第45話 夜を知った
それは、何かを考えた結果ではなかった。
理解しようとした覚えもない。整理しようとした時間も、順序もない。気づいたときには、すべてが分かってしまっていた。
理由も、結果も、避けられない流れも。
本来なら一つずつ積み上げるはずのものが、最初から完成した形で、胸の内に置かれている。
ロイドは、机に向かったまま静止していた。
ペンを握る指先だけが、わずかに緩む。
(……終わった)
そう思ったのは、出来事が過去になったからではない。考える余地が、最初から与えられていなかったからだ。
驚きは遅れて来るものだと、どこかで知っている。けれど今回は、その前段階が存在しなかった。混乱も、疑問も、追いついてこない。
ただ、理解した後に残るはずの重たい疲労だけが、説明もなく身体に沈んでいた。
(想像じゃない)
そう判断している自分に、少し遅れて気づく。判断した理由を、もう辿れない。ただ、それが「事実」であるという確信だけが、冷たい石のようにそこにある。
視線を落とすと、机の上は変わらない。未完成の魔術式。開いたままの書物。窓から差し込む朝の光。
世界は、何も起きていない顔をしている。
ロイドは、何もなかったふりをしてペンを持ち直した。たまたまだ、と決めるには、少しだけ後味が重い。それでも、そうするしかなかった。
まだ、朝は始まったばかりだったから。
いつだって、繰り返す毎日は特別なものではなかった。
ウィステリア公爵家の屋敷は、いつも通り静かで、魔力の流れも、空気の張りも、乱れはない。
研究棟からは、夜通し動いていた魔術具の余熱が、まだわずかに残っていた。使用人たちは慣れた手つきで片付けを進め、誰かが失敗した様子も、焦った様子もない。
朝食の席には、父や母、そして兄もいたが、いつも会話は必要最低限だった。
今日の予定。研究の進捗。屋敷の来客予定。
どれも事務的で、感情を挟む余地はない。食器が触れ合う微かな音だけが、広すぎる部屋に響く。
ロイドが手に取っていた資料に、父は一度だけ視線を向け、特に質問もせず、軽く頷いた。
理解している、という合図。
確認する必要がない、という判断。
母もまた、食事がきちんと口に運ばれていることだけを確かめると、それ以上は何も言わなかった。
心配していないわけではない。
興味がないわけでもない。
ただ、干渉する理由がないだけだ。
ロイドは優秀ではあったが、それは兄も同じだった。
この家では、優秀であることは特別なことではない。呼吸をするのと同じ、生存の条件だ。魔法に特化した家系で育つというのは、そういう環境に身を置く、というだけの話だった。
できるから任せる。任せたから、口出しはしない。
それは信頼であり、同時に、踏み込まないという選択でもある。
天才だと持て囃されることもない。
遅れていると叱責されることもない。
距離は、近すぎず、遠すぎず。
必要なだけの関係が、当たり前に存在していた。
退屈でもない。不満もない。
ただ、それが日常のはずだった。
最初に理解したのは、未来が一つではない、ということだった。
見えてしまったものは、一本道ではない。無数に枝分かれし、選択の数だけ形を変えている。細部も、順序も、関わる人間も違う。――だから、本来なら希望があった。
避けられる。変えられる。
正しい選択を積み重ねれば、もっと良い結果に辿り着ける。そういう“余地”が、確かに存在しているように見えた。
けれど、どの未来を辿っても、完全には消えない要素があることに、ロイドはすぐに気づいてしまった。
それは、特定の人物ではない。特定の出来事でもない。
ただ、何かが壊れ、何かが失われ、取り返しのつかない分岐が生まれる。
原因は違う。引き金も違う。選ばれた行動も、それぞれだ。それでも、「そうなる可能性」そのものだけは、どの未来からも排除できない。――避けられない、とは少し違う。
正確には、避けようとするたびに、別の形で現れ直す。まるで、水面を叩いても波紋が消えないように。
誰かが背負う未来。あるいは、誰もが少しずつ負う未来。
中心がある場合もあれば、はっきりしないまま、静かに崩れていく場合もある。
そこに「自分」が含まれる可能性も、含まれない可能性も、同じ確率で並んでいた。――だから、断定はできない。
自分が原因になるとも、自分が引き金になるとも、まだ言えない。ただ、“近い位置にいる”という事実だけが、異様なほど明確だった。
それに気づいた瞬間、ロイドの思考は止まらなかった。
怯えもしない。叫びもしない。代わりに、頭の奥に、泥のような疲労だけが積もっていく。
考えれば考えるほど、選択肢は増えていくのに、消せない部分だけが、より輪郭を持つ。
世界は自由で、同時に、不親切だ。
どこまで考えても、「何も起きない未来」だけは、どうしても見当たらない。
ロイドは、目を閉じた。逃げたかったわけではない。拒絶したかったわけでもない。ただ、これ以上“知る前提”で生きるのが、少しだけ、重く感じられた。
未来は来る。形を変えながら、必ず。
その事実を、考えるより先に理解してしまった朝。
それは、十四歳を迎えた日のことだった。
ロイドは、そのことを誰にも話さなかった。
両親にも、研究室で顔を合わせる大人たちにも、いつも一緒に魔法の話をしていた同年代の子どもたちにも。
言おうと思えば、言えたはずだった。言葉にするための知識も、表現も、彼には揃っている。
――それでも、口を開かなかった。
理由は、単純だった。
言ったところで、何かが確実に良くなるわけではない。
未来は一つではない。だからこそ、「こうなる」と断定することもできない。けれど同時に、完全に避けられるとも言えない。
曖昧な予言。条件付きの未来。変えられるかもしれないが、保証はない結末。それを伝えられた側は、どうするだろう。
希望を持つかもしれない。努力すれば回避できると信じるかもしれない。あるいは、恐れて立ち止まるかもしれない。
どちらにしても、その選択の重さは、聞かされた人間が背負うことになる。
ロイドには、それがひどく残酷に思えた。
未来を「知っている」者が、何も決めきれない情報だけを渡すこと。それは助言でも、救いでもない。ただ、不安と期待を同時に植え付ける行為だ。
――それなら。何も言わないほうが、まだ誠実だ。
そう判断しただけだった。
彼は冷たいわけではない。誰かを見捨てたいわけでもない。ただ、希望というものが、状況次第で簡単に刃になることを、直感的に理解してしまった。
だからロイドは、未来を胸の奥にしまい込んだ。
誰にも渡さない。誰にも背負わせない。
自分が知っていることは、自分だけが持っていればいい。
それが、十四歳の彼なりに選んだ、ひとつの“正しさ”だった。




