだ、きちんと言葉にできていない。ここで曖昧なままにしてはいけないと、分かっていた。もう時間がないのだ。「ただのギルバート」でいられる時間は、今、この瞬間しかない。
ギルバートは、ゆっくりと、震える拳を握りしめた。王族としてではなく、殿下としてでもなく。ただ、自分の居場所を見失いそうな十八歳の少年として。
「……アイリス」
呼びかける声は、思ったよりも低く落ち着いていた。逃げるつもりはない。勢いで押し切るつもりもない。
「君がそばにいると」
一度、言葉を切る。選ぶのは、慎重だった。
「俺は、判断を誤らずにいられる気がする」
それは、頼りきるという意味ではない。
責任を預けるということでもない。
けれど――支えとして、確かに存在している感覚。
「逆に言えば」
潤んだような、けれど鋭い視線がアイリスを射抜く。
「君がいなければ、俺は……きっと、違う選択をする」
良くも悪くも。正しさだけを選び続けて、肝心なものを、取りこぼす選択を。認められず、止められることもなく、大義のために、一番大切なものを切り捨てる怪物になる恐怖。
その言葉は、あまりに重すぎる祈りだった。
「君の明るさに、俺はずっと救われていた」
言葉が、行き場を失ったまま結ばれる。
「――俺は、君が好きだ」
告白は、短かった。飾りも、言い訳もない。
「ただのギルバートとして、君が好きだ」
その言葉だけで、一歩も近づかない。
抱きしめることも、手を取ることもしない。
「……それだけは、知っておいてほしかった」
ギルバートは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それからまた、まっすぐに彼女を見た。
「返事はいらない」
先回りするように、続ける。
「卒業の日に、また戻ってくる」
絶望に近い色を瞳に浮かべ、無理やり唇を歪めて笑み。それは、逃げではない。覚悟を先延ばしにすることでもない。
十八歳の少年の、不器用で、誠実な選択だった。
言葉が、すぐには理解できなかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと形を持つ。
それが「恋」なのか、「期待」なのか、あるいは、もっと別の重さなのか――まだ、分からない。
ただ。ギルバートが最後に向けた視線は、答えを求めるものではなかった。それを、はっきりと感じ取ってしまった。
「……ギル」
呼び止めようとした声は、思ったよりも小さく、空気に溶けた。
彼は、もう振り返らない。背筋を伸ばし、いつもより少しだけ速い歩調で、夕暮れの中へと消えていく。
アイリスは、その背中を追わなかった。
彼の言葉には、頼る響きも、縋る弱さもなかった。けれど、希望の置き方だけが、少しだけ危うかった。
自分がそこにいることで、誰かの判断が変わってしまう。それを、重いとも、怖いとも、はっきり感じきれないまま。ただ、胸の奥が静かにざわついている。
好きだと言われたのに、嬉しい、だけでは終わらなかった。
立ち尽くす回廊に、冬の空気が流れ込む。日は傾き、影が長く伸びていく。
ギルバートの姿は、もうどこにもない。
その日を境に、ギルバート・ラカル・ルクレールは、学園に姿を見せなくなった。
やがて、学園に通達が回る。
簡潔で、感情のない文章。
事実だけを並べた、公式な知らせ。
――第一皇太子、死去。
必要以上の言葉は、ひとつもなかった。
その短い一文が、ギルバートが「ギルバート」でいられなくなったことを告げていた。彼のいない校舎で、冬の空気だけが、静かに満ちていった。




