第49話 観測の外で
それは冬休みを直前に控えたある日の、ありふれた日常だった。
廊下の奥、普段はあまり人が通らない一角。
壁際に描かれた簡易陣と、積み上げられた資料。通りすがりの生徒が興味本位に足を止めることもあるが、長居はしない。
魔法陣研究同好会の活動場所は、いつもと同じだった。
「また、何かやってるみたいだね」
そんな軽い声が、どこかから聞こえた。
危険だとか、問題だとか、そういう言葉は出てこない。
規模は小さい。試しているのは、せいぜい基礎式の組み替えだ。派手な発光も、警告音もない。失敗したとしても、指先を焦がす程度だ。
研究室の扉は開いたままだった。ロイドは少し離れた位置から、ほんの一瞬だけ、視線を魔法陣に向ける。
問題になるほどではない。
少なくとも、計算上はそうだった。
異変は、音より先に来た。
張られていた魔法陣の一部が、わずかに歪む。
線が滲み、刻まれた紋様の意味がずれる。誰かが声を上げる前に、魔力の流れが反転した。
(――式が足りない)
その反応にロイドは、考えるより早く指を動かしていた。
干渉点を切り離す。流量を落とす。反動を逃がすための簡易陣を、床に滑らせるように展開する。
未来は見えていた。小規模な暴発。誰もいない空間への衝撃。だから、これ以上の拡散を防げばそれで済む――はずだった。
だが。
それは、ロイドの観測の外側で起きた。
破裂でも、爆発でもない。抑え切ったはずの反動が、行き場を失って衝撃として跳ね返る。
その軌道の先に――
視界の端で、白い影が揺れた。
思考が追いつくより早く、衝撃が走る。
空気が叩きつけられ、床が震え、視界が一瞬だけ歪む。
小さな身体が、宙に浮いた。
庇う動作はない。踏み込んでもいない。
ただ、衝撃に押されるまま、バランスを失う。
彼女が抱えていた魔法具が手から離れ、乾いた音を立てて転がる。
次の瞬間、鈍く、重たい音がした。彼女は倒れ、肩から床に落ちる。額をかすめた衝撃で、視線が揺れ、意識が遠のくのが分かる。
アイリスだった。
彼女は、そこにいるはずじゃなかった。
ロイドが見ていた数秒先の未来に、彼女の姿はなかったはずだった。だからこそ、展開した防御は、そこに「現れた」彼女のことまでは守れなかった。
魔力の跳ね返りが、床を撫でるように走り、彼女の頬を裂く。
その瞬間。
ロイドの中で、空気が切り替わった。
もう、未来など見ていなかった。考える前に、身体が動いている。展開された魔法は一つだけ。
複雑でも派手でもない、けれど寸分の無駄もない制御陣。反転した流れを掴み、ねじれを正し、余剰を逃がす。暴走しかけていた魔力は、物理法則を無視したかのように、音もなく沈黙した。
衝撃は、そこで終わる。
研究区画に残ったのは、焦げた匂いと、凍りついた空気だけだった。
「……誰が、この配列を通した」
声は低い。怒鳴ってはいない。
けれど、その場にいた全員の心臓を鷲掴みにするような冷たさがあった。
近くにいた生徒たちは息を呑み、動けなくなる。
「計算、三段階省いてる。安全域を、仮定で埋めたね」
淡々とした指摘。
責める口調ではない。けれど、言い逃れの余地もない。
「実験じゃない。結果を楽観しただけの、ただの怠慢だ」
誰も返事ができなかった。
あまりの圧に、謝罪の言葉さえ喉に張り付く。
収束を確認したその瞬間、ロイドの視線は、魔法陣から外れた。興味を失ったように、生徒たちからも目を逸らす。
駆け寄る足音。
衝撃でずれた髪。額の端に、赤い線。
袖口にも、滲むような血。
床に座り込んだままのアイリスが、そこにいた。
致命傷ではない。治療魔法があれば、すぐに塞がる程度だ。冷静な頭の片隅で、そう判断する自分がいる。
けれど、ロイドは倒れたままのアイリスの前に膝をつき、震えそうになる指先を強く握り込んだ。
「……こんなはずじゃ、なかった」
低く、抑えた声だった。
見えていなかった。彼女がここを通ることも。
このタイミングで巻き込まれることも。
万能だと思っていた自分の目が、一番肝心な時に、彼女を見落とした事実。
アイリスは、一拍遅れて瞬きをする。ぼんやりと混濁した意識と曖昧な視線。状況を測りかねているようだった。
「……っ、ロイド?」
「動かないで」
短く制して、額の傷に手をかざす。血が止まるのを見て、ようやく呼吸が戻ってきた。
「ごめんね、私……ぼーっとしてて」
彼女は力なく笑おうとする。自分が巻き込まれたことよりも、場を乱したことを気にしているような笑顔。
ロイドは短く息を吐いた。
「……そう」
それ以上、言葉は続かない。続けられなかった。
誰かが肩に触れ、誰かが怪我の有無を確かめ始める。教師が駆けつけ、事態は確実に「終わった出来事」へ向かっていた。
その喧騒の中で、ロイドの意識だけが、まだ動いていなかった。
未来ではなく。予測でもなく。
今、目の前にある――
ここにいるはずじゃなかった、温かい存在だけを見て。
(……本当に)
声にはしない。思考としても、形にしない。
けれど、胸の奥で初めて生まれたその感情は、痛いほど鮮烈だった。
見えないから、怖い。
見えないから、守りきれないかもしれない。
(君が、無事でよかった)
その恐怖と安堵こそが、彼が長年蓋をしてきた「人間らしい感情」そのものだということに――ロイドは、もう気づいてしまっていた。




