第47話 夜を選んだ
世界は驚くほど静かになった。
未来が割り込んでこない。思考が先走らない。結果を知ってしまう疲労もない。
――その代わりに。
今、目の前にあるものが、どれも少し遠い。膜が一枚隔たったような、彩度の低い景色。
ロイドは、それを不便だとも、不幸だとも思わなかった。
そういう状態なのだと、淡々と受け入れていた。
十八歳を迎えた頃、ロイドは久しぶりに部屋の扉を開けた。
食卓に並ぶのは、いつも通りの簡素な朝食だった。
父も母も、特別な話題を持ち出すことはない。
しばらくして、母がふと思い出したように口を開いた。
「ロイド、入学案内が届いているわ」
確認するような口調だった。命令でも、期待でもない。
「手続きは、いつでもできる。行っても、学ぶことはあまりないでしょうけど」
ロイドは頷いた。それ以上でも、それ以下でもない反応だった。そして、父が続ける。事実を述べるだけの声音だ。
「世間体など気にするな、あれは思考の邪魔だ」
合理的で、感情の入り込む余地はない。
ロイドは、少しだけ考えた。
行けば、何かが起きるかもしれない。
行かなければ、何も起きない。
どちらも、等しく現実だった。
「……考えておく」
それだけ言うと、父も母もそれ以上は何も言わなかった。
引き止めも、背中を押す言葉もない。食卓の空気は、最初から最後まで変わらない。
ロイドは、椅子を引き、立ち上がる。
世界は、相変わらず静かだった。色を失ったまま、均一な顔をしている。その静けさの中に身を置き続けることが、正しいとも、楽だとも、言い切れないことだけは分かっていた。
このまま部屋に籠もっていれば、世界は遠くなる。
音も、人も、出来事も、必要な距離を保ったまま過ぎていく。予知は減り、思考は静かになり、眠れない夜も少なくなるだろう。
平穏だ。少なくとも、壊れることはない。
けれど、行けば、何かが起きるかもしれない。良いこととは限らない。むしろ、面倒なことのほうが多いだろう。
人と関われば、未来は増える。選択肢は枝分かれし、結果は重なり、思考はまた先へ進み始める。それは、疲れることだ。
それでも、完全に閉じてしまうよりは、少しだけ開いておくほうが、まだ耐えられる気がした。
救いたいわけじゃない。変えたいわけでもない。
ただ、何も起きない世界に、完全に身を預けることを、選ばなかっただけだ。見ない未来と、見すぎる未来。そのどちらでもない場所。何かが起きても、起きなくてもいい。結果を求めず、意味も探さず、ただ“見ている”立場。
それなら、まだ息ができる。
それは義務でも、期待でもない。ただ、完全に閉じてしまう前に、残しておきたい余白のようなものだった。
ロイドは、学園の中を歩いている。
特別な目的があるようには見えない。誰かと連れ立つこともなく、かといって完全に孤立しているわけでもなかった。
挨拶をされれば、返す。話しかけられれば、必要な分だけ応じる。けれど、その会話が深まる前に、自然と距離は保たれる。
彼は、踏み込まない。踏み込ませもしない。
廊下の向こうで、言い争う声が上がる。小さな衝突。誰かが声を荒げ、周囲がざわつく。ロイドは、足を止めない。ただ一瞬だけ、視線を向ける。それで十分だった。
事態は、それ以上大きくならない。教師が現れ、話は収まり、日常に戻っていく。誰も、気づかない。問題が起きなかったことを、当たり前のように受け取る。
ロイドは、その「当たり前」を見届ける側にいる。
学園祭の後。距離が変わった人間関係も、ぎこちなさも、彼の視界には入っていた。
ギルバートが、一歩引いた位置にいること。
ルイが、変わらない場所を選び続けていること。
アイリスが、その中心を歩いていること。
どれも、珍しい光景ではない。ただ、今でなければ見えない配置だった。
ロイドは、何も言わない。助言もしない。
未来について、口にすることもない。
言えば、意味が変わってしまうからだ。選択が、選択でなくなる。結果が、結果でなくなる。それを知っているから、彼は沈黙を選ぶ。
けれど、何かが起きそうな瞬間だけは、逃さない。世界が、わずかに傾く気配がするときだけ、目を向ける。介入はしない。手を伸ばさない。
ただ、その先にどんな形が現れるのかを、見ている。冷静で、距離を保ったまま。それでも、完全に無関心にはなれないまま。
――だからこそ。
彼の言葉は、いつも少しだけ早く、そして、どこか終わった話のように響くのだった。
廊下ですれ違ったとき、彼女は立ち止まった。
「ロイド」
呼び止められたこと自体は、珍しくない。けれど、その声音には、いつもと少し違う温度があった。
「この前の話だけど」
何を指しているのか、彼には分かる。
それでも、先回りして答えは出さない。彼女が何を気にしているのかは、分かっている。だからといって、先に結論を渡す気にはなれなかった。
「夜って、そんなに悪いもの?」
拍子抜けするほど、単純な問いだった。
先のことも、役割も、失うものも含まれていない。
ロイドは、ほんの一瞬だけ考える。そして、曖昧なまま返した。
「どうだろうね」
答えになっていない返事。それでも、彼女は気にした様子もなく続ける。
「私は、嫌いじゃないよ。昼より静かで、やさしい感じ」
その感覚が、ロイドには分からない。
夜は、いつも結果を連れてくる。静かで、取り返しのつかないものを。暗闇は、何が潜んでいるか分からない恐怖の象徴だ。
けれど、彼女の言葉には、何も含まれていなかった。
先を知らないからこその、軽さと明るさ。
ロイドは、視線を逸らす。
――見えない。
未来の断片の中に、彼女の選択だけが見当たらない。
夜の先で、どこへ向かうのか。誰の隣に立つのか。輪郭が、曖昧なままだ。
通常、見えないことは恐怖だ。計算できない変数は、排除すべきノイズだ。けれど、なぜか。
「じゃあね」
そう言って、アイリスは歩き出す。迷いのない背中。
ロイドは、その姿を見送った。
未来は、見えているはずだった。それでも世界は、ほんのわずかに揺れる。
――夜を、恐れていない人がいる。
先が見えないことを、「やさしい」と言える人がいる。その事実だけが、色を失った胸の奥に、小さく灯ったままだった。




