表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

54/63

第49話 観測の外で



 それは冬休みを直前に控えたある日の、ありふれた日常だった。


 廊下の奥、普段はあまり人が通らない一角。

 壁際に描かれた簡易陣と、積み上げられた資料。通りすがりの生徒が興味本位に足を止めることもあるが、長居はしない。


 魔法陣研究同好会の活動場所は、いつもと同じだった。


「また、何かやってるみたいだね」


 そんな軽い声が、どこかから聞こえた。


 危険だとか、問題だとか、そういう言葉は出てこない。

 規模は小さい。試しているのは、せいぜい基礎式の組み替えだ。派手な発光も、警告音もない。失敗したとしても、指先を焦がす程度だ。


 研究室の扉は開いたままだった。ロイドは少し離れた位置から、ほんの一瞬だけ、視線を魔法陣に向ける。


 問題になるほどではない。

 少なくとも、計算上はそうだった。


 異変は、音より先に来た。


 張られていた魔法陣の一部が、わずかに歪む。


 線が滲み、刻まれた紋様の意味がずれる。誰かが声を上げる前に、魔力の流れが反転した。


(――式が足りない)


 その反応にロイドは、考えるより早く指を動かしていた。


 干渉点を切り離す。流量を落とす。反動を逃がすための簡易陣を、床に滑らせるように展開する。


 未来は見えていた。小規模な暴発。誰もいない空間への衝撃。だから、これ以上の拡散を防げばそれで済む――はずだった。


 だが。


 それは、ロイドの観測の外側で起きた。


 破裂でも、爆発でもない。抑え切ったはずの反動が、行き場を失って衝撃として跳ね返る。


 その軌道の先に――

 視界の端で、白い影が揺れた。


 思考が追いつくより早く、衝撃が走る。

 空気が叩きつけられ、床が震え、視界が一瞬だけ歪む。


 小さな身体が、宙に浮いた。

 庇う動作はない。踏み込んでもいない。

 ただ、衝撃に押されるまま、バランスを失う。


 彼女が抱えていた魔法具が手から離れ、乾いた音を立てて転がる。


 次の瞬間、鈍く、重たい音がした。彼女は倒れ、肩から床に落ちる。額をかすめた衝撃で、視線が揺れ、意識が遠のくのが分かる。


 アイリスだった。

 彼女は、そこにいるはずじゃなかった。


 ロイドが見ていた数秒先の未来に、彼女の姿はなかったはずだった。だからこそ、展開した防御は、そこに「現れた」彼女のことまでは守れなかった。


 魔力の跳ね返りが、床を撫でるように走り、彼女の頬を裂く。


 その瞬間。


 ロイドの中で、空気が切り替わった。


 もう、未来など見ていなかった。考える前に、身体が動いている。展開された魔法は一つだけ。


 複雑でも派手でもない、けれど寸分の無駄もない制御陣。反転した流れを掴み、ねじれを正し、余剰を逃がす。暴走しかけていた魔力は、物理法則を無視したかのように、音もなく沈黙した。


 衝撃は、そこで終わる。


 研究区画に残ったのは、焦げた匂いと、凍りついた空気だけだった。


「……誰が、この配列を通した」


 声は低い。怒鳴ってはいない。

 けれど、その場にいた全員の心臓を鷲掴みにするような冷たさがあった。


 近くにいた生徒たちは息を呑み、動けなくなる。


「計算、三段階省いてる。安全域を、仮定で埋めたね」


 淡々とした指摘。

 責める口調ではない。けれど、言い逃れの余地もない。


「実験じゃない。結果を楽観しただけの、ただの怠慢だ」


 誰も返事ができなかった。

 あまりの圧に、謝罪の言葉さえ喉に張り付く。


 収束を確認したその瞬間、ロイドの視線は、魔法陣から外れた。興味を失ったように、生徒たちからも目を逸らす。


 駆け寄る足音。


 衝撃でずれた髪。額の端に、赤い線。

 袖口にも、滲むような血。

 床に座り込んだままのアイリスが、そこにいた。


 致命傷ではない。治療魔法があれば、すぐに塞がる程度だ。冷静な頭の片隅で、そう判断する自分がいる。


 けれど、ロイドは倒れたままのアイリスの前に膝をつき、震えそうになる指先を強く握り込んだ。


「……こんなはずじゃ、なかった」


 低く、抑えた声だった。

 

 見えていなかった。彼女がここを通ることも。

 このタイミングで巻き込まれることも。

 万能だと思っていた自分の目が、一番肝心な時に、彼女を見落とした事実。


 アイリスは、一拍遅れて瞬きをする。ぼんやりと混濁した意識と曖昧な視線。状況を測りかねているようだった。


「……っ、ロイド?」

「動かないで」


 短く制して、額の傷に手をかざす。血が止まるのを見て、ようやく呼吸が戻ってきた。


「ごめんね、私……ぼーっとしてて」


 彼女は力なく笑おうとする。自分が巻き込まれたことよりも、場を乱したことを気にしているような笑顔。


 ロイドは短く息を吐いた。


「……そう」


 それ以上、言葉は続かない。続けられなかった。


 誰かが肩に触れ、誰かが怪我の有無を確かめ始める。教師が駆けつけ、事態は確実に「終わった出来事」へ向かっていた。


 その喧騒の中で、ロイドの意識だけが、まだ動いていなかった。


 未来ではなく。予測でもなく。

 今、目の前にある――

 ここにいるはずじゃなかった、温かい存在だけを見て。


(……本当に)


 声にはしない。思考としても、形にしない。

 けれど、胸の奥で初めて生まれたその感情は、痛いほど鮮烈だった。


 見えないから、怖い。

 見えないから、守りきれないかもしれない。


(君が、無事でよかった)


 その恐怖と安堵こそが、彼が長年蓋をしてきた「人間らしい感情」そのものだということに――ロイドは、もう気づいてしまっていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ