第44話 灯りのない夜に、時間が溶ける
後夜祭の翌日、学園は何事もなかったかのように動き出した。
空はいつもと同じ青色で、雲の形も見慣れたものなのに、どこかだけが名残を引きずっている。歩きながら、制服の袖口を整える。日常に戻る仕草は、体が先に覚えている。
学園祭は終わった。
後夜祭も、もう過去だ。
そう頭では分かっているのに、胸の奥に残ったものだけが、まだ静かに溶けきらずにいた。
――選ばなかった夜。
その言葉を、心の中でそっと伏せる。今はまだ、考える必要はない。
アイリスは前を向き、いつもの教室へ向かって歩き出した。廊下の角を曲がったところで、ギルバートと鉢合わせた。一瞬だけ、互いに足が止まる。
「……おはよう」
先に口を開いたのは、彼のほうだった。声は落ち着いていて、いつも通りの調子に聞こえる。
「おはよう、ギル」
アイリスも、同じように返す。それ以上、言葉は続かなかった。彼は軽く頷き、手にしていた資料を抱え直す。必要なことは、それだけだと言わんばかりに。
「次、共同講義だったな」
「うん。第三講義室」
確認のようなやり取りで、感情が入り込む余地のない、きれいな会話。視線が、ほんの一瞬だけ合った。昨夜の余韻が、その瞳の奥に揺れている気がした。けれど、どちらからともなく逸らされる。
「……では」
「また後で」
すれ違う距離は、いつもと同じはずなのに、歩き去る背中が、少しだけ遠く感じられた。ただ、踏み込まないと決めた境界線が、はっきりとそこに引かれている。
アイリスは足を止めず、前へ進む。
振り返らなかったのは、彼も、同じだった。
そのまま、学園の日常へと戻っていく。朝の鐘はいつも通りに鳴り、廊下には、授業へ急ぐ足音が重なった。
後夜祭の名残は、片づけられたランタンの跡と、まだ少しだけ浮ついた空気として残っているだけだ。
昼を過ぎる頃には、その空気も次第に薄れていった。話題は課題へ、次の行事へと移り、昨日の光景は、思い出話に変わっていく。そして、気づけば日が傾いている。
校舎の窓に差し込む光は、朝よりも低く、柔らかく、長い影を床に落としていた。季節が進んだことを、誰に言われるでもなく、身体が先に理解していく。
少し後ろに、人の気配がある。振り返るまでもない距離で、それ以上でも、それ以下でもない。特別なことは、何も起きていない。だからこそ、何も選ばずに進めてしまう。
ただ一人、その「何事もなさ」を、少し離れた場所から見ている視線があった。
夕方の光は、思っていたより早く傾き始めていた。校舎の影が伸び、昼と夜の境目が、曖昧になっていく。誰かが、ぽつりと漏らす。
「……段々と、日が短くなっていくね」
それが誰の言葉だったのか、アイリスは確かめなかった。
問いは、まだ投げられていない。ただ、順番だけが、少しずつ前に詰められていく。秋は、そういう季節だった。
朝の空気が、少しだけ冷たくなっていた。
吐いた息が白くなるほどではないが、外套を羽織らずに歩くと、肌の奥にひやりと残る。
学園の中庭では、落ち葉が増え始めている。掃除当番が集めきれない分だけ、秋が確実に進んでいる証拠だった。
日常は、滞りなく流れている。授業は予定どおり進み、提出物は溜まり、次の季節行事の話題が、自然に混ざる。
城下で報告されていた小さな魔力の揺れは、いつの間にか記録から姿を消していた。原因不明、被害なし。それ以上、掘り下げられることもない。
誰かが動いた形跡だけが残り、結果だけが、なかったことになる。
世界は、静かだ。穏やかで、何事もない顔をしている。
秋は、本来こういう季節だっただろうか。
冷え始めた空気の下で、すべてが少しずつ閉じていくような――そんな予感だけが、足元に残る。
冷え始めた空気の中で、アイリスは歩いていた。
「夜が長くなったね」
声をかけられて、足を止める。振り返ると、ロイドが立っていた。彼の姿は久しぶりだった。それでも、相変わらず、少し距離の取り方が曖昧で、気配の薄い立ち方をしていた。
「もう秋だもの」
そう返すと、彼は小さく頷いた。
「うん。……急に、冷たくなった」
それは当たり前の感想のはずなのに、どこか言葉の選び方が引っかかる。“季節の話”をしているようで、そうではない気がした。
「世界は、同じ景色が続くように見えても」
ロイドは、歩調を変えずに言った。
「――急に、景色が変わる」
「景色?」
「名前だけあって、役割を持ってなかった人が、急に“前に出る側”になるとか」
言い切りだった。推測でも、例え話でもない。
アイリスが言葉を探している間に、彼は続ける。
「本人の意思とは関係なく、ね。周りがそうさせる。準備ができてるかどうかは、あまり関係ない」
まるで、すでに起きた出来事を整理しているみたいな口調だった。
「それ、良いことなの?」
「結果だけ見れば」
即答だった。
ロイドは立ち止まらない。振り返りもしない。
「“空いたから埋まった”っていうのは、外から見ると、すごく自然だから」
少しだけ、間が空く。
「でも、その席に入った人が、どう考えるかまでは――誰も用意してくれない」
アイリスは、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「ロイドって、なんでも知っているね」
からかうように言うと、彼は肩をすくめた。
「知ってる、っていうより……見えてしまうだけ、かな」
少し間を置いて、付け足す。
「でも、知りたいわけじゃないよ」
その言葉は、淡々としていた。強がりでも、冗談でもない。アイリスは、小さく息を吐く。
「……そっか」
それ以上は、聞かなかった。理由を探すほどのことでもない、という顔をして。まるでもう終わった話みたいに言う。もう過ぎたことみたいに。なのに、どこか、これから起きることを見送っているような声音だった。
「この寒さ、早く終わったらいいのに」
ぽつりと零れた言葉が、誰に向けられたものだったのかは分からない。季節の話のようでいて、それだけでは済まない気配を含んでいる。
アイリスは立ち止まらず、前へ進む。
特別な出来事は、何も起きていない。少なくとも、そういう顔をした世界が、そこにある。
けれど、語られなかったものがあることだけは、不思議と、はっきり伝わってきた。
秋は、そういう沈黙を抱えたまま、ゆっくりと深くなっていく。




