第42話 アイリス・ヴァレリアは、意外とモテる
学園祭は、驚くほど穏やかに始まった。
大きな混乱も、想定外の事故もない。準備は滞りなく進み、開門と同時に生徒と来場者が流れ込み、校舎はほどよい賑わいに包まれた。展示は予定通り公開され、屋台も順調に回っている。
その流れのまま、二日目を迎えていた。
朝から続いていた人の流れは相変わらず多いが、足取りには余裕がある。校舎の中には、紙とインクの匂い、焼き菓子の甘さ、魔法具のかすかな金属臭が入り混じっていた。どれも学園祭の間だけ許される、少し雑多で、それでも楽しい匂いだ。
アイリスは、人の波を縫うように歩きながら、その空気を静かに受け止めていた。
クラス展示は、滞りなく進んでいる。大きな問題はない。去年のように、売上や人員配置に追われることもなかった。それに加えて、準備段階から「後夜祭」に意識が向いていたせいか、昼間の展示はどこか前座のような扱いですらある。
その空気を、アイリスは少しだけ不思議に思っていた。
(……学園祭って、こんなに落ち着いてたっけ)
去年は、もっと必死だった気がする。誰が何を企画しているのか、どのクラスがどんな集客を狙っているのか。情報を集めて、読み合って、先手を打つ。今思えば、あれはあれで楽しかった。
今年は、違う。展示の完成度よりも、売上よりも、誰がどこで誰と話しているか、誰が誰と一緒に歩いているか。そういう視線が、あちこちに散らばっている。
視線が絡む理由を、アイリスはまだ深く考えないようにしていた。
少し後ろを歩くルイの気配が、一定の距離を保っている。
姿勢はいつも通り正しく、表情も落ち着いている。人混みの中でも、アイリスの歩調にぴたりと合わせ、決して前に出過ぎない。けれど、誰かがぶつかりそうになれば、自然と位置をずらして盾になる。
その完璧なガードが、雑音を遠ざけてくれていた。
アイリスは前を向いたまま、展示室の入口をくぐった。中では、友人たちが談笑している。展示の出来について、昨日の来場者数について、そして――小声で、後夜祭の話をしていた。
昼を迎えると、学園祭は朝よりも一段と賑わいを増していた。
中庭には人が集まり、校舎の影には腰を下ろして食事を取る生徒たちがいる。談笑する声、笑い声、風に揺れる装飾。学園祭の二日目は、すっかり「場」として落ち着いていた。
特別な用事があるわけではない。展示を一つ見て、次にどこへ行こうかと考えながら、流れに身を任せているだけだ。去年ほど切迫した役割もなく、今年は気負わずに歩けている。
その時だった。人の流れが、わずかに滞る。
視線が、自然と一箇所に集まる。
呼び止められたのは、アイリスだった。
「アイリス・ヴァレリア嬢。少し、よろしいでしょうか」
振り返ると、同じ学年の男子生徒が、少し距離を取って立っていた。身なりは整っている。制服の着こなしからも、それなりの家柄の令息であることが窺えた。背筋は伸び、表情は緊張しているが、逃げ腰ではない。
周囲のざわめきが一瞬、遠のく。
「おい、あれって……」「行くのか、本当に?」という、驚きの混じった囁きが聞こえた。
告白だ、と。
アイリスは、すぐに理解した。
ギルバートとの噂がある中で、それでも声をかけてきたのだ。遊び半分の気持ちではないだろう。
彼の声は落ち着いていて、言葉も丁寧だった。勢いに任せたものではなく、時間をかけて考えたのだろうことが伝わってくる。誰かを押しのけるような言い方でも、期待を押し付けるような響きでもない。
人目はある。
けれど、晒しものになるような空気ではなかった。
アイリスは、相手の言葉を最後まで聞いた。それから、少しだけ考える時間を置く。急がず、曖昧にもせず、逃げもしない。
「ありがとう」
まず、その一言を返した。声は穏やかで、笑みも作らない。相手を軽んじない、いつもの誠実な調子だ。
「でも、ごめんなさい。そのお気持ちは、受け取れません」
理由は、深く語らなかった。今は誰かと、という言い方も避けた。ただ、はっきりと断る。
相手は一瞬だけ視線を伏せ、それから小さく頷いた。悔しさや落胆はあっても、怒りや不満を向ける様子はない。むしろ、どこか納得したような表情で、深く一礼した。
「……お時間をいただき、ありがとうございました」
短い会釈を残して、彼は人波の中へ戻っていく。周囲の視線も、すぐに散った。特別な事件として扱われることはない。学園祭の一場面として、静かに流れていく。
アイリスは、息を整えながら前を向いた。
美しく、家柄が良く、そして何より人柄が良い。ギルバートという「王手」がかかっている状況でさえ、一縷の望みをかけて挑みたくなるほどの魅力が、彼女にはある。
その事実を――少し離れた場所で、ギルバートが見ていた。
声をかけることはしない。足も止めない。
ただ、視線だけが、確かにそこに留まっていた。
彼の表情は変わらない。「王族」としての仮面は完璧だ。けれど、ほんのわずか。握りしめた拳に力が入り、目の奥の温度が氷のように冷え込むのを、誰が気づいただろうか。
自分のものだと思っていた領域に、他者が手を伸ばしてくる不快感。
そして、アイリスが自分以外の男に、あんなに丁寧に「ありがとう」と言ったことへの焦燥。
アイリスは、それを知らない。
学園祭は続く。展示は賑わい、笑い声は途切れず、午後の陽射しが中庭を明るく照らしている。さっきの出来事が、特別な波紋を残すことはなかった。
(こういうのも、もう“よくあること”なんだ)
二年生になり、卒業が現実味を帯びてきたせいか、周囲の空気はどこか変わっている。将来の話、家の話、婚約の話。そういったものが、冗談では済まされなくなってきている。
アイリスは、歩きながら考える。告白されたこと自体に、動揺はなかった。断る言葉も、すぐに見つかった。
これまでは、深く考えなくてもよかった。誰かと特別な関係になることを、急かされることもなかった。
けれど今は違う。
学園祭の話題ひとつ取っても、自然と「ペア」が前提になる。後夜祭のダンス。卒業式の夜。誰と並ぶのか、誰の手を取るのか。
夢の中で聞いた声。
軽くて、無責任で、それでいて妙に逃げ場のない言葉。
――選びなさい。悩みなさい。
はっきりと思い出せるほど鮮明じゃない。
けれど、その余韻だけが、今も胸の奥に沈んでいる。
誰かを選ばなかった未来。誰かを選んだ先の未来。そのどちらもが、ほんの少しずつ、違う方向へ転がっていく気がしてならなかった。もし、間違えたら。もし、軽い気持ちで選んでしまったら。
(……その先で、誰かが、傷つくこともあるのかな)
理由は分からない。確かな根拠もない。
ただ、胸の奥で、小さな警鐘のようなものが鳴っている。
笑い声と音楽に包まれた、何事もない一日。
学園祭は続いていく。
けれどその裏で――「選ぶこと」からはもう逃げられないのだと、世界が静かに告げている気がしていた。




