第43話 夜空に昇るもの、胸の中に沈むもの
日が落ちると同時に、学園の空気が静かに変わった。
昼間の喧騒が引いていく代わりに、校舎のあちこちに柔らかな光が灯り始める。中庭から渡り廊下へ、淡い光の粒がゆっくりと浮かび上がっていった。
後夜祭。
今年は実行委員と魔術研究会の合同企画だと聞いている。
けれど、実際に目にすると、その出来栄えは“生徒の余興”という言葉から少し外れていた。
音もなく、空気を押すこともなく、ゆっくりと浮かび上がっていく無数のランタン。夜気に溶けるような淡金色。近づけば、光は柔らかく滲み、離れれば、星屑のように瞬く。
誰かが息を呑む気配が、あちこちで重なった。
ランタンは、無秩序には飛ばない。互いの距離を測るように、自然な間隔を保ち、重ならず、ぶつからず、ただ静かに配置されていく。
風が吹いても、流されない。人が歩いても、揺れない。
まるで――この場所の呼吸に合わせて、最初からそこに在るべき位置を知っているかのようだった。
(……綺麗)
アイリスは、無意識に足を止める。
魔法だと分かっているのに、仕組みを考える気が起きなかった。理解しようとする前に、「ただ見る」ことを選ばせる光だった。
ランタンの一つが、ゆっくりと高度を変える。それに呼応するように、別のランタンがわずかに位置をずらす。全体が、ひとつの生き物のように調和している。
(……誰が、こんな)
視線が、自然と中庭の端へ向いた。
人の輪から外れた、影の濃い場所。そこには、目立つ動きはない。ただ、その周囲だけ、魔力の流れが澄んでいた。濁りも、揺らぎもなく、必要以上に主張しない。
その在り方に、アイリスは見覚えがあった。
(今年はちゃんと参加したのね)
ランタンが増えるにつれ、中庭の空気が変わっていく。騒がしさが、自然と抑えられ、声が一段落ちる。
誰かに促されたわけでもないのに、皆が、少しだけ立ち止まって、夜を見上げていた。
制服のまま。いつもと同じ姿のまま。それなのに、この時間だけは、日常の延長線から、わずかに外れている。
音楽が流れ始める。主張しない旋律。歩調に寄り添うようなリズム。
アイリスは、胸元に小さなざわめきを感じながら、静かに息を整えた。
ランタンの光が、夜の中庭を淡く満たしていた。風に揺れるたび、無数の小さな光が波打つように上下し、足元の影さえ柔らかく曖昧にしていく。
ギルバートは、その少し外れた場所に立っていた。輪の中心に入ることも、誰かと話すこともなく、ただ人の流れと光景を眺めている。
視線の先に、アイリスがいた。
誰かと談笑しながらも、どこか一歩引いた位置。場の雰囲気に流されすぎず、それでも拒まず、穏やかにそこにいる姿は、昼間と変わらない。
二日目の昼、あの場面が脳裏に浮かぶ。人目のある場所で、真剣な言葉を向けられ、それを丁寧に断った彼女の横顔。
誰かを否定せず、曖昧にもしない。あの断り方は、彼女の誠実さそのものだった。
同時に、はっきりと思い知らされた。
――選ぶ、ということ。
好意を向けられることと、選ぶことは違う。彼女はそれを、無意識のうちに分かっている。
学園で過ごす時間は、確実に減っている。それを、日付で数えたことはなかったが、最近になって、ふとした瞬間に意識するようになった。卒業が近づいている。
それは、次の役割が始まるという意味であり――同時に、今ここにある関係が、形を変えるということでもある。
彼女は学園を出れば、別の道を進む。侯爵家の令嬢としての未来があり、彼女自身の選択がある。その先に、自分がいる保証はない。
(……終わる、のか)
恋という言葉を、まだ口にしていないのに。何も始まっていないはずなのに、終わりだけが先に見えてしまう。
だからこそ、躊躇が生まれる。だからこそ、今夜を逃せば、もう踏み出せない気がしていた。
ランタンの光が、ふいに強く揺れた。
この光景は、一夜限りだ。日常の延長にある、特別な時間。今夜なら。今夜だけなら。
そう思ってしまう自分を、彼は否定しなかった。
まだ声はかけない。だが、視線だけは外さずに、彼女を見ていた。踏み出すための気持ちを、静かに、胸の奥で溜めながら。
ランタンの光が、夜空をゆっくりと流れていく。淡い光が幾重にも重なり、中庭は昼とは別の顔を見せていた。
アイリスは、その端で立ち止まり、踊る輪を眺めていた。
楽しそうな笑い声と、音楽の残響。どこか現実感の薄い光景。
「……アイリス」
背後から、呼ばれる。振り向くと、ギルバートが立っていた。制服姿はいつもと変わらない。ただ、立ち方だけが、少しだけ違う。
「殿下?」
呼びかけると、彼は小さく首を振った。
「……今は、ギルでいい」
短く、即答だった。
ランタンの光が、二人の間を横切る。ギルバートは一歩だけ距離を詰め、そこで止まった。
「俺は、王族としての立場も、今の状況も……理解しているつもりだ」
声は低く、落ち着いている。逃げでも、言い訳でもない。
ほんの一瞬だけ、視線が揺れた。
沈黙が落ちる。ランタンが、二人の頭上を越えていく。
「だから」
わずかに、言葉の調子が変わった。
「今夜だけは、立場も肩書きも抜きにして」
一歩、前に出る。
「ただのギルバートとして、君に頼みたい」
視線を逸らさない。
「一曲、踊ってくれないか」
強さはない。けれど、逃げもなかった。
周囲の喧騒が遠のき、世界が二人だけになるような錯覚。
アイリスは、言葉を失う。
――選ぶ、という行為の重さが、胸に落ちる。
この手を取れば、周囲は祝福するだろう。「やっぱりそうだった」と、既定路線が完成する。けれど、それは――「今の彼」を全て肯定することになる。
ランタンの光が、また一つ、夜空へ昇る。
アイリスは、指先を握りしめた。胸の奥で、いくつもの感情が静かに行き交っていた。嬉しさ。戸惑い。名付けきれないもの。
ただ、この手を取ることは――踊る以上の意味を持ってしまう。今の自分には、それが分かりすぎるほど分かっていた。
アイリスは一瞬だけ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げる。
「誘ってくれたこと、すごく嬉しい」
その言葉は、迷いなく本心だった。
けれど、そこでほんの少しだけ、間が空く。
言葉を探しているというより、言葉にできないものを、そのまま抱え込んでいるような沈黙。
「……でも、ごめんね」
それ以上は、続けなかった。理由も、説明も、ない。ただ、断る、という選択だけが、静かに置かれる。
ランタンの光が、二人の間を静かに満たす。
ギルバートは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと頷く。
「……分かった」
それだけだった。
責めるでもなく、引き止めるでもなく。受け取って、胸にしまうような声音。
アイリスは、胸の奥が少しだけ痛むのを感じながら、同時に安堵も覚えていた。間違わなかった、という安堵。そして、彼を傷つけてしまったという、確かな痛みを。
少し離れた場所で、ルイは立っていた。
ランタンの光が届くぎりぎりの位置。
輪の外にいることを、自分で選んだ距離だった。
アイリスが首を振ったことも、ギルバートがそれ以上踏み込まなかったことも、すべて、静かに見えていた。
胸の奥で、息がほどける。
誰のものにもならなかった。それが、今夜の結論だった。
――それで、よかった。
何が、とは考えない。考えてしまえば、きっと余計な形になる。彼女が誰かの腕を取らなかった。ただ、それだけで、十分だった。
ルイは、無意識のうちに視線を下げる。
いつだって、大切な物は目に入る場所に置いておかないと、不安になる性分だった。目を離したら、捨てられてしまう。目を離したら、奪われてしまう。だから、ずっと不安だった。
彼女の一番近くにいる立場が、まだ、揺らいでいないことを確かめるように。
変わらない距離。変わらない愛情。
――この気持ちがこの先も続くと信じて。
後夜祭は、穏やかに幕を閉じる。
誰も答えを持たないまま、ただそれぞれが、胸の中に、言葉にならないものを残して。
――選択の夜は、まだ先に続いていた。




